クインテットビショップの還幸

第1章 巡る波紋、軋む歯車



「で、うちの坊ちゃん。隣国に逃げてた、と」

椅子にだらりと腰を預け、下品な国王を育てた下品な師はさも楽しそうに笑った。
「笑い事じゃない」と一蹴して、もう何度目かわからなくなったため息を零す。

「ただでさえベルトは、国内での立場は危ういんだ。それを封じ込める為の大人しくしていなければならないというのに、あいつは……」

「まぁ、あいつの性格上、一つところに落ち着く、ってぇこと自体無理だろうからなぁ。まだ国外だっただけ、配慮はしたんじゃねぇ?」

「うぉ! やっべぇ、ザッハトルテ!」

「厨房借りて焼きましたのよ。坊ちゃまの大好物」

真剣なやり取りの背後。
上がった頓狂な声に、騎士の眉間に皺が刻まれた。
僅か振り返り、

「……だと思います?」

「……わりぃ。あんま自信なくなったわ」

乳母が持って来た塊に噛り付く様まで捕らえてから、師は漸く頭を抱えた。

「帰って来た時は、もう少し大人しくしててくれるものかと期待はしたのですが」

「見事外れだった訳だ」

「まぁ、奴に限って期待通りいってくれることはないとは思いましたが……」

件の本人については、無視することに決めたらしい。
上がる奇声を気にも止めず、騎士は傍ら、歩み寄った従者から封書を受け取った。
開き、またしても顔をしかめる。
めくって一枚、半眼で頭をかく。

「誰から?」

「……父からですね。何のことはない、金の無心です」

ざっと目を通し、一言。
ため息まじりに端を揃える。

「へぇ、お前ンとこって、名門じゃなかったっけ? 指折り貴族とか」

「昔の話ですよ。一時期なんか、本当に没落してたくらいで……。後継者だって、弟がいますからね。養子は大人しく金を渡していればいいと」

「養子なぁ……それでよく、王族騎士なんかになったもんだ」

「騎士と言えば、死に役ですからね。敢えて俺を出したという面もあったみたいです。直系は可愛いという奴ですよ」

「直系でも愛されない坊ちゃんといい……お前ら、大変だなぁ!」

「孤児からはい上がってきた貴方には言われたくありませんねぇ」

そう言って、騎士は少しばかり笑った。
そして、手紙に目を移し、一度きょとりと目をしばたかせる。

「ん、何かもう一枚……」

呟いて、手を止めた。
刻まれた皺が、見る間に深くなる。

「ベルト」

「ふぐっ!」

がっついていた影が止まる。
あ……いや……と僅か言い淀み、

「俺、お前の分食ってねーぞ! 今……残そうと思ってたところ……で」

「いいぞ。全部食べて」

直ぐさま否定された言葉に、今度はこちらがきょとりと目を丸くして、我らがお姫様はフォークくわえたまま疑惑の目を向けてきた。
振り返らない背。
何やら、妙な雰囲気になってきたなと思いつつ、粗雑の師は肩をすくませた。
奴らの距離感は分からない。

「……陛下の所に行ってくる」

「あ? クラウスの? ちょっと待て、俺も行って」

「それ」

漸く振り返った騎士は、ニヤと意地悪く笑う。

「残すなよ」

……嗚呼、そういうこと。
一瞬、虚を突かれた彼女は、苦虫をかみつぶしたような顔をして、ぐぬぬと唸った。

  *  *  *

「それで、何だって? 坊ちゃん取り残してでも話さなきゃならねぇことって」

わざわざ抜け出した先。
もはや取り繕うことも止めたらしい沈黙を守る騎士と、たまたま居合わせた女史の元、書類が山と積み上げられ、完全に埋もれた中から「えっ、兄さん呼ばなくていいんですか?」という声が。
新たに王座を得た少年はもはや髪の先も見えない大量の書物の中、一応存在はしているようだ。
騎士は、小さくひとつため息をついた。

「弟から連絡があったんです」

言いづらそうに語尾を濁し、口を開く。
すると、その言葉に覚えがあったのか、大量の書物に埋もれていた顔がひょこりと覗いた。

「デルンブルク大佐ですよね、海軍枢機卿付きの。彼は頭が切れますよー、報告書も読みやすいですし。ヘクトフォーフェンが褒めてました。あの人、偏屈で有名な大臣なのに。確か、今はスウ゛ェロニア駐在武官だったと思いますけど」

「ええ。我が弟、ディートリヒは、ご存知の通り、スウ゛ェロニアにいましてね。地位ながらにいろいろと情報を流してくれるのです」

勿論、発表前のものですけど、と付け加え、騎士は懐を探った。

「今回、父より届いた書簡に、こんなものが入っておりました」

差し出される紙片。
殴り書かれたようなそれは粗雑で、アルファベートながら意味を解さない羅列があった。
いや、共通するところがあるにはある。
少年がうむむ、と唸っていると、ほんの少し微笑んだ騎士が「ラテン語です」と呟いた。

「我々兄弟は、幼い頃から高度な教育を受けて来ました。聖典である聖書の原本はラテン語。故に学ばされた古代言語ですが、昔から我々はお互いだけに通じる秘密言語として使用してましてね。父は、その意味を解しませんので、そのまま封書に入れたようなのですが……」

