クインテットビショップの還幸

第10話 蛮行、後にくる人望


あの方、というのが誰のことなのか、酷く引っ掛かっている。
王座を望まれるくらいなのだから、彼らが崇拝する指導者なのだろう。
僕としては、この陰湿な王室を継いでくれる者は万々歳なのだが、恐らくあの兄が許さないと思う。
強き兄、
素晴らしき兄、
俺が王座を捨てたとなれば、今度こそ本当に切り殺しに来るやも知れない。
それこそ地獄の果てまで。
どちらにしろ、その人物を据えるため、僕の命が狙われることに変わりない。
居座るも退くも地獄。
ならば、その人物は彼らの仲間?
いやいや、さっきあの娘が呟いた台詞。

―あの方を蹴落として、のうのうと踏ん反り返って―

蹴落とされたというならば、元はその地位にあった者ということになる。
ならば、兄。
現王家は、連綿と続いた純血の家系だ。
大規模な政権交代がない以上、《僕に蹴落とされた人物》というのは、兄で間違いないだろう。
しかしだ。
そこで大きな疑問が残る。

何故、兄から滅ぼされた民族が、この世に実在するのだろうか。

兄は残らず粛正した筈だ。
女子供すら捕まえて、苛酷な雪中行軍の果てに、生き残ったのはたったの5人だった。
帝都で公開処刑に処せられた彼らをおいて、他にも民がいたというのか?
ありえない。
兄は後にも同じような蛮行を繰り返している。
残るのは、必ず5人。
時に苛酷な状況に放り出し、時には互いに殺し合わせて、厭味な程きっちりと5人にそろえていたはずだ。
そして、最後の5人を自身が屠る。
まるで、残虐な百舌鳥のように。

仮に他国に逃れた者があったとて、仮に他国に同様の民族が存在したとして、僕の命を狙う程、兄を崇めるだろうか?
怨みこそ買え、再びの王位を望む等。
当然の如く、命を狩られるのは兄の筈。
何故僕に。
何故、僕を。

「どうかなさいましたか?」

臣下の一人が問い掛ける。
僕は小さく微笑んでみせ、見事に失敗した。
突如襲われかけるという壮絶な経験をした僕に、かの厭味な臣下も気を遣って休養をくれた。
失礼します、
かけられた言葉に、小さく目をつぶった。
広い部屋。
王たる者の居室は、未だ兄の気配が残って慣れやしない。
疲れ切った上、妙に神経を擦り減らした身は、どろどろに溶けていびつに固まってゆく。
思考の羅列は僕の範疇を超え、もはや誰かの話し声のごときよそよそしさで。
そういえば、兄は何処だ?
最近会っていない。
嗚呼、そういえば、北がどうとかハナブサ女史が言ってたっけ。
春のはじめとはいえ、北はまだ寒かろう。
話からすると、そこは北の関所を越えるらしい。
そんな場所になにかあったかな?
嗚呼、兄が。
あの兄がまた王位についてくれたらいいのに。
いや、この事実自体が悪い夢だといいのに。
そしたら命を狙われることもないし、仕事に忙殺されてヘロヘロになることもない。
でも、また兄に押し付けるだけなんだよな。
あの人だったら、大丈夫、今までやってきてたんだし。
僕には無理だったんだよ、うん。
嗚呼、でもあの時の兄の顔。
心底肩の荷が下りたって顔だったよなぁ……兄さんも苦しかったのか。
性格も丸くなったわけだし……。

ノブが回される。
遠慮がちなその音に目を開くと、小さく扉が開かれた。
現れたのは、

「デルンブルク将軍」

髪の乱れを気にもとめず、虚ろな瞳を上げる騎士。
彼は、ここ数日で格段に痩せた。
生気を抜かれ、威厳も何も無くなってしまった。
かつて兄と戦場を駆け回り、臣下の模範たらんとした姿。
しわの一つも許さず、事あらば暴走しがちな兄を嗜め、叱ることの出来る、数少ない男。

「……陛下」

かさついた唇が、消え入りそうな声でつむぐ。
先程、臣下に言伝を頼んだ人物は、望み通り、自ら現れてくれたらしい。

「よかった。来てくれないかと思いました。どうぞ、座ってください。そこでは、どうにも堅苦しすぎる」

「いえ、結構です。お気遣い痛み入ります」

頑なな姿に、小さくため息をついて、ではと僕も立ち上がった。
大きな執務机。
書類が山と積まれて、息が詰まって仕方がない。

あの時、彼の自責は酷かった。
見えなくなった背をがむしゃらに追おうとしたばかりか、殆ど泣き叫ぶに近く謝り倒した。
陛下、陛下、お許し下さい。
わたくしめの不注意です。
どうかいっそうのことこの首を、
一思いに切り落としてくださいまし!
引きずってでも立ち上がらせようとする取り巻きを前に、僕は愕然としていた。
糸が切れたのだ。
はじめはそう思った。
彼は、ただでさえ何かを酷く思い悩んでいた。
その引き金を僕が引いたのだ、と。
落ち着いてさえくれれば、普段の彼に戻ってくれるのだ、と。
しかし、その声を聞きながら、血の気が失せるのが分かった。
気付いてしまった。
嗚呼彼は、
誰か他の者に懇願しているのだ。
その思いは重く深く、彼の深淵に食い込んでいる。
僕なんかが窺い知れない、もっともっと深くに。

「将軍。二、三聞きたいことがあります。正直にお話し下さい」

いくらか落ち着いたらしい彼は、いびつながらも小さく苦笑を漏らした。
彼には、あまりにも似合わない。

まるで、聞かれることが分かっているような。

「あの時、貴方はあのご婦人が何者であるかを知っていたのですか?」

「…………はい」

彼は、静かに目を閉じる。

「彼女の腕には、翡翠の腕輪がありました。幾重にも繋がる鎖。布地で隠してはいましたが、一度見たことがある者は分かります」

「貴方が、それを見たのは?」

「……アルベルト陛下の勅命があった時です」

かかった。
やはり彼は、兄の粛正に立ち会っていた。
何故、失われた筈の民が実在したのか。
何故、彼らは兄を追おうとするのか。
すべては彼が知っている。
王である兄に、誰よりも近かった彼ならば。
掴みかけた糸を、必死に辿る。

「僕を襲った女性が言っていました。あの方を蹴落とした僕を許せないのだ、と」

騎士が僅か固まった。
口を開きかけ、また閉じる。

「あの方とは、誰ですか? 兄のようにも聞こえます。しかし、兄から滅ぼされた彼らが、兄を慕うことなどあるのでしょうか。それとも、もっと別の何かがあるというのですか?」

言いかけては、やめてしまう。
僕は彼を辛抱強く待った。
しばしそれを繰り返して、騎士は唇を噛み締めると、悲壮な瞳を上げる。
瑪瑙のような、不思議な色。
まるで泣きそうに映った。

「……来てください」

彼はつかつかと僕に歩み寄ると、無理矢理手を取る。
強い。
思わず身を引きかける程に。
身の危険すら感じる程。
彼は、構わず踵を返す。
力では勝てない。
それに、真実を願う自我の方が強かった。
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