クインテットビショップの還幸

第11話 彼女に用意された世界



永遠に溶けない雪という世界がある。
真実全て溶けないのかというと、それも違うがそういうものだと思っていただければいいという代物だ。
春等殆どありはせず、夏すらもうっすら白くけぶるそんな世。
その先にあるのは北の国境であり、絶えることない血の歴史だ。
雪は紅く染まり、夏には全てを洗い流す。
騎士が口にしたのは、西寄りの北側、国境に近い耳慣れない地名だった。
冬は厚い雪に鎖され、村も、街も存在しない。
そんな場所に何があるのか、不思議ではあったが、彼のことだ。
意味がないことはことはなかろう。
それに今は初夏。
雪の壁も、だいぶ溶けた筈だ。
速駆けはまぁ出来るとして、足腰の強靭な軍馬を操るのは少し不安があったが、兄の愛馬は大人しく従ってくれた。
何日かかるかも分からない旅路。
職務を滞らせる訳にもいかず、僅かつけられた兵士に連れられて、そうかかの乳母もこの道を通ったのかと思った。
長い旅自体は兄が南部に連れ出してくれた以来だし、その時だって馬車だった。
夜闇に、こんなに近く星が瞬くなんて知らない。

「つきましたよ」

溶け残り、僅か氷となった雪を踏み砕き、部下の一人が口にした。
確か彼は、北部の村の出身だったから場所を知っていると選ばれていた。
疲れからすっかり落ちていた視線を上げる。
息を飲んだ。

「昔から、ここだけは周りとは少し違った土地なのです。我々の村が深い雪に塗れても、ここだけは殆ど降らない。花が咲き、生き物が育ち、そんな神がかった場所」

雪の中、現れたのは優美なる石柱の塔。
手前には、周囲をぐるりと囲む煉瓦づくりの壁が。

「ここから先は、我々も行ったことがないんです。この敷地の中には」

「えっ、なんで……」

「若、これは、鎮魂の塔なんすよ。何でこんな辺境にあると思います? ここは、王室の直轄地なんです。王室であろうと、隠したいものは生まれる。それを隠す為に作られたものなんでさぁ」

「障害持ち……ということですか?」

「異民との混血、とかね」

 
望まれない子。
存在を否定された子。
彼らは、この辺境の地で、ひっそりと生きてゆく。
誰にも知られずに。
限られた人間だけと、ひっそりと。

そう言われてしまうと、そびえ立つ塔も悲しい虚像に見えてくる。
可哀相だと言うには軽すぎる、幸せだけで形づくられた世界。

兄も、もしかしたらあそこに行きたかったのかもしれない。
誰にも知られず、誰にも触れられず、しかしそれが悲しいということも知らないなら、ただ幸せな夢うつつのぬるま湯だ。
少なくとも、人を殺し、泥にまみれ、恐れられ、愛する人に裏切られ続ける痛みは存在しない。
来る朝に、涙を零すこともない筈だ。

兄は、夢に帰りたがったのだろう。

近くの村で待つと言う兵士たちに礼を告げ、世界を区切る壁を見上げた。
一度、ぐるりと周りを巡る。
中央に、精巧な飾り掘りの施された重厚な塔。
僅かながら覗く木々は中庭か、鳥の声が聞こえてくる。
門を見つけ、声をかけるも、何人も反応を返さない。
死んだように、世界はそこに在るだけだ。

「死にたくて篭ってるなら、当然かな……」

はじめから出て来ること等期待してはいなかったけれど、それでも落胆は大きい。
……うん、多分ね。

しかし、取り敢えず話をせねば始まらない。
そのためにはやはり、どんなに拒絶されようと会わなければなるまい。
恋人に会いにゆく有名なお伽話を脳裏に、囲む壁をもう一回り。
崩れかけたヵ所を手掛かりに、無理矢理身体を捩込んだ。

「よ、っと……」

開ける視界。
広がる世界。
どうやら、中庭に降り立ったらしい。
僅かな雪が煌めく中、鮮やかな緑が広がった。

「うわぁ……っ」

夢か幻と思う程。

「……どなたですか?」

光景に似合わぬ冷たい風が頬を撫でる。
痛む頬に不釣り合いな世界へ、ぼんやりと浸っていると、不意に背後から声がかかった。
見つかった!
兄の声ではない。
相手が相手なら、不法侵入でつまみ出されても仕方なかろう。
いくら僕が現王だとして、いこじになった兄なら簡単に放り出す筈だ。
そして、兄の部下はそれを可能にした者で――。
振り返ると、人がいた。
溢れんばかりの花を抱え、不思議な紋様の描かれた、白地のマントを羽織った青年が、空気のように佇んでいた。

ふわり、厚手のコートは純白で、袖口と裾に青い縁取りがしてある。
その青に金や赤の不思議な紋様を浮かべ、色とりどりの花に埋もれた瞳は新緑色。
心底不思議そうに小首傾げる姿は、野蛮とすら表現されることの多い兄の部下とは何だか違って見える。