ことり。
置かれた指が、流れ跳ぶ、文字を辿る。

「ここには、こう書いてあるんです。

《王子付きが動いた、近々我が国の王冠を差し出さんと迫るだろう》

と――」

空気が、ぴしりと。

「ちょっ……!」

「何……っ、それ、どういうこと?」

上がった問いは、師と女史のもの。
かの少年陛下すら目をむいて固まっている。

「この場合の要求というのは、察してしかるべき、王族どうしの婚姻を意味すると思われます。して、スウ゛ェロニアに現有する、外交カードたる独り身の王族はただ一人」

「直系王子、カミーユ・ビュケ……!」

「ちょっ……ちょっと待ちなさいよ! 王子様が、婚姻を求める、ってどういうことか解ってんの? あいつは、もはや子供の産めない身体なのよ。それは公式発表で各国通達が出てるってのに、何で敢えてあいつなのよ!」

最初に吠えたのは、女史だった。

「分からない。特に、あちらは一人息子の筈だしな……。スウ゛ェロニアには、あいつに対してそれ以上の価値があったのだろう、としか今は言えない」

「おいおい……もし、そうなったら厄介だぜ? 今、坊ちゃんという指揮官を失えば、ベルンバルトの力はがた落ちになるだろうよ。特に、俺の御する特務部隊は、ベルンバルトじゃなく、アーデルベルト本人に忠誠を誓ったやつらばっかだ。前線から引っ込んでる今だって、若干統率が乱れてンのに、これ以上何かあったら、抑え切れる自信ねぇぞ」

「……少なくとも、これは公式発表ではないで何とも言えません。気のせいだといいんですが、生憎あの子のカンはズバ抜けて当たってしまうものでして……」

「まぁ、本気であいつを嫁に貰いたいってんなら、そりゃ相当の物好きというしかない……かもしれんが」

「現状、奴に正式に政略的婚姻を求めた者はいません。……個人的にアプローチしてきた奴は例外はいますが」

「でも、西の国とはあんまり仲よくなかったんじゃなかったっけ? あの馬鹿がぎゃあぎゃあ騒いでた気がするんだけど」

「嗚呼。息子の方は分からんが、少なくともあの女王はベルトのこと嫌ってるな。政権交代した後は、殆ど国交断絶に近い扱いだったしな」

「うぅん、わかりませんねぇ。スウ゛ェロニア王子って、なんだか底が知れない感じはしましたが」

「てか、欲情すんのかな。あの身体に」

「ぐっ」

「身長でかいし」

「胸なんかないし」

「その前に、筋肉しかないわよ、あいつ。もう中身も含めてホントに男! 男と言って、差し支えない」

「…………最悪なことを言いましょうか?」

少し、笑って、騎士は目を細めた。
歪んだ、いびつな笑みを。

「この世界、結婚するのに、愛なんかいらないんですよ。性交渉も、下手をするとその存在すら、ね」

身分として王座を埋める為の婚姻が繰り返されてきたということ。
時に陰謀と、時にパワーバランスを保つ為差し出されるそれは、いわば国というもののいけにえにされる為、存在を許されるということ。
感情等端から考慮されない。

そう――前王と王妃の末路のように。

「それで」

穏やかな瞳をうっすらと開き、少年が呟いた。
この数カ月で、格段に強い光を宿すようになった青色は、柔らかに、しかしぬかりない意志を持って煌めいていく。

「デルンブルク将軍は、どうしたら最善だと思いますか? 兄は……アーデルベルトは、どういう対応を取ると?」

「……間違いなく、激昂するでしょう。あいつの望みは、ベルンバルトの独立――同盟は許容できない筈だ。利用されるのが自分だとすると、尚更」

淀みなく口にした騎士に、彼はそうですか、と一言。

「では、兄はもし正式に要請があったとしても、呑むことはない、と」

「はい」

「兄には伝えるべきか……そこはどうです?」

「やめておいたが賢明ですね。今のあいつなら、怒って何を起こすか知れない」

「……解りました。兄さんのことを1番理解しているのは貴方です。今回の件は、全面的にデルンブルク将軍の意に従いましょう」

誰も皆、公言せぬように言って、少年は眉根を寄せ、再び積み上げられた紙面へと向き直った。
かつての兄の背を追うような姿は、不器用ながらに寄り添おうとする兄弟の、唯一に近い自己主張だ。
立ち上がる各々。
最後尾の退室前、頭を下げかけた騎士に、「デルンブルク将軍」と涼やかな声がかかる。

「兄さんは元気ですか? 最近、忙しくて、顔も出せませんので」

「……元気ですよ。寧ろ、ありあまっているのか、手に余るくらいで」

少年は、ほんの少し口元を緩めた。

「将軍」

「はい」

「兄を……よろしくお願いします」

最近、無邪気過ぎる気がするので。
付け加えられた言葉に、騎士も思わず目を細めていた。

あいつの些細な変化に気付ける程、この子供は歩み寄ろうとしている。
あいつの本来の姿は、寡黙だ。
嫌に騒ぎ立てるのは、何かを隠そうとしているから――。

静かに頭を下げ、扉は再び締め切られた。
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