クインテットビショップの還幸

第3話 国と国とを背負う者



兄のにやけ顔をちらと見遣ったゲールハルト公は、あからさまなため息一つ、軽く肩をすくませて見せた。

「貴方がいかに豪傑非道者かは、僕が一番知っていますからね。何度戦場に供をさせられたことか……。今話しているのは、うちとそちらの外交云々ではありません。何故貴方が王座を退いたのか、ということです」

「寂しいのか?」

努めておちゃらけた兄に呆れ、ゲールハルト公はうんざりと目頭を揉んだ。

「突然継承と言われても、こちらが困ります。諸国もそうです。そんなことばかりやっていたら、国家としての信頼を失いますよ。就任早々ケチがついたと言われても仕方がない。それにしても……本人には言っておいたのですか? 心底驚いた様子でしたが」

「言わねばならんものか?」

「……言ってなかったんですね」

もはや言葉もない隣国の賢者に、兄はにいやり、キセルを突き出した。

「いいか、これは、奴が生まれた時から決まっていたことなんだ。
寧ろ、奴が生まれる前からな。俺には、王位継承権なんかない。
解るか? これは不可避の緊急事態だったんだ。俺が王座に着かなければ、国は解体、千々に引き裂かれた各地は血で染まり、列強による分割統治が待つだけ。正当なる王位継承者が成人するまで、全てを黙して国を護ること。恐怖をもって、次代の華やかたる時代の礎を作ること。それが、俺と父、ひいては神との契約だった。
ただ、それだけのことさ」

得意げな兄の手は押しのけられ、煙りに気分を害したのだろう、見事な仏頂面に「解せませんね」と呟きが漏れた。

「これから貴方はどうするというのです。大人しく将軍職にでも収まると?」

「暫くはな。折りを見て……クラウスが現状を甘受して、歯車が上手く巡りはじめたら、大人しく蟄居して朽ちていくに任せるさ。国に王は二人いらない」

分かるだろう?
傾げられた首に、ゲールハルト公がため息をつく。

貴方はいつだってそうだ、
唇が紡いだ。

「で」

話を変えんと開かれた唇は、嫌悪と僅かな諦めでヒクリと釣り上がる。

「何故君の背後にべったりと、某国皇太子が張り付いているのかな? ご隠居君」

「気にするな。笑いたきゃ笑え」

「えぇえっ!? 何それ、ベルト酷くない? あし、出来るかぎり愛を伝えようと一生懸命なンに」

「……あの」

「皆まで言うな。頭が沸いているのだ」

畳みかけるように紡いだ兄は、心底嫌そうに煙りを吐き出した。
青年の言葉の通り、踏ん反り返る兄の背後には、べったりと張り付くように成人男性がくっついていた。
名を、フォレスト。
南の海運大国、フローウ゛ァン皇国正式な皇太子である。

かつて僕が幼い頃、それまで世話をしてくれた姉やを、兄が突然罷免にしたことがあった。
突如空いた穴埋めに、兄の乳母がついてくれた。
主が戦場に行って手持ち無沙汰だった彼女は、これぞ好機と兄の話をしてくれた。
「ほんとは言っちゃだめなんだけどね」で始まる兄の武勇伝は、ただでさえ怯え切っていた僕に、ほんの少し、兄に親しみを持たせてくれた。
――すぐさま叩き崩されるのだが。
兄には、幼なじみが二人いる。
まだ彼らが幼かった頃、微妙なパワーバランスを保つ口実に、三年のスパンで国の跡取りが差し出された。
西のスウ゛ェロニア帝国王子カミーユ、
東のベルンバルト王国第一子アーデルベルト、
そして南のフローウ゛ァン皇国皇太子フォレスト。
留学の名目で、一年ずつ各国を巡った子供たちは、親の醜い意図を置き去りに、深い交遊を結んだらしい。
それを知る民らは、彼らに願った。
将来、この子らが互いに紡ぐ歴史が血塗られたものではありませんように。
僕には想像がつかない、兄の幼少時代。
無邪気な交流を結んだ幼子たちは今、幾年が過ぎ、実際国を担うのはベルンバルトの乱神、アーデルベルトのみなれど、未だパワーゲームは終わっていない。
彼らは意図せず、歴史に飲み込まれたのだ。
兄は非情の戦神に。
文化立国スウ゛ェロニアの王子は、実権を握る母君に頭の上がらずとも、恐ろしいまでの策略家。
海運大国フローウ゛ァン皇太子はというと、