「帝都からの使者ですか……? 確か、約束の三便目は終わった筈……」

「あっ……そのぉ……」

言っては駄目だ。
兄に会えなくなる。
しかし、他に何と言い訳する?
……無理だ。
害のなさそうな無垢な眼。
僕は渋々ながら呟いていた。

「兄に……会いにきました」

見開かれる緑。
零れ落ちそうなそれに、薄い唇を開け、

「成る程、貴方が……」

零された言葉は、僕の正体を知ったものだった。
しばし視線を泳がせた彼は、ふむと一言。

「さて、どうしましょう……あの方には、部外者は断じて通すなと厳命されていますし……」

「あ……僕は、そのっ!」

言いかけて、愕然とした。
僕は、この人を説得できるのか?
先を問う瞳。

「僕は……っ、兄さんを、止めにきたんです」

馬鹿みたいにたどたどしい。
嗚呼、笑われる。
だからあの人はダメなのだ。
どんな時だって強気に出られない。
こんなんじゃあ外交はダメだな。
他国も一目置く軍事力も形無しだよ。

しかし、彼は笑わなかった。
「そうですか」と小さくため息をついて、静かに踵を返した。
ふわり、柔らかな風を孕んだ裾が舞う。

「いらっしゃい。あの方に会わせることは出来ませんが、私、あの方のお部屋に飾る花を摘まなければならないんです。……お手伝い、いただけますね?」

ふわり、
彼の手から花が零れた。

「ここは、言ってしまえば私の仮想世界なんです」

青年が、うふふと笑って言った。

「普段、伸びゆく自然に、変わりゆく大地に驚きを隠せはしないものです。
それは、毎日が昨日と違った今日で、今日と違った明日で、何度同じ季節が巡ろうと、違った年を越えているというのに。
今年は豊作でも、来年はそうではないやもしれない。
そんな毎日は楽しいですよ。
皆、気付きはしませんが」

考えたことはありますか?
首を傾げられ、横に振る。
僕が僕で有る限り、世界とは変わらぬものだ。
だって、兄はそうだった。
兄という確固とした基盤があって、その周りを世界という付属品が飾るのだ。
兄が黒と言えば黒だし、兄が視認しなければそれはないも同じ。
自己は全てに措いて一貫して存在する。
故に、世界というものは自分を確立してさえいれば振り返る必要なき瑣末な問題なのだ。

「我々は、考える。
故に、全能だと錯覚する。
こう言ったのは私の古い知り合いでした。
その人は、自分が不完全であることを理解していました。
だから、全能であるように見せることにした。
そうした方が、周囲が楽になるからです。
ただ、言われたことを熟すのは、実に楽だ。
思考しなくて済みますから。
加えて、責任も何も放棄できる。
私はね、そんな世界の生きやすさを知っている。
けれどね、ここに来ると無力だったんです。
驚きでしたよ。
いや、まだ驚いているな。
毎日、驚かされてばっかりだ」

彼は伸びやかに視界高く咲き誇る花を手折った。
淡い、青臭い生命の息吹。

「そうは言ってもね、こうも長々と世俗と離れていますとね、どうしても飽きる瞬間というのがあるものです。
つまらなくて、退屈で、狂おしい程変化を欲して堪らなくなる瞬間。
貴方はありますか?
そんな衝動が」

再び首を振る。
ない。
僕は毎日、翻弄されてばかりだ。
転がる状況、その中心には兄がいて、僕はそんな彼を恐れていて――、

《本当に?》

問うもう一人。
分からない。
分からないからこそ、会わなければならないんだ。

突然、頭上から涼しげな音色が降り注いだ。
空仰ぐ姿。
習うように天を見上げると、二羽の鳶が円を描き舞っていた。
嗚呼、先程のは彼らの声だろう。
身を刺す寒さにも負けず、優雅に舞う姿は圧巻と言って差し支えない。

「おや。ブルーダー、そこにいるんですか?!」

華やぐ顔が叫んだ。
え?
状況から見て、この鳥たちが呼んだに違いはなかろう。
こんな場所だ。
一人、暮らすのに動物と仲良くなろうと不思議ではない。
だのに、不思議だ。
何故目の前の彼は、《確認》した?
もう一度、高らかと鳴いた鳥達は、ふわり、大きな翼をはためかせ、ゆっくりと舞い降りる。
コート厚く纏われた腕が差し出される。
風が乱され、一羽が優雅に舞い降りた。
食い込む爪先も、分厚い布地に阻まれて肌には届かない。
差し出された反対の指に、猫の子がじゃれつくように頭をこすりつけた鳶は、小さくかわいらしい声を上げた。

