クインテットビショップの還幸

第2話 混沌の聖地


東方の一大都市《フュッセンブルク》。
元々工業が栄えたこの街に、先々代の王第二代アルベルト王が、歴史ある聖リンデン城を移築改装したことで更なる発展を遂げた。
この一大都市は、近辺としては珍しく、領主というものが存在しない。
東の外れという立地からか、工業地だというのに民衆はカリカリしておらず、王族の避暑地としても有名だった。
先代――我が父第二代アルベルト王が建造した西のヘルフォンシュミット城と対に例えられるだけあって、巨大な城壁の内側に賑やかな城下街、坂が多く、凹凸を形作りながら組み上げられた街は、更に内側に光孕んだ森を擁護して、数々の鳥たちが囀り歌う。
その中央に、リンデン城がそびえ立っているというわけだ。
僕ら兄弟――とりわけ兄は、父の作り上げた権威の象徴であるヘルフォンシュミットより、見ず知らずの祖父が守った美しく静かなこの城を好んだ。
聖宗教のために作られた城。
宗教に飲み込まれたこの国で、最も神聖で、最も飾らない場所。
あの恐ろしい兄も、この場所へ来ると気が緩むのか、鮮やかな大聖堂で度々眠っている姿を目撃したことがあった。
ステンドグラスを通して、淡く淡く降り注ぐ、色とりどりの宗教画。
約束、神、罪、断罪、悲壮、そして再生――繰り返され、巡りゆく断片の集まりはいつ作られたものなのか?
祖父が命じたのか、それとも移築される前の遥か以前から――。
皮膚を粟立たせるパイプオルガンの賛美歌に合わせ、列席者が立ち上がった。
優雅に腰を折る者、感極まって涙ぐむ者、ひたすら直立を保つ者。
どれだけの人間が集まったのだろう。
この場を作り出したのは、魔王。
影の向こうにかいま見る、神前の最奥に居座る男。
我らが王、アーデルベルト。
豪奢な王座に肘をつか、満足そうに目を細める彼は、たまに退屈に欠伸を噛み締めるのみだ。
見る限りの人波を、宰相の声が掻き分けた。
僕の名が呼ばれる。
諦めたように歩み出て、片膝を折った僕の前に、老人独特の細い影がかかった。
中央の王座から目を転じて左へ――この威光を留めんがため、列席を許された血縁や軍関係者、地方豪族。
列強の国使に、王子たち。
その目に宿るのは、打算、失笑それいがいになかろうに。
いたたまれなくなって、目を閉じた。
絡み合う思惑が、心臓をがりがりと掻き乱す。
こんな恐怖、久しく忘れていた。
影がゆらり、揺らめいた。
頭上に両手が掲げられる。
その先でキラリ、光る黄金。
「我らが神の子に、数多の幸福と加護を!」
空気がざわめいた。
王座を得る者、栄光を手にした者、賢者、聖者、英雄に豪族。
その手に煌めく名を頂いた彼等を前に、全身が震えるのを感じた。
アレだ、アレだ、アレだ!
神よ、我を守りたまえ。
この卑屈な身を引き裂く獣を、なんとかしておくれ!
奔流を打ち壊し、王座の兄が剣を打ち鳴らした。
打ち付けられた床は、遥か南方から運ばれた輝石て、王座を取り囲むように配された三頭の獣。
この城を移築した祖父が、記念にと遥か西から頂いた神獣に守られた王座から、朱色の絨毯が延びている。
立ち上がった兄は、慣れた手つきでマントを振り払い、足を踏み出した。

