クインテットビショップの還幸

第10話 蛮行、後にくる人望



先が見えない洞穴。
それでも、背後は完全に締め切られている。
進むしかない。
これ以上の恐怖が目の前に現れないことだけを祈りながら、僕は一歩を踏み出した。
明かりすら見えない。
風だけがドウドウと吹き抜けて、道の終わりを告げている。
それが果たして出られるものか、そんなこと、分からない。
それでも停滞しているよりはマシだろう。
淀んだ空気の吹き込む先を、手探りで進む。
迷わぬよう這わせた手が壁を伝う時、時折べちゃりと滴る水を叩き、ぎょっとする。
苔むした石壁に、それでも水は澄んでいた。
あまり長くこんな場所にいると、正直気が狂いそうになる。
何度も引き返そうと考えたが、戻ろうと待っているのはあの淀んだ部屋なのだ。
何故この場に閉じ込められたのか分からない以上、自力で出るより他になかった。
薄ぼんやりと照らされるのは漆黒の一角だけで、闇は延々と続いているように感じられる。
息苦しくなりそうだった。
急に、風の勢いが強くなった。
狭まる道幅。
開けた視界に目が眩み、明るさに驚いた。
降り注ぐ光は、普段ならなんとも思わないもの。
しかし暗黒を這って来た身には、あまりにも偉大すぎたのだ。
折り重なる岩の上、美しいまでの青空がぽかり、雲を浮かべていた。
大地に穿たれた洞窟。
水辺が近いのか、さわさわと新鮮な空気が舞い込む。
突如出現した救いと同時、自分の心がからっぽになるのを感じた。
嗚呼――。
思わずぼんやりと見上げていた目をこすり、いけない。
辺りを見回す。
崖が崩れたように折り重なった瓦礫が一角がある。
ここからなら、何とか登れそうだ。
汚れることすら厭わず固いそれに爪を立てる。
剥がれ落ちた砂屑が、整えられた爪の間に入り込んだ。
脚を滑らせる度、軽くはない体重を支える指が悲鳴を上げる。
爪も、一部欠けてしまった。
動かし慣れない体は痛みを訴えるも、何とか最後の一息、体を持ち上げた。
柔らかい大地。
深い地の底から吐き出された先は、二重城壁の一つ先。
城下広がる一角につくられた、所謂スラム街だった。
土と大地の世界。
帝都唯一劣悪と呼ばれた土地は、吹きすさぶ風に舞い上げられた砂埃と、煉瓦作りの建物。
巨大な鼠がいびつな土山に転がっているかと思えば、それを平気と歩く、数え切れない人ばかりだ。
劣悪だ、野蛮だ、危険だと威され皇族領地からも外されたそこに、足を踏み入れたことは、ない。
確かに、華やかな帝都の栄華からは程遠いかもしれない。
それでも人がいる限り、彼らは秩序を作り、快適を求め暮らす。
はじめて踏んだ地は狭く、恐れていた程無秩序ではなかった。
きょろりと辺りを見回していると、路上に座り込み、鍋を掻き回していた老人が「どなたですかな?」とか細く問い掛けて来た。

「あ……えっと、ここは……」

出る道が知りたい。
そう言おうとして、彼らの言葉に酷い訛りがあることに気付いた。
これは、南部の――、

「あぁああっ!」

叫ばれて、思わず後ろを振り返った。
僕を指差し、驚愕に震える姿。
その手に支えられていたであろう果物は、籠もろとも大地に転がり、不思議そうにした子供たちに拾われた。
時間が止まった気がした。
驚いたのは、相手だけではない。
僕も彼女に見覚えがあった。

「君は……」

「なんであんたがいるのよ、帝国の犬!」

握られた鋭利な輝きが思い出され、思わず怯む。
相手もしばし武器となるものを探したのか、パタパタと服を叩くと、舌打ち一つ、諦めた。
あの日。
あの時襲ってきた、《失われた民の少女》。

「アムリタ。どうしたんだね、何か知り合いかね?」

ヒリヒリと張り詰めた場に合わず、かの老人が鷹揚に問うた。

「長老! 知り合いも何も、こいつ、我らが主を蹴落として踏ん反り返る外道ものよ!」
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