クインテットビショップの還幸

第13話  騎士、そして死神を負わされた娘



俺が、契約の代償として差し出されたことは覚えているか?

――あの、父さんが神と契約した、ってやつですよね。

そうだ。
まぁ、事実関係はわからんが、少なくとも父はその存在を恐れていた。
狼の姿をした神は、土着だ。
唯一神を掲げるベルンバルトにとっては、異端でしかない。
そんなものに頼らねばならない程、当初の父は窮していた。

代償となるのは、唯一純潔の乙女。

まだ赤子だった俺は、どういう手を使ったのかは知れないが、国の繁栄と引き換えに、神の嫁となることが決められたのだ。
幼き俺と引き換えに、父は己が蔑む神と契約を持った。
当時国は、父とその弟――今は亡き叔父君の間に、望まざる継承内乱が起こっていてな。
叔父君は穏やかな方だったから、囃し立て暴走する周囲に兄との仲を裂かれることに頭を痛めていたが、父は違った。
疎ましかったんだ。
元より弟に対する嫉妬というものが燻っていたらしい。
落ち込む叔父を慰めるふりをしながら、幾度も配下を送っては失敗していた。
継承一位であった父が、俺の存在を偽ろうとしたのもそこにある。
後継者が居ぬことで、王座を追われるのが怖かった。
だから俺を男と言い聞かせ、しかし暗殺は一向に上手くゆかない。
母も父の支配に対立し、俺の偽称は明るみになりかねない。
国の安定を。
その為には、弟の死を。
唯一神に祈り続けた父は、変わらぬ現状に狂いかけ、遂に悪魔と断じる土着神に手を出したんだ。

ひとつ、誰にも愛されず、神にのみ付き従うこと。
ふたつ、恒久的に操を守ること。

父が告げたのは一つ。

アーデルベルト。
お前は幸福になってはならない。
誰にも愛されず、誰にも顧みられない。
お前の不幸と引き換えに、このベルンバルトは永遠の安寧を得るのだ。

――横暴……ですね。

そうでもないさ。
俺自身、小さい頃から言われ続けていたからそんなものなのだと思っていたし、この様に口が出せるのは、それこそ他人の横暴でしかない。
少なくとも俺は、そんな環境しか知らない。
故に、それが残念だと思ったことは、ない。
それに……この国には何万の民がいる。
彼らの安らぎを得られるなら……安いものだ。

程なく、継承内乱は叔父の死をもって終結を迎えたが、父は、怖くなったのだろうな。
俺を差し出し、得られた奇跡。
それは、自分をも縛る枷となる。
父は、とにかく俺に言い続けた。

お前は神の嫁。
人並みの幸せを望もうとするな。
異性を知らず、永久に一人居続けなければならないのだ。
永久に……そう、死が終わりを告げるまで!

だからこそ、思考する力を摘む為教育を禁じ、ただ従うだけの傀儡に成そうとしたのだ。
しかし、母の一派は微力ながらも力を持ち、縛り付けねばならない俺を、人として育てようとする。
父にとっては、忌避すべき事だった。
女として、人としての意識を持たれてはかなわない。
死ぬ迄純潔でいさせねばならぬのに。

――死ぬ迄……。

嗚呼。
しかし、そこで父は気が付いた。

《そうか、今奴が死んでも約束自体は守られる》

――だから、戦場に。

そうだな。
叔父にはあれだけ非道な手をとりつつ、自分の子には甘いものだったが……しかし、当時の南は最悪だった。
十にもならん子供が生きていける場所ではない。
死ぬのなら、見えぬところで死んで欲しい。
湾曲的な願いは、だが俺は生かされた。
付き従った幼い騎士に、融通してくれた指揮官に、厳しくも根気よく守ってくれた兵たちに。
たくさんの人に生かされた。
得た知識は、父が禁じたものばかりで、俺の人生の糧になった。
父にとっては想定外だったろう。
死を願い、生きる力を得てしまったのだ。
同時期、その動きに気付いた母は、配下を使い、父へ直接的な妨害活動に出始めた。
母は、母だけは俺を取りもどさんと奮起した。
俺が生まれた時、側にいた者――医者に看護婦、メイドに至るまで、全ては母の味方だった。
父は憂いた。
俺が女であることを、隠し通すことは難しい。
死すら願って戦場に投入しているのに、当の母は新たな子を成すことができない。
それどころか、父を憎み、密偵を放つ始末なのだ。
思い余った父は、諸悪の根源とした母を――秘密裏に暗殺したのだ。

