クインテットビショップの還幸

第8話 死への行軍



兄から渡された予定表は、バッチリと一ヶ月分はあった。
詰め込まれた予定は視察だの応接ばかりで、その合間合間に紙面雑務はこなしていかなければならない。
役所の方針から民からの意見書にいたるまで、その数は膨大を極めた。
しかも、事あるごとに役人たちは最高権力者への伺いを立てにくる。
おそらく兄にやっていたことの延長なのだろうが、その数があまりに膨大すぎて落ち着いて座っていることすらできやしない。
更に悪いことに、今までの行い故、確証あるデータを示されようと僕には理解が出来ないのだ。
いいか悪いか、判断がつかない。
最終的には「あのぅ……これって、そっちの方がいい……ってことですよね」と、逆にお伺いを立てる始末。
誰もが鼻白んだ。
笑みを引き攣らせながら、説明しなおしてくれるのを申し訳なく思いながら、かつての兄を思い出した。
王座を守っていた兄は、伺いを立にきた重鎮を、処構わず叱り飛ばしていたから。
お前は何か、こんなことも決められんのか。
お前はそれでいいと思ったんだろう?
だったら、俺に聞くな!
は? デメリットだぁ?
そんなん、自分たちで何とかしろ!
それをするのがお前らだろう!
当時はとつに恐ろしかった。
兄は、苛立ちを隠しもせず、今にも切り殺さんが如く怒鳴った。
その様に、ある者は絶望し、ある者は震え上がる。
そう、僕もそうだった。
誰かが怒られる度、誰かが兄の逆鱗に触れる度に、逃げて、怯え、固まっていた。
今なら解る。
こんなもの、端から無理なのだ。
家臣たちとしては、後々怒られぬ為に些細なことから聞き回っただけだろうが、構っていられる暇はない。
出来ることは自分でやれ。
俺に聞くな。
やってから結果を教えろ。
それは一番信頼していたからこそ言えたのではないか?
当初、その流れのまま王に王にと尋ねてきていた重鎮たちも、次第に足が遠退いた。
自分たちで決めてくれたらしい。
僕にとっては嬉しいことなれど、期待を裏切った結果だと思うと、少し胸が軋んだ。

火急の事務を全て処理して、軽く一息つく。
何ということだ。
丸々一日眠っていない。
先代より処理すべき量自体は減っているんですからね、と陰湿攻撃をしてくる側近にごめんねと返し、目を閉じた。
これより多く。
書類をこなし、面談を行い、拝謁を受けて、更に一年の殆どを戦場で過ごす。
どれだけの精神力があれば事足りる。
それでも尚、僕の前に姿を見せていたアレは人間か?
圧力でしかなかったけれど。
嗚呼、疲れた。
とりあえず寝たい。
今は兄より自分だ。
三十分後には側近が来るというのに、とろとろと手放し始めた意識の中、ざわめきを聞き取った。
その声に当てをつけ、覚束ない足を立たせると軽く目眩がした。
薬を、貰わないと。
上手くしたら、休養を助言してくれるかもしれない。
あの人は、医者だ。
兄の主治医、

半ば倒れ廊下に転がり出ると、目的の人は案の定、たくさんの侍女達に囲まれていた。
黒々としたコシのある髪を後で束ね、分厚い眼鏡をかけた初老の小男。
ただでさえ小さな身体を屈み込ませ、担いで来たであろう樫の引き出しを引きあけては、にへらにへら何やら取り出している。
怪しい者ではない。
多分。
いや、見た目からすると十二分に怪しいのだが、見た目程怪しい人ではない。
……変人ではあるけど。
東洋の変質者。
先に拝謁したハナブサ女史義理の父にして、圧倒的技量の東洋医学師。
それが、兄の主治医だった。
流れてきたのも縁と王宮に召され、今や時折徘徊するに限るのだが、その持ち物の珍しさから侍女や臣下に人気があった。
今日も今日とて、へらへらと、侍女たちから頼まれていたであろう様々な装飾品を並べだす。
さながら、異国の品評会だ。

「こらこら、早く持ち場にお戻りなさい!
アーデルベルト様に怒られたらどうするのです!」

声を荒げるのは、迎えの使者となった兄の乳母。
普段なら蜘蛛の子を散らす侍女たちも、何故だか今日は逃げてはいかない。
どころか、丸い目をくるりとしばたき、「だって」と口を尖らせる始末。

「陛下、どこにもいらっしゃらないんですもの」

「いらっしゃらない? 何故」

「知りませんよぅ。騎士様に聞いても、困った顔をされるだけだし。あんな微妙な表情、初めて見たわ。普段快活な方だから」

首を捻る一同。
兄がいない?
ふらふらと覚束ない足を引きずり距離を縮めると、主治医は初めて僕の姿を認めた。

「やぁやぁ、弟クン!
噂は聞いているよぉ。
あの子から家督貰っちゃったんだってぇ?
大変だろぉ。
あの子、馬鹿みたいに忙しい子だったから。
定期で診断する時も、書類手放したことなかったからなぁ」