「おや、その声はシュレッセンの方でしたか」

探るように撫でる手つきは、違和感を助長する。
ふふふ、笑って彼は目を閉じた。

「ねぇすみません」

不意にかけられた言葉。
僕はビクリと身を震わせる。
じゃれつく鳥から手を離し、彼は天を指差した。
円描くもう一羽。

「今、あそこにいる子は、胸に白月の紋様がありますか?」

えっ?
だって、あんなに嬉しそうに見上げて……。
再び開いた瞳。
僕は違和感の正体に気付いた。
目が、

「見えない、のですか?」

焦点を結んでいない。

彼はただにこりと笑って、小さく頷いた。

「でも、さっきまでは凄く普通に……」

うろたえた僕に、彼は傍らの鳥の喉元を撫でながら「どう説明したらいいのかな」と呟く。

「視認できるかできないか、と言われると、できるとしか言いようがないのです。私の場合、完全な盲目というより、極度の弱視ですね。詳しいことは分からない。しかし、色や輪郭くらいなら大まかに掴むことができます。そうですねぇ……ここでならそれなりに不自由はしなくとも、帝都のような人の多い社会では生きてゆけない程度――と言えば適当でしょうか」

「それは……生れつき、ですか?」

「いいえ。以前は、帝都にてお勤めもいただいていました。視力が落ちたのは、ここ最近です」

「怖く、なかったですか?」

「……怖かったですよ。今までできたことが、何ひとつ出来なくなるんですから。本気で死のうとしたことも、一度や二度ではない」

固くなった言葉。
不思議になったのか、丸い目をしばたかせた鳶が、小さく首を傾げる。

「知り合いに会っても分からないんです。あちらは何も知らない訳ですから、声で判断したとしても、真実その人か不安になる。誰かが自分を騙そうとしているのではないかと、気がきではなくなってくる」

それは……辛いかもしれない。
他人が信じられなくなるのだ。
そして、自分も。
しかし、目の前の彼はぱっと表情を華やがせ、強さすら含んだ笑みで僕を見つめた。

「でも、私は恵まれていますよ。なんだかんだで、宮中に知り合いがいたので、ここの管理を任されましたし。ここはね、人が殆ど来ない。疑う余地もなく、自分と自然だけなんです。毎日毎日それだけを見つめていれば、些細な変化も手に取るように分かるようになります。今や、この庭で私の知らないことはない」

それにね、と。

「ここに来られた皇族のお世話をするのも私の仕事なんですが……何せあの方、ご自分で殆どやられてしまうんですよね、手がかからない」

軽くしゃがみ込んだ彼の腕、留まっていた鳶がタイミングを合わせ、高く舞い上がる。
ふわり、舞う羽が。
もう一羽が呼応するように鳴き、円は二つになった。
くふふ、笑って彼は空に告げる。

「ケーニヒ、雨を探しておいで! ビュルガーは、美しい花を!」

鳶が鳴く。
風が吹き抜けた。

「皇帝《ケーニヒ》と、国民《ビュルガー》……」

呟いた僕に向き直り、彼は花を抱え直した。
色とりどりに彩られた白い肌。
言ったでしょう?
返す口元は半月。

「ここは、僕の作り出した世界なんです」

一輪の花が、大地に落ち伏せた。

「世界には、極論二つの職業があるのです。
国王と国民。
国民は国王に支配される。
国王は国民に養われる。
故に、国民は国王の奴隷である、と思う者が多いのです。
実にね。
しかし、私は違うと思うのです。
嫌ならば、彼ら王族を選抜しなければいい。
現に、支配者というのは何度も討ち取られ、すげかわるものだ。
彼ら国民が安心できるよう、余計な実務……外交やらなにやらですね、それらを担う役目を負ったのが、王族な訳だ。
いらぬ苦労を負う以上、それ相応の対価があって当然でしょう?
それをただ上辺だけを目に、妬みひがむならばそれはただのエゴだ。
国王こそ、国民最大の奴隷である。
少なくとも……私は、そう思います」

柔らかな笑みに、花が揺れる。
そう。
僕はただの国民だった。
兄の上辺しか知らず、苦労も悲しみも省みず、恐れ、疎み、憎みさえした。
責任も、重責もない外部から、美しい偽物だけを見つめ、非難を繰り返す酷い人間。
兄は、
彼女は苦しみを一人背負い込み、それでも僕を許してくれていたのに。
間違いは正さねばならない。
僕の今までが間違っていたのなら、素直に謝ろう。
彼が間違えようとしているのなら、全力をもって止めよう。
ただこのまま、無為に別れること等できない。

「もう一度聞きます」

彼が言う。

「貴方は、あの方と、何を話しに来られたのですか?」

しっかりとした視線で。
見つめているのは、おそらく、未来。

「……僕は」

言葉が零れた。
強い力。
雲泥の差の。

「黒薔薇について……教えて貰いに来ました」

疎まれた王女。
実在するとしたら、幽閉されたのはこの地。
兄と僕の、はじめての物語。

「……だ、そうですよ」

彼がゆるりと体重をずらした。
ぶれる景色。
その先には。

「アレキサンドライト閣下」
切れ長の瞳を半分閉じて、佇んでいたのは兄――。
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