クインテットビショップの還幸

第11話 彼女に用意された世界



塔の中は、それだけで全てが調えられた、完全な世界だった。
当然か。
ここに閉じ込める以上、ここだけに満足できるようにしなければならない。
きらびやかながら落ち着いた装飾。
さながら帝都の王宮を引き写したような光景は、ある意味異質だった。
ずんずんと進む背を追って、しかし今は恐ろしくは感じられなかった。
置いていかれる恐怖。
相反する願いは、今や確たる自分という存在に塗り潰されて、一人、立つ足に力をくれる。
長い螺旋階段を登り、所々つけられた窓、見下ろす限りは四階分。
延々続くような気がしたそれも、延びる廊下へと降り立った為、どこまで延びるのかは分からず終いだ。
毛足の長い絨毯に足を踏み入れると、なんだか深い雪の上を思い出して心許ない。

「アンネ! アンネ、いるか?」

叫ぶ兄。
並ぶ扉の一つから、ひょこり顔を覗かせた目的の人は、あっと驚きを浮かべると、ころころと駆け出してきた。

「あらあら、坊ちゃん。いらしてたんですか? よくぞまぁ、こんな遠いとこまで……」

転がり出て来たのは、憂慮していた兄の乳母。
よかった、無事にたどり着いていたんだ。

「アンネローゼ。クラウスに何か着替えを貸してやれ。後、風呂」

「はいはい。そうですねぇ、とりあえず坊ちゃん、こちらへいらっしゃいな。部屋は飽きる程空いてるんです。お召しかえが終わったら、いかがいたしましょ?」

「俺の居室に連れてこい。ベルカに茶でもいれさせる」

「ならば、紅茶をお出ししましょう。弄らない方がいいですか?」

「構わん。お前に任せる」

「承知しました」

「はい、坊ちゃんはこちらへ」

背後、追って来ていたらしい彼が踵を返すと同時、アンネローゼ公が僕の手を引いた。
部屋の一つ。
長らく使われなくとも手入れだけは行き届いたそれに通される。
冷え切った身体に湯を借りているうちに、方々駆け回ったらしいアンネローゼ公が、レトロな修道服を見つけ出して来た。

「基本、人は少ないですからね。こんなものしかありませんけど」

ローブ調のそれは、ゴシックな模様が刻まれて、しかしなんだかふわふわして心許なかった。
アンネローゼ公の案内で、再び廊下を先へ進む。
突き当たり。
一段質素なその部屋の前で、ピシリかしかまった乳母様は身を引いた。

驚く程、何もなかった。
豪華な隔離塔。
その中において、一段と美しくあるべき主の部屋は、無駄という無駄を排除して、むしろ簡素な独房に近い。
小さなベッドと物書き用のデスク。
ソファーが二つと執務机。
ただ、それだけ。

国の主たる兄に似合わぬ質素さは、激変した印象そのままに妙にしっくりときた。
しきりに辺りを見回していると、ソファーで本を読んでいた兄がちらり、目を上げた。

「不思議か」

「ええ……まぁ」

かつての兄は、きらびやかに身を飾ることを好んだ。
ベルベットのマント、鮮やかな軍服、貴金属は煌めき、鋭き眼光光る時、それはすなわち認められた者の死滅。
そんな兄の周りには、剣に衣服に、同じく輝く取り巻きが囲み、畏敬の念すら抱かせたものだ。
丁寧に本を閉じた兄は、そう、今やそんな面影もない。
必要最低限なのだ。

「元々、装飾なんてもンは嫌いなんだ。出来るかぎり無駄は持たない方がいい。いつ死ぬとも知れんからな」

組み直された足。
嗚呼、兄の思考は戦場で培われたのだったか。
そう考えると納得できる。
兄の側にはいつも死があった。
超越した死に神のごとき風貌に忘れていたが、この兄にも幼いか弱かった時代があった訳で。
迫りくる死に震えて眠る夜も、確実に存在した訳で。
成る程、それなら今目の前にいる兄が本来の姿なのかもしれない。

と、ノックの音が聞こえ、かの従者が足を踏み入れた。
並べられる茶器に、注がれた琥珀色。

「本当は、国の酒が一番いいんですけど、生憎揃えておりませんので、ブランデーを。嗚呼、こちらはキイチゴのジャムですよ」

手際よく揃えられるそれに、大して反応することもなく、兄は大儀そうに小瓶の中の液体を紅茶の上に明けた。
ジャムもひとさじ、ぼたりと滴らせ、乱雑に混ぜると半眼のまま口に運んだ。
ぞくりとした。
表情がぴくりともしないのだ。
何も見ず、何も考えぬ人形のようだった。
傲慢な鬼神であったり、無邪気な子供のような彼。
想像もつかない。
何かを諦めたごとき所作は、焦点のぶれた視線を伴って、ゆっくりこちらに向けられる。
退室する背。
今までにない居心地の悪さに震え上がり、しかし僕も視線を合わせた。
衝突を避けることはできる。
今までの僕なら、喜んで逃げただろう。
若しくは、耳を塞いだか。
事実、兄はそうしようとしたのだ。

「……で、何が聞きたい」

開かれた口。

「兄さんが、生まれてずっと、思ってきたことを」

告げると、兄は僅か困ったように眉間を寄せて、小さく肩を竦めたのだ。
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