「宰相、もうよい」

「しかし、任命がまだ……」

「飽きたんだ。お前の話は長い。長すぎる。要するに、神に使え、逆らうことなく敵を討ち殺せということだろう?」

「そんな、野蛮な」

「しゃらくせぇ。俺らの祖先は、《聖戦》の志士だぞ。なんらおかしきゃねぇじゃねぇか。しかも、残念。そン時ゃ、永遠を誓った神すら違った」

「それは……」

「つまらん御託はいらねぇよ。あるのは、国、国民。だったら、それだけに尽くせばいいんだ。神だの祖先だの、糞くらえだね。おっちんじまったら一緒さ」

おどおどとたじろぐ宰相を省みもせず、兄は己の道を辿る。
十五の成人。
その直後、僕が産まれた。
コピーである僕。予備である僕。
先帝が死に、それから何度、彼はこの道を辿ったのだろう。
国を司るは、王。そして、国民。
二つを繋ぐ、血色の道。
横を通り過ぎる時、己の脆弱さを笑われた気がして、血の気が引いた。
兄が初めてこの道を踏み締めた時、彼はただ一人だった。
ただ一人の、後継者だった。
唯一は人を強くするのだろうか?
それとも兄も、この屍道を恐れ、怯えたのだろうか。
ふらふらと立ち上がる。
顔など上げられない。
巨大すぎる背を追って、重い足を無理矢理に進める。
主役は、僕だ。
不本意ながら、僕なのだ。
背後では、参列者の波が静々と引いてゆく。
先行く影を辿り、バルコニィへと続く廊下を進む。
手の届きそうな範囲に戻ってきた壁紙の、美しいアーチには色とりどりの壁画。
神話を模した聖堂とは違い、ここにあるのは、血塗られた民族の歴史。
歴代の王の死闘と、栄光。
王族たる者は、皆、その洗礼を受ける。
己の根源を受け入れさせられる。
あるものは誇り、あるものは羨み、あるものは感謝する。
僕にはただ、重いだけの世界。
光り照らされた一角、黒く塗り潰された壁。
嗚呼、そうこれは、昔昔の消された記憶。

《人として、狂ってしまった王女がいたのだよ》

小さな身を腕に抱いて、語ってくれたのは誰だったか。
父か、宰相の誰かか。
光差すバルコニィ。
王のみが立つことを許されるそこに、僕は初めて足を踏み入れた。
クラリとした。
白で塗り込められた世界。
熱気は、緩やかな風を伴い、決して不快ではなかった。
ただ少し、糸が切れかけただけ。
ゆっくりと色を燈していく視界に、僕は息を呑んだ。
《灰の街》の異名よろしく、辺りは薄鼠色の建物で埋め尽くされ、合間合間にとりどりの緑が息づいている。
石畳の方々に埋め込まれた紅石は、巨大な街を管理するため、何代も前の主がつけたものだ。
青い空に飛び出したのは、教会の鐘と、時計塔。
何代もの豪族、何代もの王者たち。
彼らに愛された石造りの街は、緩やかな緑に飲み込まれながら、まるで深呼吸するように存在していた。
上がる歓声。
広がる灰の間に、所狭しと、人、人、人。
近隣からも集まったのだろう。
もしかしたら、果てしなく遠くから来た者もいたかもしれない。
王族による公式式典が行われるのは、いつの世も、帝都とここだけだ。
こと就任式典となれば、帝都よりも神神に近いとされるこちらで行われるのが早く、しかも盛大だ。
寧ろ帝都はお披露目の意味に近い。
集まるのは当然。
ある者はキラキラと瞳輝かせ、ある者は狂喜の雄叫びを。
ある者は屋根に登り、ある者は地に這って。
軍人は取り囲む城壁に、賢者たちは眼下の中庭へ。
眺め見る世界。
何と言う!
今、全世界が僕に注目してしまっている!
すくむ足、流れる汗、震える視点。
久しく忘れていた恐怖が、僕の耳元で怒鳴り声を上げる。
見よ! 聞け! 全世界がお前の前に!
笑え、わらえ、ワラエ、嘲え!
これが忌むべき王家の膿ぞ!
やめろ、やめろ、やめてくれ!
そんなこと、僕が一番分かっている!
この兄、この背の前には、
霞みかける視界。
折りかけた膝を何とか持ちこたえたのは、かの絶対神が振り向き、蒼き瞳で心臓を射たからだ。
不正を許さぬ目、弱さを許さぬ光。
日の下へ出ると、栄光は冴え渡る。
焼けた肌――戦時を翔ける。
輝く瞳――拝借に罰を与えんがため。
にいやり笑った口元には白い犬歯が覗き――神をすら食い破り、血に染める獣。
兄は、手にした剣を薙ぎ払った。
「クラウスよ、よく目に焼き付けろ。これが全て、お前のものだ」
舞う極彩色は散らされた紙片。
あれが全て?
あれは兄のものだろう。
僕ですら、兄の。
僕に与えられたものなど、一つとしてありはしない。
バルコニィの外角に寄り添った兄が、剣を構え直す。
キチリ、繋がれた白銀の鎖が音を立て、人波がどよめいた。
彼は神、兄は守(かみ)。
絶対にして、絶望の、
「我が弟にして、ベルンバルト王子、クラウス・ブライトクロイツの成人に際して、神神の輝かしき祝福あらんことを!」
波が揺れた。
人民が吠える。
諸国の主どもが膝を折る。
さぁ、差し出された手に逆らうことなど出来ず、僕は恐ろしき舞台へと引き出される。
溢れる色彩、手先から伝わってくる体温、絶望の色。
逃げられぬ、逃げること叶わぬ願い。
色すら亡くしているであろう僕の様を眺め見、兄は満足に目を細めた。
まるで、ようよう肩の荷が下りるように。
まるで、長らくの悲願を果たせるように。
この時、気付けばよかったのだ。
今思うと、あの時程《兄らしくない兄》を見たのは初めてだった。

