クインテットビショップの還幸

第9話 失われた民


この時期の視察は、国民への顔出しの意味も持つ。
簡単に言えば、たくさんの地理を覚え、たくさんの人に会わねばならない僕に対する無言の圧力のようなもの。
それでも、急激な政権交代の情勢下、何があるかは分からないと僕の活動範囲は帝都近郊、及び各地方軍が駐留する大都市に限定された。
帝都の城壁を遠く、有権者への挨拶を済ませた僕は、城下メインストリートを自由に歩くことが許された。
と言っても、これもある意味顔を売ること。
道の端にズラリ並ぶ市民一人一人に手をふり、時には話しかけながら進むのは実に面倒な仕事だった。
しかも、僕自身は決して声を上げてはいけない。
側近たちが話すのを見ているだけだ。
兄がこんなことを出来ていたのかと考えると、首を捻らざるを得ないのだが。
疲れ切った身体は退屈の力を借りて、僕は終始睡魔と戦わねばならなくなる。
その時。
人波の中に、一人の老婆を見つける。
知り合いではない。
ただ、ボロボロと涙を零し続ける女。

感極まったのか?
この僕に?

又しても卑屈な心が頭を擡げ、緋色の悪魔が耳元でささやく。

馬鹿だなぁ、お前なんか誰も待っていないよ。
外交もろくすっぽやったことがない餓鬼に、一体何が出来る?
ほら見てみろ、今宰相が話してるあいつ。
お前がいい?
前政権下は怖かった?
嘘つけ、腹の底ではこれで国も終わりだなって笑ってるくせに。
あそこの女も、子供だってきっとそう思ってる。
お前じゃアテにならないって、だから臣下どもも来なくなったんだろう?
皆そうさ。
そうやってお前は見放されていく。
価値がないことがバレていく。
可哀相に!
誰からも必要とされない傀儡の王様よ!

いたたまれなくなって、駆け出したかった。
そんなこと、ないと言ってほしかった。
あの老婆なら、
ふらりと返しかけた踵。
制止したのは、傍らの騎士で。
無言で首を振られた。
なんで、
言いかけた声は言葉になることはなかった。
自ら交わせない言葉。
そんなものに、どんな意味があるというのだろう。
市民と語らっていた宰相が、騎士に話題を振る。
彼は根っからの文人だ。
兄には忠実とはいえ、主を失った騎士にはいい顔をしなかった。
よくよく見ないと分からない程度に眉をひそめた騎士が応じる。
もう一度振り返った。
まだ、いる。
僕はそっと、その場を離れた。
話し掛けている隙に飛び出さねばならぬ程、今の僕には余裕がなかった。
老婆は、泣きながら入り組んだ建物の傍らに立っている。
人波からは少し離れたところ。
驚くことに、誰に止められることもなかった。
やはり、軽い存在。
王冠を得ようと、誰にも省みられることのない存在。

「すみません、あのっ……!」

息を切らせて肩を叩く。
振り向いた彼女は、酷く驚いた顔をした。
まるで、亡霊でもみたような。

「なんで、泣いているんですか?」

ぐっと噛み締められる唇。
暫く堪えていた彼女は、ゆっくりと卑屈に口元を歪めて見せた。

「悲しいからですわ、殿下」

その言葉を咀嚼する間際、建物の影となった頭上から、風を切る音が響いた。
思わず見上げると、巨大な影。
爛々と輝く目玉に、ふわり靡いたものが頭から首にかけて巻き付けた布だと気付いた時、咄嗟にその場を飛びのいていた。
えぐられる石畳。
延びる僕の影に、飛び降りた姿。
大地に突き付けられた刃は、明らかに僕の息の根を止めんと向けられたもので。
上げられた瞳。
褐色の肌に栗色の、

「異民……」

独特の文化を持ち、独特の神を崇め。
それ故に父王の御世、兄に粛正された少数民族。

淡い若草色の長布を、頭と首に巻き付けたそれは、長い睫毛に彩られた瞳を煌めかせると、手にした刃で横一線に凪ぐ。
紙一枚の差。
先程といい、僅差ながらに避けられたのは、かつて剣を握らせんとした兄に代わり訓練をつけてくれた騎士のおかげか。
逃げしか知らない身でも、今は感謝した。

「陛下っ!」

異変に気付いた騎士が怒鳴り声を上げる。
市民の波がどよめいた。
分が悪くなったのを感じ取ったのか、それは小さく舌打ちをして、頭に巻いていた布地を風に払った。
ふわり、靡く髪は肩を越えていて。
鼻先に向けられた刃は、殺す為ではない。
完全な威嚇。
老婆を庇い、女は言った。
憎しみを込めて。

「私たちは、お前を許さない。王座につくべきは、あの方だけ。あの方を蹴落として、のうのうと踏ん反り返っているお前なんか」

何の話だ?
問う間際、二人の姿が街闇に消えた。
世界は、僕を完全に嫌ってしまった。
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