「でも、今回のことで、よぉわかっちょぉが。ベルト、漸くあしンとこの嫁に来る気にな、」

「ならねぇよ! しつこいなぁ!」
これである。
何を思ったか、この人のよさそうな彼、同性の兄にぞっこんなのだ。
事あるごとに嫁に来いと騒ぎ、暇さえあれば花だの交易で手に入れた異国の菓子などを貢ぎ、口説きにやってくる。
少なからず関わりのある縁戚殿が頭を抱え、当の兄はというと長年の積み重ねか、諦め半分疲れた切った顔をみせた。

「今回は、あし、ちゃんとお呼ばれしとンよ? ベルト、やっぱなんだかんだで、あしに会いたくて」

「政治的意図だ馬鹿者が」

「つーん! そんな言い方せんでもよかろーにさ。ちゃあんと祝ってるんよォ? だって、クラちゃんが王になるっちゅうことは、ベルトがフリーになるってことだろ? 今まで、国が捨てられんから嫁げンかったんじゃし、もう晴れてしがらみもないじゃんか! さぁ、心おきなくあしの胸に飛び込んでおい」

「アハハ、面白いこと言うなぁ、フローウ゛ァン皇太子閣下は! さぁ、愉しませてくれたご褒美だ。刺殺、絞殺、撲殺、心おきなく選びたまえ!」

「フォレスト! 君は相変わらず論点がずれすぎだ! 同性婚は、歴史的にも宗教的にも認められないでしょうに!」

流石に二人相手に怒鳴られると、かの変人王子も驚いたのか、大きな瞳をぱちりとしばたかせた。

「いや、あしとベルトならなんとかなろぅに。なんつっても、運命じゃもの。それに、二国関係についても、いいことだと思うんよ。ほら、ベルトんとこは陸戦にゃ強いけど、海にゃ弱かろ? あしンとこぁ、かろうじて地続きだけど、ほとんど海に囲まれとるやんか。おかげで中継貿易出来とるけど、やっぱなぁ」

「ンだよ。完全独立中立国が不満だって? 崇高じゃあねぇか。誰に何があっても、自分しか守らんなんて、誰よりも公平で賢明だ」

「だぁかぁらぁ! あしはベルトの心配をしとるンよ。土地が案外肥沃だし、何より軍事力が絶大だ。ベルンバルト取り込めば、ここら一帯を抑えられる、って歯がみしとるやつだって山とおるんよ。ベルトの性格から、ベルンバルトが戦線拡大させとる思われちょおが、ホントンとこ、相手の侵略に対する防衛戦線が殆どじゃんか。あぶのぉていかんじゃろ」

「でも、俺は負けん。それに、勝つ以上、見返は貰うしな」

「あら? 君が吹っ掛けていたのじゃなかったのか。どちらにしろ、我が国としては、下手ないさかいに巻き込むのはやめていただきたい」

「しゃーねぇだろぉ? 半同盟国家なんだからよ」

「じゃから、あしとベルトが結婚すれば、最大の独立国ができるんよ! 誰にも狙われんようなるし、誰にも侵略なんかされん! ベルトも血を浴びンでもいいし、もしベルンバルトになんかあったら、あしも大手を振って出ていける!」

「お前、分かって言ってンのか? ベルンバルトと統合するってことは、あのスウ゛ェロニアと対立するということだぞ。俺と違って関係も良好じゃねぇか。それに、あれと――カミュといがみ合うことになる」

もうひとりの名を出し、兄は苦々しげに口を閉じた。
かつて友好を交わした幼子たちは、今や道をちがえてしまった。
兄は独裁をひた走り、その力を疎むスウ゛ェロニアの現女王が取った政策により次代王カミーユ・ビュケは兄と敵対、唯一の中立国であるフォレストの父母たちは無関心を決め込み、海軍部長という要職を得ながら未だ一軍人としてしか認められていないフォレストは完全に手を出せない。
今や、戦機はいつやといい状況であった。

「で、俺に3番目の后になれってのか? あの臆病者のために?」

馬鹿らしい。
呟いた言葉は、紫煙に溶けて消える。

「正室、あけちゃるよ?」

「いらんわァ!!」

怒鳴り過ぎて疲れたのだろう、完全に堕落の体勢に入った兄に、背後の人がくすくす笑う。
兄の調子を乱すのは、やはり彼くらいなものなのだ。

もうこの話題は終わり。
宣言に近く手を振った兄の遠く、締め切られた扉の先から小さな喧騒が響いた。
先は廊下。
訝しく顔をしかめる一同に、それはゆっくり近づいてくる。
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