クインテットビショップの還幸

第1章 巡る波紋、軋む歯車


「あちらの島国は何をしているのかしら。やはり駄目だわ。あそこは孤島ですからね。何もかも他人事よ」

こつり、
こつり。

麗しき華の都。
洗練された装飾に溢れ出る気品。
その中心、飾り立てた玉座に埋もれ、我が母君はいらだたしげに爪を噛む。
美しく纏められた髪が僅か崩れ、白く塗られた肌にはらりと落ちた。

「でも、戦が起きていないだけマシなのではありませんか? 因縁とはいえ、今あの国に戦争を仕掛けられると、我が国は完全に不利だ」

「そうは言うけれどね。水面下では横暴なものよ。我が国の貿易船を拿捕して、物資を奪っていのは分かっているもの。全く……捩伏せるだけの力がないのが忌ま忌ましい」

きぃきぃと、上がる金切り声から意識を外し、窓外に視線を送った。
美しい緑。
そう、ここは楽園の地。

「疲弊した軍を立て直すには、時間がかかるわ。それまでこの辱めを受け続けろと言うの」

「しかし母上。先の戦で海軍力が目減りした以上、海を隔てた向こうへ威圧をかけることはできません」

「そう、そうなのよ! いくら陸軍がいたって無駄。あのフローウ゛ァンの馬鹿夫婦が動いてくれれば何とかなるのに……あの人たちは、馬鹿よ。中立中立って、結局は自分達が楽しければいいだけなんだわ。せめて陸軍力が今の二倍はあれば。そしたらあっちにも牽制がかけられるっていうのに……!」

嗚呼、もう何とかしましい。
母は、他人を卑下するのが好きだが、自分の醜さに気付いてはいないのだ。
ため息ひとつ、変わらぬであろう愚痴に耳を傾けていると、ふと引っ掛かりを覚えた。

「……そうか、陸軍を二倍に……」

「えっ? どうしたっていうの?」

不思議そうに見つめてくる瞳。
刻まれた皺の一つ一つすら眺め見て、俺はその考えの可能性に思わず口元をあげた。
嗚呼、そうか。
その手があった。

「ありますよ、母上。奴らを牽制する方法が」

「……何ですって?」

訝しげな彼女を尻目に、俺は笑った。
恐らく、残忍な笑みで。

「手はあります。血を流すかも知れませんが」

手段を問わない覚悟はおありですか?

問うと、皺の浮き始めた目元が、僅か震えた。

こつり、
こつり。

「お帰りなさいませ、陛下」

「お帰りなさいませ」

「長旅、お疲れのことでしょう。取り敢えず本日はお休みに?」

靴が床を叩く。
並んだ臣下たちが一様に頭を下げる中、羽織っていたコートを脱ぎ、ため息をつく。
すかさず侍女の一人が受け取って、深く一礼を返した。
あのコートは、直ぐさま手入れを施し、自慢のクローゼットにしまわれることだろう。

「今回のベルンバルト訪問に続き、何故内地の慰問を入れたのですか? そう急く必要もなかったでしょうに……」

傍らに寄った初老の男が、気遣わしげに呟いた。
有能な秘書官である彼が憂慮するのも当然、私はあえて加えた長く重い責務に再びのため息を零した。

「普段なら、お嬢様を気遣い、直ぐさま帰郷されますでしょうに」

「……そのお嬢様が原因なのだとしたら、理解もできますか?」

言い訳がましく呟く。
秘書は、一瞬目を見張り、しかし己の領分でないと見切ったのか、直ぐさま前を向いた。

「お嬢様がお待ちです。何やら、お兄様にお聞きしたいことがあるのだと」

「嗚呼、分かっています。どうせ訪問のことでしょう……行き先があの国でしたから」

私の心は重かった。
疲れだけではない。
私には憂鬱なことがあったのだ。
ベルンバルトを訪れたことを悔やむ程の困惑は、やはりというか、あの忌ま忌ましい縁戚に端を発していた。

