クインテットビショップの還幸

第10話 蛮行、後にくる人望



部屋を出、入り組んだ廊下を進む。
時折すれ違う重臣たちも引く程の気迫。
辿るは、みたことのない場所へと続く。
しかし、何故か違和感があった。
これ以上行ってはいけないような。
彼は、古ぼけた部屋の前で立ち止まる。
背筋が凍った。
何だ。
何故だか分からないが、僕はこの中を知っている気がする。
しかし、それは何か美しいものではなく、生理的嫌悪を感じる酷く恐ろしいもの。
いっては駄目だ。
何故かは分からないが、そんな気がする。
絶対に、絶対に。
ノブに手をかけた騎士が、ちらと僕に目をやると、悔しそうに歯を噛み締めた。
続いたのは、手。
不意に額へと延びたそれに押さえ付けられ、扉を背に追い詰められる。
ひやりとした感触。
扉に触れた背から、ぞわぞわとはい上がる恐怖感。
何だ。
何だ、
何だ、
何だっ!
合わせられた鋭い光。
「かつては、酷だと思ってそうしたが……」呟いた言葉が小さくごめんを紡いだ途端、掲げられたもう片方の指を鳴らした。
小気味よい音。
直ぐさまうごめいたのは、強大な闇。
そして、

「……っ!」

痛い。
そう思った矢先、見たこともない光景が頭を過ぎった。
暗い地下牢、
続く石畳、
世界は一様に真っ暗で、
手には蝋燭。
隠れるだけのつもりだった。
自分の姉やに怒られたから。
ほとぼりが冷めるまで、待つだけのつもりだった。
暗い道を進む、
進む。
たどり着いたのは、広い部屋。
薄明かりに照らされる。
そこは、

突然、身体が宙にほうり出される。

開かれた扉。

傾ぐ身体。

その時は黙っていた。
恐ろしくて、口にもできなかった。
ただ泣きながら戻ってきた僕を、姉やは笑って抱きしめてくれた。

何年も後。
血まみれの兄、
のぞき見た先、
恐ろしく質素な扉。
背後、付き従うはうなだれた敗戦の将。
兄の瞳が僕をとらえる。
にぃやり、あげられる口角。

その先にあるのは。

「うわっ……!」

思わず庇った身体が埃っぽい地面に転がると同時、扉が固く閉められた。
明かりひとつない地。
冷たい石の感触。
まさか、部屋の中?

理解が出来ず、ちかちかする頭を抱え、眼前を仰ぐ。
闇。
以前と何ら変わらない。
背筋を寒気が這う。
嗚呼、思い出した。
この先には――、

深遠を見つめ、たじろぐ身体に、奇妙な音が降ってきた。
途端、差し込んでいた一筋の明かりが掻き消える。
慣れぬ目が闇しか捕らえられぬようになってようやく、僕は我に返った。
思い至った答えは、脳髄から髪の一本一本まで、鮮やかな恐怖で染め上げていった。

「ちょ……っ、ライマー!? ライマー・デルンブルク将軍っ!」

何かから逃げるように扉に縋り付き、盛大に声を上げる。
鍵穴は、ない。
だのに響く、この小気味よい音は何だ?
誰かを閉じ込めるため、逃さないために作られた空間。

恐ろしさが勝つ。
しかし僅か残された冷静な己が、阻まれた扉の向こう、堪えるような呟きを聞いた。

「あいつが望むのならそうしてやろうと思ったんだ。
だが無理だ。
俺にはあいつが自ら死を選ぶなど許容できない!
殿下、お願いします。
その手で真実を暴いてやってください。
貴方が、貴方だけが、あいつの人生を赦すことができるのに、」