――酷い。

酷くはないよ、クラウス。
これが俺達の世界。
お前が継ぐ為の世界なんだ。

母は病死で片付けられて、母の一派は取り巻き全て、何等かの理由をつけ駆逐された。
新たな伴侶を得る間での間、俺の存在はただ据え置かれることとなったんだ。
もし後妻を得たとしても、子が出来るには時間がかかるやもしれない。
男だけが欲しいとなれば尚更だ。
父は、いざと言う時の為、偽りの通った俺という存在を確保するとともに、矛盾はするが実弟と争った経験から、俺という異端児に早く死んで欲しいとも思っていた。
相反する願いでも、父の中では両立されていた。
俺は幸運にも生き抜いていたし、俺の生きる場所は戦場でしかなかったから、必然王城から足は遠ざかっていたが……。
それでも何とか均衡は取れていたんだ。
大臣、国民、全て王座は俺が継ぐものだと思われていたし、事実表向きとはそうなっていた。
俺はただ生きていればよかったのだ。
父に認められたくて、男として欠けたものを埋めようと躍起になった。

――父が再婚した時はどう思われたんですか?

どうとも。
ただ、そんなものかと思ったくらいだ。
父の目的が息子を得ることだとしても、正式には第一子である俺が後継者だ。
達観していたところもあった。
お前が産まれて……甘かったのだと悟ったよ。
父は、お前を真の後継者として、全ての準備を調えはじめた。
俺は、王室から遠ざけられるどころか王城に足を踏み入れることすら許されなくなり、儀式はもとより何もかも権限を剥奪され、戦場に常駐するようになった。
軍での立場だけは、確保されていたから。
死に物狂いでやったよ。
殺せと言われれば殺した。

……父の、継承争いの話をしただろう。

――叔父さんとのですよね。僕は知りませんでしたが。

父は躊躇いなく殺した人だった。
手を汚さずに、民の信頼を裏切らずに。
分かるか?
自分を聖者に祭り上げるには、悪役がいる。
絶大な力を誇り、誰より非道な悪役が。
乱された平和の先に、手を差し延べられれば、誰だって彼を望む。
俺を生かした父の狙いは、やはり国内情勢だったんだ。
俺は父の為、ひいては国の為たくさんの人を殺さねばならなかった。

――それが、あの《失われた筈の民》の正体ですね。兄さんは、皆殺し等望んでいなかった。

……クラウス。
よく聞け、それは違う。

――えっ? だって、兄さんは抹殺の命令が出た民を殺さず逃がしたって……。

確かに、俺は殺さなかった。
それは事実だ。
しかし、本質は違う。
いいか?
あいつらがどう言ったかは知らないし、お前自身俺を聖者と祭り上げたいのかもしれないが、違うんだ。
確かに、俺は逃がした。
みせしめだけを残し、策をろうして莫大な数の民を国外へ出す算段を整えてはやったさ。
だがな、それは綺麗過ぎる好意ではないんだ。
俺は、自分が嫌いだった。
認めてもらえない自分が大嫌いだったんだ。
今思えば、女だったという時点で、評価をするに値しないとした父の優しさを願うなど愚行でしかなかったが、その時だけは真実だった。
何故認められないのか、何故自分では駄目なのか。
その間でもがき、あがいて父の感情だけを欲していたんだ。
無駄なことだと知らずに。
あれはな、振り向いてくれない父への意趣返しだったんだよ。
嫌がらせだ、幼い子供が駄々をこねるようなもの。
俺は、父に気付いて欲しかった。
何故俺が、その場で民を殺さなかったのか。
何故俺が、国境に近い雪中行軍をしたのか。
何故俺が、死んだとされた数多の遺品を持ち帰らなかったのか。
何故俺が滅ぼした民の生き残りは5人なのか。
何故生き残りは真っ先に死ぬであろう年寄りばかりなのか。
よく考えれば分かるものなのだ。
意図的に手の内は見せていたから。
だが、父は気付かなかった。
嗚呼そうと目すら通さず、次の仕事を振ってきた。
絶望したよ。
こんな子供でも解ける問いすら気付かないなんて!
そして悟った。
あの人は、俺という係数がかかった時点で零なんだ、ってな。
もはや、未来等ないと言われたようなものだ。
後継者はお前がいる。
あんなにがむしゃらに生きてきて、俺に残ったのは惨めな身体と血まみれの名前だけなのか、って。
あ、は、はは。
……あの時の俺は、少し可笑しかったんだ。
狂っていた。
取り巻きは皆父によって遠ざけられていたから止める人もいなかった。
だから……あんなこと。

――……あんな、こと?