突然の引退。
性別の暴露。
もし私がこのような立場でなければ、こんなにも悩むことはなかったのだろうか?
嗚呼、忌ま忌ましい。

「コンスタンツェ、入りますよ」

通された部屋。
扉を開ける前、声をかけると、中から楽しげな歌声が聞こえてくる。
ノブを回すと、明るい色彩が広がった。
その中央。

「お兄様!」

私の姿を認め、ぱっと表情を華やがせる。
宝石と例えられて久しい、我が妹。

「お帰りなさいまし! 随分ながい不在でしたのねぇ。国を訪問されるだけだと聞いていましたのに」

「……まぁ……いろいろ、あったんだよ、うん」

適当に言葉を濁すも、愛しの小鳥殿は待ってはくれなかった。
で、と新緑の目をキラキラ光らせ、続きをねだる。

「向こうは……ベルンバルトは、いかがでしたか?」

「あ……嗚呼。相変わらずだったよ。国も……彼も」

曖昧にしておきたかった言葉も、純粋な瞳に見つめられては無力だ。
苦々しくも付け加えた単語に、小鳥は嬉しそうに頬を緩めた。
目に入れても痛くないという故事があるだろう。
早くに親を亡くした私にとって、唯一に近い肉親である妹、コンスタンツェはそのまま相応しい存在だった。
兄のひいき目を抜いても、麗しく育った妹。
我が儘を言わぬ気立てもよい彼女は、本当に我が国の至宝だ。
王族であらずとも、引く手は数多だろう。
しかし――、と私は再会の喜びもよそに、一人眉を潜めるしかなかった。
嬉しそうに頬を染める妹。 彼女が欲しかったのは、国の話でも、式典の話でもない。
今回の訪問で、私が頭を痛めることになったのも、勿論そこだ。

「そうですか……よかったぁ……」

この愛しい愛しい至宝は――あろうことか、あの野蛮な縁戚殿に、恋、しているのである。

「嗚呼、そうそう。慰問の方はいかがでしたか? 今年は冷害の影響が、とお聞きしました」

唐突に話題を変えるのも、勿論照れ隠し。
問われたことには適当に返しつつ、私は作り笑いを浮かべるしかなかった。
何故、敢えてのアーデルベルトなのか。
他にも優しい男はたくさんいるだろうに、何故あの下品で結婚するに最悪なあの男でなければならないのか!
何度も反芻した問いに、それでもまぁ、本人が望むならくれてやらんこともないと考えていた己が恨めしい。
嗚呼、アーデルベルト。
お前は卑怯だろう!
まさか奴が女だったなんて――!

「いいなぁ……私も、ベルンバルトに行ってみたいですわ……」

どこから話題が戻ったやら、はたと意識を取り戻した。
いやいや、それは駄目だ!
奴が女だったなど知れれば、この雛鳥のような子は傷ついて立ち直れない!

「いや、ほらコンスタンツェ! あっちも、南方のいざこざで忙しいんだ! 次、次の機会に行けばいいだろう。な?」

「お……お兄様?」

「嗚呼、お前に土産があったんだ! 持ってこさせるから少し待って……」

「やほーい! 俺様が遊びに来てやったぜーい!」

固まる世界。
引き留める部下たちにまみれて、

やはりというか、ドレス姿の奴がいた。

「…………え?」

きょとり。
目をしばたかせる姫君を横目に、私は今まで出したことないであろう瞬発力をもって、件の首根っこを押さえ込んだ。
影に隠れるように顔を付き合わせ、何やら困惑気味の偽レディを睨み上げる。

「貴方は……っ、ホント空気を読め、空気を!」

「えっ……空気って、読むもんじゃねぇだろ。吸うもんだ」

「そういう意味じゃないですよ! 嗚呼、もう今やそちらの国にこの言葉を輸出していなかったことの方が腹立たしい! まぁいいでしょう。それはともかく、何故我が国に来たんです!」

「だって、暇なんだもんよー。俺、今までずーっと働き詰めで睡眠だって最小限だったのに、急に《政権に関与しないため何もするな》って言われても、何ものこんねーべ?」

「何かあるでしょう、何か……」

「戦のひとつでも起これば、戦場に出て遊び」

「それは止めて下さい迷惑極まりない。それに、何なんです、その恰好は……今更身長180のガタイのいい男性が女装したところで、目に痛いだけです。いや、毒だ」

「……てめぇ……お前んとこの国旗、うちのに変えたろうか……。これも、大臣たちとの約束なんだよー。俺が、余計なことしねぇように、ちゃんと女の恰好しろ、って」

「第一、サイズがないでしょう普通。ほぼ成人男性用なんて」

「成人男性言うなよ、気にしてねーけどさぁ……まぁ、特注だわなぁ」

「歩く殺戮兵器ですか」

「……あ?」

「ベルンバルトは悍ましいものをお持ちなんですねぇ、連戦連勝の武力国家なだけはある」

「てめぇ……それ以上言ったら、本気でネインクルツの名前が地図から消えることになるぞ」

「あのぅ……」

険悪になりはじめた空気。
背後からかかった涼やかな声に、思わず二人して眉間に皺を寄せたまま振り返る。
早朝、旭に輝く朝露を集めたような、淡い黄金色の長い睫毛に縁取られた瞳が、一瞬たじろいだ。
男衆(片方は正式には女だが)は後に言う。
やっべぇ泣いた、と思った、と。
普段公の場で、忸怩たる騙しあいを繰り広げ、鋭い顔など互いに見慣れていた人間と相対していた為、つい配慮が抜けたのだ。
しかし、そこは流石は一国の王女。
決意篭った瞳に口元を引き攣らせ、叫んだのだ。