神よ、
この国を統べ、
この国の全て。
大きな獣は、再び牙を剥いた。
高らかに告げられる、
審判の時。

「諸君!」

辺りが一斉に静まり返った。
それはそうだ。そんなプロット、何処にも存在しない。

「よく聞きたまえ。現行、長らくこのベルンバルト、及びブライトクロイツ家は、家長たる俺が仕切って来た。それは皆、承知の通りだ」

灰の街に、光と同等の声は、鋭く、朗々と通る。
恐らくこれが神自身による訓示だと、皆分かっているのだ。
予定にない言葉は、周知の事実をともない、ラグナロクを告げる。

「俺のごとき為らず者に仕えてくれて、本当に感謝している。だからこそ、このよき日に重大な告白をしよう。ここに一つ、知られざる王立法規がある」

掲げられた紙。
時の王によってのみ発刊される狼の印がつけられたそれには、懐かしき父の署名が。

「前国王、第三代アルベルト王による直筆だ。宰相どもも知らぬ。知るのは、限られた数名だけ」

兄は、ニヤリと笑い、その文面に目を走らせた。
嫌な予感がした。

「《当家の正当なる王よ。
主はまだ幼き、
世は汝の物為。
幼き者よ。
汝無き今、
不在たる玉石の王座は、永久なる不在に等しき。
幼き者よ、
我を許せ。
汝無き今、
我は邪道なる子にこの椅子を渡す》」

古文体で綴られた文面には、何やら捨てきれぬ呪いがあるようで。
ここまでは序章だ。
むしろ、懺悔の走り書きに近い。
兄は続けた。
王の捺印を持つ、最上級の確約を。

「《我無き今、次なる王位は第一帝、アーデルベルトの物なり。
されどこれは正当な継承権を持たぬ者。
この事実は秘匿し、正当な継承者【真なる第一帝クラウス】の継承までの、暫定措置とす》」

どよめきが上がった。
皆一様に、理解に苦しんでいるらしい。
僕にも解らない。
何が?
何がどうなっている?
僕が、 正当な継承者?
一同の困惑を余所に、兄はくっくと喉を震わせた。

「諸君! 今日は真に素晴らしい! 一重と五つを数えた我らが真の統率者に、返すべきものを返そう!」

「王位継承だ」

低い声は、兄の口から発せられたとは信じがたい、安息と絶望を孕んだものだった。
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