クラウス。

――何ですか?

お前、俺と初めて会ったのはいつだと思っていた?

――……兄さんの継承式典の時です。今は、もっと昔、顔を合わせていたことを思い出しましたが……。

……外れ。
俺は、会いに行ってるんだよ。
産衣に包まれた赤子だったお前に。

――えっ……?

言ったろう?
その時、俺は可笑しかった。
異常だったんだ。
そして、俺の頭には、父が叔父と繰り広げた末路があった。
将来、それは来るべき未来だ。
お前が育てば、確実に父はお前を引き立てる。
認められなかった俺は、惨憺たる名実を道連れに、死んでゆくしかない。
……後は、解るな?

――兄さんは、僕を……。

……殺しに、行ったよ。
父がしたように。

――……は……。

王城は俺の庭。
何より、俺は曲がりなりにも王族だ。
禁じている父にみつかりさえしなければ、簡単に城へ入ることはできる。
それに、城内には、僅かながら俺の息がかった者もいた。
お前の居場所も、何もかも知るのはたやすい。
しかも、相手は赤子だ。
殺すことはたやすい。
大人を殺し慣れた俺にとっては、あっという間のことだ。
だが……。

――無理……だったんですね。僕は今、ここに居る。兄さんと話しているんですから。

結論から言うと、そうだ。
俺は、お前を殺そうとした。
憎しみを持って見つめ、意図をもって首に手をやった。
でも、無理だった。
少し。ほんの少しなんだ。
少しでも力を込めれば、お前は絶命する。
俺の地位を脅かされることも、努力を否定されることもない。
なのに……何でだろうな。
何も知らず眠っているお前を見ていたら、急に惨めになってな。
十五年の努力とか、そうやって積み上げたものを一瞬にして奪われる憎しみとか、そんなもの一切を否定された気がして。
それでも何とか、力を込めようとした時……笑ったんだ。
少しだけ。
その時、初めて声を出して泣いた。
勝手な思い込みだろうが、許された気がしてな。
長らく続いた苦しみの終わりが見えた気がしたんだ。
お前が終わりをくれる。
それに気付いてしまったから。

いわば、刷り込みのようなものだろうなぁ。
幼いころから父母の狭間で残忍さを目にし、叔父とのいさかいを目撃して、戦場だけをよりどころにしてきた俺に、お前の無垢さは綺麗すぎた。
何もない所に、水を満たすようなものだ。
俺はただ愚民で、お前はただ神聖だった。
その瞬間、俺は俺だけの神を得てしまった。
国を率い、人民を統括する、唯一神。
父が宗教にそれを求めたように、俺はお前の中にそれを見つけてしまった。

――神、の。

もはや俺に、父の感情は要らなかった。
お前にさえ世界を渡せれば。
その手段は、父が持っていた。
父を求めてばかりだった俺は、対等の立場に格上げし、諾々と呑んでいただけの条件は真っ当な利害の一致になったんだ。
それまで以上に心血を注いだよ。
ライマーなんか、俺の変わりように驚いたくらいだ。
より残忍に、より凄惨に。
ある意味、俺は舞台役者だ。
悪の後には聖がくる。
お前の世がよくなる為なら、先に来る俺は、どんな犠牲も厭わない。

――……もう一人の騎士は、どうしたんですか? 兄さんには、二人の騎士がいた筈です。僕は……会ったことがないけれど。

……十五の時お前が産まれて、俺は戦場に常駐するようになった。
相変わらず王城には入れなかったし、存在すら忘れられたように暮らしたが、不幸だとは思わなかった。
神の為ならば、どんなことでもする。
神とは、信じ心の中で思うものだったからな。
ただ父にとっては違ったらしい。
お前が産まれて後、今度は父の体調が優れなくなった。
床につくことが増え、比例して神経がささくれていた。
俺自体は意図的に遠ざけられていたから害はなかったのだが、重臣である筈のライマーは、帝都に呼び出されてはとにかくいろいろと言われたらしいな。
本人けろりとしていたが。
日増しに悪くなる体調に、医師もついに匙を投げ、父は――一時的に正気を失ってしまった。

――正気、ですか?

何年かぶりに踏んだ王宮の地。
床にふせった父の目は、ぎらぎらと血走っていた。
そして、言うんだ。

俺はもう長くない。
あの子の為に人事を尽くしてきたが、しかしあの子はまだ幼く、あの子の世を見ることが出来る程、俺の命ももたないだろう。
アーデルベルト。
お前は異端だ。
悪魔だ、忌むべき子だ!