遠ざかる足音。
僕は果てしなく続く闇の中、絶望感に打ちのめされていた。
何を言ってるんだ?
どれだけそうしていたものか、漸く僕は顔を上げた。
酷く疲れ切っていた。
取り敢えず、僅かな記憶だけをたよりに壁際へと歩み寄る。
いくらかぺとぺとと固い感触を摩ると、記憶通りの場所に手提げランプと火打ち石が。
ということは、ここが廊室の左側面。
壁に備え付けられた蝋燭置きの出っ張り。
足元に転がっていた蝋燭の一本に火を付け、ランプの中へと抱え込む。
淡い光がゆらゆら揺れて、辺りを照らし出してくれた。
よく見ると、部屋の所々に微かに若草色や緋色が揺れている。
ステンドグラスのごとくランプに埋め込まれた輝石が、小さく彩りを添えていた。
自分で自由になる視界を取り戻すと、ようよう心境も落ち着いてくる。
辺りを見回し、余りにも変わりがないことに落胆した。
質素な部屋。
壁紙すら張られていないそれ。
出口の一つは封鎖されてしまった。
残された手段は、先に進むしかない。
陰欝の極地を迎えた身体を引きずって、最奥の階段を目指す。
できれば、訪れたくなかった。
金輪際、一度も。
足元を確かめながら、年代ものの階段を踏み締め、ついに最下部へとたどり着いた。
掲げる炎。
嗚呼――、

広がったのは、かつて戦いた光景。
恐れるあまり、彼を忌避するようになった元凶。
幼い僕が初めて触れた兄の深淵が、寸分違わぬ様で沈黙していた。
分かるものから分からぬものまで、
それこそ古今東西、
形状は様々あれど、使用目的はただ一つ。

数え切れんばかりの、拷問器具だった。

あるものは血が滲み黒く淀んだ色を湛え、あるものはどんな酷使を受けたのか、醜く変形している。
床の一角には何の液体だろう?
滴った跡が残ってしまっている。
こごる空気は埃臭く、足を踏み入れただけで気が滅入った。
幼い頃、垣間見た秘密。
ここへと続く扉を潜った兄は、ひそかに笑っていた。
従うのは、憔悴しきった将官。
そして彼は、《僕の知る限り出て来ることはなかった》。
答えは一つ。
込み上げた胃液が喉を焼いたが、なんとか醜態を曝すのは抑えることができた。
嗚呼、
嗚呼。
分かっていたではないか。
寧ろ、つまるところは噂通り。
今更残虐と噂の挙行を目にしたところで、何の不思議もない。
それがどうしたというのだ?

それでも、大事に王宮で育てられた僕に、その事実は目に痛い。
恐れていたではないか。
兄は、そういう人だと。
誰もが口にした。
人で無し、鬼、悪魔。
その弟として生きてきただろう?
かつて、僕が逃げ出した事実。
かつて、僕が忘れようとした事実。
息がつまる。
動悸も速い。
けれど僕は、意を決し、明かりを高く掲げた。
浮かび上がるのは異業。
誰かを苦しめるためだけを追求した、鋭利な残忍世界。
喉に刺激が走る。
辛い。
胃液が焼いたのか。
ゆっくり、ゆっくりと歩み寄る。
足が震える、手が強張る。
しかし僕は、あの時程無力な子供ではない筈だ。
木や鉄で出来たそれ。
眇見ると。
――――あれ?

「古い……」

思わず出た呟き。
黒く変色した血潮は鈍い光を湛え、淡い鉄錆を浮かせている。
どころか、薄く埃すら吹いていて、ここ数年触ってもいないようだ。

「最後勝ったのが、帝国暦563年だから……」

ざっと三年前。
兄が敗戦の将を連れて来た最後が戦勝半月前だから、それまでは常に人の出入りはあったことになる。
疑念を胸に、躊躇いつつも器具に手をかける。
錆び付き、崩れかけ、動かぬものが大半だった。
これでは、まともな用途もなすまい。

「どういうことだ……?」

首を捻る。
動かなければ、意味がない。
誰かを苦しめんと生み出された機器が、その意味すら失っている。
痕跡のない部屋。
けれど帰らなかった人々――。
こんがらがった糸が縺れ、僕は壁へとよろめいた。
苦しい。
気持ちが悪い。
しかし体重を支えようとした手も、がくりと折れ崩れてしまった。

「のわっ!」

咄嗟に立ち退くと、淀んだ空気が勢いよく流れ出す。
風?
ランプを掲げる。
失われた壁。
案の定、そこには隠し扉がぽかりと口を開けていた。
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