「はぁ……」

「んン?
ちょとやつれた?
ビタミン剤あげよっか?
元気でるよぉ」

元気、か。
なんとなく言葉を飲み込んでしまう。
兄は、兄を。
俺はまだ、兄の足元にも及ばないのに。
なのに、倒れそうだの疲れただの言っていい訳がない。
そんな僕の葛藤をよそに、医者はくふふと笑い、手を振った。

「それより、君のお兄様はどこだろぅね?
男の子っぽく見える漢方だのいーろいろ持って来たんだぁ。
あ! それとも、もう女の子として生きるのかな?
一応お薬の在庫はあるけど。
でも、あそこまで育っちゃって、戻せるかなぁ?
僕、魔法使いぢゃあないから」

「アボニムーっ!!」

暢気に笑っていた医師に、黒い影がかかる。
と、視界から人影一切が消えた。
飛び付いたハナブサ女史に押し倒され、黒髪の医者は間抜けな声を出した。
嗚呼……娘の方が、圧倒的に大きいってどうだよ。
身長が。

「エイちゃん……苦しいよ」

困惑そのままに、娘の頭を撫でる。
少しは落ち着いたのか、ハナブサ女史が鼻を啜りつつ身を起こす。

「ミアン、アボニン。
でも、大変なのよ。一大事よ」

「ケンチャナヨぉ。
君は相変わらず落ち着かないねぇ、ハナブサチャン。
で? どしたの?
天でも落ちてきた?」

「馬鹿ねぇ、天が落ちようが変わりに出る穴があるに決まって……って、違ぁーう!
坊ちゃんが行っちゃったのよぉ!
私たちに言わないで!」

「あの馬鹿っ」吐き捨てて、娘は苛々と辺りを歩き回った。

「ホントにやるつもりかしら?
強制する奴もいないってのに。
嗚呼もう、北ってどっちよ!」

「なぁにぃ? いつもの戦場放浪じゃあないの?」

「今回は本当よ!
あのデルンブルクが落ち込んでたんだから。
そりゃもー、この世の終わりみたいに」

あいつ、やるつもりね。
呟かれた言葉は小さく、僕と医師にしか届かなかった筈だが、

がたん。

手にした荷物を取り落とし、乳母が愕然と立ちすくんでいた。
顔は青ざめ、引き攣っている。

「……どういうことですの」

声は震えているが、芯が通っている。
静かな叱責すら帯びたそれを耳に、ハナブサ嬢は事の次第を見極めたらしい。
事態が飲み込めない僕ですら解るそれは、どうやら聞かれてはいけない人に聞かれたらしい、ということ。

「あンの、糞餓鬼!」

腹の底から吠えて、彼女は駆け出した。
出が北方有数の豪族という純血淑女にあるまじき物言いに唖然とする。
普段の彼女からは想像できない。
これまた見たことがないスピードで、纏わり付くスカートすらものともせず消え去った。
城の中は広い。
方々に走った通路は複雑を極め、今から臣下に制止を命じようとどだい無理だろう。
少しだけわかったこと。
何かが起きようとしていること。
そして彼女は、その正体を知っていること。

「あらあら、行っちゃったねぇ」

罪悪感に膝を抱えるハナブサ女史を、子供をあやす手で撫で摩りながら、医師がレンズ越しの目をくるりと回した。

「私……なんってことを……っ! これじゃあ最悪よ。あいつが簡単に折れるとは思えないし、乳母様乱入したら、ただでさえ悲惨なシナリオ、よじれによじれて崩壊する……っ」

「あらー、案外止められるかもよぉ? あの娘と似て押しが強いしぃ」

「北よ、北! だいぶ暖かくなったとはいえ、山一つ二つ越えるのよ! あの男勝り馬鹿なら大丈夫でしょうけど、普通の女性がそんな過酷な旅できるとでも、」

「出来るよ。彼女なら」

背後からかけられた言葉は、決して小さくはなかったが、まるで掻き消えそうな印象を受けた。
音もなく、ぬらりと立っていた男。
兄の、騎士だった男。
彼らしくもない、思い悩む姿は一種異様とすら思えた。

「アンネローゼ公の兄上が、帝都内で交易商を営んでいるんだ。兄上と北方の御実家に声をかければ、少なくとも足は用意できる。山越えを避ける唯一の道は北方軍の関所があれど、長はハインリヒ・ビットナー将軍。彼女なら、騒げば何とかなる」

止めることは不可能。
目伏せた騎士が、嫌なことから目を反らすように「視察の時間です」と呟いた。
Copyright 2011 All rights reserved.