クインテットビショップの還幸

第8話 死への行軍



「アーデルベルト!」

立ち止まらない背に向かって叫ぶ。
漸く振り向いた姿は、驚く程に冷たい表情をしていた。
過去を思い出して、寒気が走る。
そうだ、こいつはこういう顔しかしない時期があった。
感情も、なにもかも失った。
はじめから何も持ち得ない者の顔。
家なし者でもこんな顔はできまい。
そう、全てを甘受して死に行く者でしか。
たじろいだ俺に気がついたのか、我が主殿は直ぐさま視線を和らげ、ぱすぱすと二、三度瞬きを繰り返した。
最近見せ始めた屈託のない視線を取り戻すと、「ライマー」と俺の名を呼ぶ。

「どうした、何か不具合でもあったか?」

「……不具合ではない。ただ、お前が見えたから、」

その背に負った、ただならぬ怒気に不安になったのだとは伏せておく。
すると彼は、へらりと笑って「子供か」と頭上に手をのばそうとした。

「お前……お互いいくつだと思っている」

「三十くらい。大丈夫。俺、遅れて来た幼年期だから」

いや、遅れすぎだろうと呟く内心も、消せない懸念に押し潰されてしまう。
同じ長身を誇る相手に頭を撫でられるなんて、端からみると異様だろうが今日は撫でられるに任せる。
普段のようにはできない。
おそらく奴はそう望むだろうが、ただの幼なじみとして、軽口で接する気になんかなるものか。
押し黙るこちらの心象を察したか、撫でていた手を止め、ふと表情を固くした。

「……ライマー、ひとつ聞きたい」

「なんだ」

「クラウスは、ものになると思うか」

鋭い視線を上げた彼の目から逃れようと、思わず俯く。
その質問は嫌だ。
彼の配下として、唾棄すべきものだ。
答えなければいい。
今の彼ならば、それを責めたりはしない。
しかし、叩き込まれた習性とは恐ろしいもので、俺の唇は勝手に真実を紡ぐ。

「……無理だ。あれでは、戦場には出られない」

「そうか。分かった。
ならば問う。
あいつが《王となるべく》は可能か?」

ほらきた。
腹の底、溜まる苦みを感じながら、俺は小さく喘いだ。

「……不可能、ではない。
歴代の王は、戦場に出る者などいなかった。
陛下の場合、お育ちになった環境と剣の腕故直接指揮をとっていただけ。
兵士の士気や、戦況を確実把握し、最大権力を示すことで指揮権の混乱を防ぐ意味では実に効果的なやり方だが、最大の弱点を敵に曝してしまう意味も持つ。
国王が討たれては、国は総崩れだ。
故に王たる者は戦場に出る必要はない。
殿下は執務等積極的にこなしておいでだ。
そういった意味では、王に《なること自体は》可能かと」

あえて曖昧にしたのは、《俺が望む王》にはなれないだろうという確信のせいだった。
国も、国民も、忌避し、恐れながらも願う王。
神に最も近い覇者。
誰も、貴方のようにはなれない。

「そうか」

ふと目を伏せた彼は、小さく笑みを零した。
まるで安心したように。

「俺は、お前のそんなところを信頼している」

「口八丁は、もう一人に任せていたからな」

「それでいいんだ。真実を飾り隠すのは必要だが、皆がそれをする必要はない」

「だが、残ったのは俺だった。
奴の方が上手く立ち回れたろうに」

「仕方ないよ」

もう一人、欠けた存在を描いて吐き出した。
彼は、遠い目をして眼下を眺め見た。

「出発は今晩だ。
供はつけない。
向こうには、男が一人とメイドが一人。
当面の荷物は、連絡便で届けさせてくれ。
一日一回、計三回」

それで全てが終わる。
零した瞳には、いびつな安堵の色。
止めようと思った。
しかし、それをさせてくれなかったのは、彼のひどく疲れ切った様と、それだけをひたすら望んできた過去を知る故か。

それでも、悪あがきくらいは許されるだろう?

「……俺も行く」

吐き出した言葉に、直ぐさま「駄目だ」と返して、彼は視線を戻す。
強い、意志の塊ごとき視線。

「ライマー、お前まで抜けてどうする?
俺という背骨を抜かれた軍隊が、一体どうなると?
核たる将軍二人も欠いては、残念だがこの国は機能しまい。
お前は、この国を殺すつもりか?
俺がようよう作り上げた国を。
なぁ、ライマー。
ライマー・デルンブルク将軍よ」

幼子を諭すような声に息が詰まった。
そう言われては何も言えやしない。
彼がどれだけこの国を愛していたか知っているから。
とどめをさせるものか。
アーデルベルト、お前は本当に、

「酷い男だな」

笑みはいびつに歪んでいたと思う。
しかしそれを向けられた彼は、ゆるりと微笑み、言った。

「俺は国始まって以来の悪女だよ」
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