「あのっ! 私には情況を説明して貰えないのでしょうか……っ!」

声だけは、若干震えていたが。

「はぁ……では、ブライトクロイツ様が、実は生まれながらの女性で、王権保持の為性別を偽って生きてきた、男装の麗人だと……」

混乱からだろう。
僅か焦点のぶれた瞳を揺らめかせて、我が国の至宝は呟いた。
精一杯情報を整理しようとしているらしいコンスタンツェの前に、私たちは隣どうし、腰を下ろしていた。
侍女が入れてきた珈琲を音を立て啜り、奴はまぁなぁ、と鷹揚に返した。

「正確に言うと、男装ではあるけど、麗人じゃねーがな。俺の場合、幼い頃から薬やら何やらで性別としての成長止めてっから、今更女にももどれねぇし、子供産めねぇし」

王族としては致命的だわなぁ!
カラカラと笑った頭を思いきり叩いた。
ホントにこの男は……っ!
少女は俄かに固まっている。
私の常にない暴挙に言葉を失っているのか、己の恋い焦がれる人物が同性だったという衝撃からか。
……恐らく、後者だろう。
嗚呼、コンスタンツェの心境はいかばかりか!
完全に掬い上げることは不可能だが、察するだに私の方が泣けてくる。
だから、黙って諦めさせようとしたのに……。

「こっ……」

眉間、僅か皺を寄せた彼女が、勢いよく身を乗り出した。
……えっ?

「今度、我が国の服飾師にも作らせましょう! 恐らく、やりようにもよると思うのです。やはり、長身というのは武器と言われますし……」

「いや、コンスタンツェ……彼の場合、高すぎてネックにしかならないから……」

「いえ、お兄様! 背がお高いということは、比例して脚も長いということ。腰やらなにやらを縛れば見栄えしますわ!」

「……長くても、筋肉質だということに気付いてくれ、妹よ……!」

「嗚呼、その前に化粧……化粧を何とかしなければ!」

普段おしとやかを絵に描いたような妹の暴挙に、、思わず涙が零れた。
嗚呼コンスタンツェ……見事な現実逃避だよ。
しかし残念ながら、渦中の人は特に興味もないらしく、珈琲片手につまらなそうに鼻を鳴らした。
妹に気付かれることはないだろうが、思わず襟元を引っつかみ、驚く耳元へ口を寄せていた。

「……全く、こうなるから嫌だったんですよ。貴方には本当に配慮というものがない」

「しゃーねぇじゃんよぉ。それに、配慮するべきものもねぇぜ。俺のコレは公式発表で、近隣諸国にも出回ってンだし」

だから、それをコンスタンツェは知られたくなかったのだ……口をつぐんだ。
彼は鈍い。
馬鹿で実直で女好きではあっても、他人の淡い恋心といった機微には相当に疎いのである。
恐らく、コンスタンツェのそれも気付いていないのだろう。
話題が逸れたのが嬉しいのか、にやと口元を歪めた彼が、それより、と目を輝かせる。

「遊郭行かねぇ? 久々にぱぁーっと酒飲みたいんだけど」

「だから、貴方のそれはいつ治るんですか! 男性でもそこまでおおっぴらにできる女癖の悪い人はいませんよ!」

「はあぁ? いるし! 特務部隊の奴らは開けっ広げだし!」

「それは、特殊な例でしょう! そこまで下世話な女好きで、自身が女だったなんて……。ホント……信じられない」

「なっ! うっせぇ、女の柔らかさとか丸さは絶対美なんだよ! 神様に謝れ!」

「だから、大声で叫ばないでくださいそんなこと! 例えそう思っていたとしても、憚るのが基本ですよ!」

「あぁ!? 好きなもんは好きなんだろうじゃあいいじゃねぇか、さいっこうだろう! あのバインバインの乳とか、」

ごとん。
開かれる扉。
躍り込んだのは、彗星。

「尻……っ」

がつんっ。
油断した背後に華麗に肘打ちを喰らい、目の前の体は大地に沈んだ。
現れたのは、半眼に怒りを浮かべた彼の騎士の姿。
慌てて追い掛けたのだろう、髪は乱れ、服は所々裂けている。

「……邪魔したな」

遠慮もヘッタクレもなく、主であろう人の首根っこを掴んで引きずる後ろ姿に、半ば茫然としていた私は小さく呟いていた。

「ご苦労様です……心から」
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