俺は、お前が恐ろしい。
お前はきっと、いつかあいつを食い殺す。
鬼畜だからだ!
なあ、アーデルベルト。
お前は私の子だろう?
一応は私に対する親愛もあるだろう。
ならば……。

差し出されたものに、見覚えがあった。
劇薬。
母を殺した毒物。
人を散々苦しめて、死んだ後は瑣末な異常しか残さない遺物。
ぞっとしたよ。
父は笑顔だったんだ。
満面の笑みで、今すぐここでを迫ってくる。
望むものでなかったといえ、自分の息子にそこまでを願えるのか、とな。
俺は、戦きながらもその手を取ろうとした。
もとより、父から願われてきたことだ。
お前が産まれてからは、明言すらされてきた。
それが突然、目の前に来たからと言って、何を恐れることがある?
それに俺には――お前の為に死ぬことなんか厭わないというのに。

だが、俺が手にする瞬間、あいつがそれを奪ったんだ。
奴はとにかく、俺の生に対して貪欲だった。
ライマーが正攻法しか取れぬ実直な騎士であったのに対し、奴はどんな手を使っても勝つことを狙うような奴だったからな。
奴にとっては、陰でどんな姑息な手段を使おうと、勝ちをもぎ取れればいい。
その中心にあったのが、俺の命だったんだ。
もとより父の力の及ばぬ人間だったから、恐れを知らなかったんだろうな。
焦ってたたき落とした拍子に、薬を被ったんだ。
曲がりなりにも劇薬だからな。
少量とはいえ……。

――……それは……。

お前が気に病むことじゃないさ。
……俺たちの問題だ。

――……聖都でお会いした時には……。

まぁ、そうだな。
あの事があったのが17の年だから、調度1年前か。
……と、いうことは、聖都でのことは、覚えているんだな。

――思い出しました。兄さんに抱きしめられたことも、レリーフについて教えられたことも。

そうか。
あの日、俺は完全な不覚をとった。
王宮に立ち入れなくなっていた俺は、戦場にいる以外、たいてい各地の城を転々としていた。
たまたまなんだ。
東はネインクルツとの国境だから、基本的にはあまり訪れる機会はない。
だが、俺はあの地が好きだった。

平和が故に、緩やかな繁栄を続ける一大都市。
たまたま、二日ばかり公務に明ができたから。
あの日、俺はいつものように聖堂で寝ていてな。
小さな方だよ。
王族専用の。
祖父はこの地の発展に心血を注いでいたから、先代を疎む父は、好き好んでこの地を訪れない。
必然、誰もがこの場から遠ざかったが、そんな所を俺は好ましく思っていた。
誰にも干渉されず、誰にも期待されない。
誰も立ち入らない聖堂に佇んでいると、張っていた糸が解けるんだ。
普段、六時間の労働に対して三十分の睡眠しか取らぬ体に、揺り返しの惰眠を齎すことが多くてな。
あまり無理を続けると、流石の俺も、限界が来る。
それを溶かす為、定期的に足を運んでいたんだ。
だがその日。
何か用事があったのだろうな。
あの父がリンデンへと足を運ぶという連絡が入っていたんだ。
必然、俺はその前にこの場を離れねばならない。
ただし、到着は次の日の予定だった。
ライマーにもそう伝えられていたし、俺は、いつものように人払いをさせ、長椅子に腰を下ろし、視線を頭上に、眠りの淵をたゆたっていたんだ。
そんな時、お前が現れた。
ほんの数年で随分成長した身は、頼りないながらも力強くて、完全に意識を手放していた俺を不安そうに見上げていたよ。

――その時、僕の年齢は。

三歳、かな。
俺が十八だから。
小さな手を俺の膝に、小首を傾げ、懸命に覗き込む姿に、直ぐさま悟ったよ。
あの時、殺そうとした子供だ、って。
そして、恐ろしくなった。
俺は、子供というものを知らない。
長らく大人にばかり囲まれてきたから、どう接していいのかも解らない。
俺にとって、お前は無条件に奉仕するべき人間ではあったが、俺の中でのお前はあの時の赤子のままなんだ。
ぞっとした。
あの時の感情が蘇らないか不安になったんだ。
お前は、あの時程無知ではない。
しかし、あの時と同じくらい壊れやすいものなんだ。
俺は、殺しばかりをやってきた人間だからな。
完全に憎しみが消え去った保証はない。
何かの拍子に、お前を殺してしまうかもしれない。

しくじったと思った。
俺とお前が顔を合わせたと知れば、父が黙っている筈がない。
父は、とにかくお前には俺の存在を隠したがったからな。
だから問うたんだ。
出来るかぎり、怯えるように。

《おい、坊主。どうやって入ってきた》

――覚えています。僕は、素直に扉を示したんだ。

そう。
俺としては、お前が逃げないことの方が驚きだったんだ。
それに、お前。
俺に言ったんだぞ。

《この国で、僕の行けないところはないんだよ》

って。
軍神、悪魔と恐れられる俺にだぞ!
馬鹿がと思った。
禁じられ、制限されてしか生きられなかった俺とは正反対。
だが、同時に、圧倒的な敗北感すら感じたんだ。
あの時と、同じ……な。

《お兄さん、疲れてるの?》

《あぁ?》

《だって、ため息ついてたから》

疲れなんて、意識したことがなかったからな。
面倒なことになる前、とにかく早く追い出したかった俺は、努めて粗雑に扱ったつもりだった。
でも、お前はめげずベタベタと纏い付き、遊べ、構えとねだるんだ。
辟易したよ。
凄もうが、宥めすかそうが、全く動じないんだ。
俺が動けば、誰かがびくつく。
そんな社会ばかりを積み上げてきたから、対処なんか知らない。
何度目か、流石に怒鳴り散らそうと思った時、長椅子に攀じ登ってきたお前が、不意に俺の頬に触れたんだ。
小さくて柔らかくて、でも恐れていた程壊れやすくはない。
そして、不安そうに眉を寄せたんだ。

《お兄ちゃん、泣きそう?》

……何か、感じ取ったのかもな。
あの時と同じだと思ったんだ。
あの、お前が笑った時。
理解したよ。
あの日、感じた確信は間違っていなかったんだ、って。
俺は――お前にきっと勝てない。
俺に死を与えるのはお前だ、と。
父は、俺の暗殺に失敗失敗した時、理性を取り戻すと約束を請うた。
もし父が死のうとも、お前が成人し王位を継げば、俺は直ぐさま姿を消せと。
可能なら、己の手のみで始末をつけろ、と――。
女という性は、俺に限らず波乱を産む。
めかけの子でありながら継承権の高い父と、後に産まれたが故正妻の子ながら次席に甘んじた叔父しかり。

現に、戦をなくす為、政略的に嫁いだ数多の王女達も、結果的に混乱を平定するには至らなかったではないか。
それに、王族の第一責務は国の安寧。
そして世継ぎの連鎖。
女として国に混乱を招きながら、根本的に子を残せん体でしかない俺は、とにかく生きているだけ価値がないんだ。
だから……ある意味覚悟していた通告だった。
父は言った。

《自分で死に場所を選べるだけ、幸福だろう?》

小さなお前の体温に触れ、漸く俺は、"自分がまともに他人に触れられたことがなかった"ことに気がついたんだ。
血にまみれ、泥を啜り、抱きしめられたことすらない俺に、それでもお前は臆さず触れてくる。
お前の為に死なねばならず、しかし、それを惜しいとは思えなかった。
あの時はただ、輝かしいだけだったお前が、俺の中でのかっこたる意味になったんだ。
誰だって、死は免れぬ。
しかし、それは極論だ。
不慮の事故ならともかく、己の意志でそれに終わりを与えねばならぬのなら、多大な労力と理由づけがいるんだ。
でないと、ただ無為な生と成り果てるからな。
己で始末をつけるというのは、いやがうえにも生きようとする最大の本能を捩伏せることだ。
僅かな生に縋ろうとする本能に負けぬだけの、かっこたる理由がいる。
俺にとっては、それがただ、お前だったんだ。
初めて俺に、無上の愛を与えた人間。
そう思ったら、耐え切れなくなってな。
思わずお前を抱きしめたんだ。
小さくて、柔らかくて。
自分にもそんな時代があったなんて信じられない。
しかし、確固たる命の存在。
お前は、他の誰とも違い、俺からは逃げなかったから。
だが、俺はお前に渡せるような美しいものを持ち合わせてはいなかった。
触れることすら躊躇われるこの身体に、何を望むことができる。
だから俺は、俺が持ちえる中で、唯一綺麗な物語を教えた。
それは、連綿と続く王族たちしか知らぬ、ある意味抹殺された歴史。
父から愛されぬ俺に、祖父が唯一遺してくれた、美しい物語。
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