クインテットビショップの還幸
第2話 混沌の聖地
恐ろしいものが、4つ、ある。
ひとつ、神。
ふたつ、諸国。
みっつ、国民。
それらは、永遠と僕に付きまとい、この眼開いてから床につくまで、ややもすれば夢の中でさえ監視を怠らず、評価をつけ、罰し、非難し、あわよくば崇め奉ろうとする。
このような愚才な人間を。
このような矮小な人間を。
しかし、重責が重責であり続け、逃亡しようとする身を引き摺り戻し、頬を張られ、鞘で打たれて、逃げられぬ、逃げようとすら思わぬほどになって、その恐怖からもようよう息をつけるようになった。
今はもう、時折去来する怠惰な虚無感に寄り添って、甘く囁いてくるのみである。
恐ろしいものが、4つ、ある。
幼い頃から恐ろしくてたまらないものが、4つ、ある。
恐ろしいものが、4つ、ある。
そのうち3つは、今や怖れるに足らなくなった。
恐ろしいものが、4つ、ある。
恐ろしいものが、4つ、ある。
残るひとつは――、
僕の、“兄”である。
空気が一瞬にしてざわめいた。
静寂の中、ひっそりと打ち沈むことの方が多い城内で、劇的な変化はビリビリと肌を焼いた。
鳥肌が立つような悪寒。
動悸、息切れと、反対に焦がれるような焦燥。
心底怖れていたような、しかしどこか待ち望んでいた喧騒に、手にしたペンを取り落とした。
転がるガラス、拉げるペン先。じわりじわり広がっていくインクの染みに、嗚呼もうこのペンは使えまい。
書き直しが決定した書類すら省みる余裕も無く、僕はとにかく席を立った。
来てしまった。
来てしまったのだ。
早く行って、出迎えねばならぬ。
だのに、焦る気持ちは躰の彼方此方に凝り、全くもって僕の動きを阻害する。
高級なデスクチェアが倒れこんだ。
ガラスペンが卓上を転がって、毛足柔らかな絨毯の上に被害を広げた。
来てしまった。
来てしまったのだ。
奴が、
彼が、
あの人が、
あの人が、
あの人が、
あの人が!
「クラウス! クラウスは何処だ!」
上がる罵声。
僕を呼ぶ声。
制止の声はことごとく砕け散り、ざわめきは次第に大きくなっていく。
身が縮む。
筋肉がぎゅうと引き絞り、息すらも飲み込めぬ。
嗚呼、普段なら何と感じぬこの場の豪華さが忌々しい。
これではまるで、かつて彼がその手で討ち取り食いつぶしてきた、幾多の諸国の王たちの再現ではあるまいか。
汗が滲む。
いっそうのこと、このまま時が止まってしまえばいい。
彼にまみえる不遇に比べれば、何と甘美な妄想か!
しかし神は無常にも、この敬虔な信者を救ってはくれないらしい。
彼が呼ぶ。
クラウス、クラウス。
糾弾するが如く、彼が呼ぶ。
クラウス、我が弟は何処?
その度僕は、既に小さくはなくなってしまった掌で、ツキリと痛む胸を押さえざるをえなくなるのだ。
何かしでかしやしなかったか?
彼の意にそぐわぬ何事かを。
彼の機嫌を損ねる何事かを。
「クラウス!」
一際高い怒鳴り声を上げ、乱暴に扉が開かれた。
脳と体の末端までとが、全て切り離された心地がした。
舌が喉に引っかかる。
辛うじて咳き込まなかったのは、眼前、外界との境である扉から侵入してきた白銀の影に気を取られたからか。
将にして、王。
主にして、神。
伝説にして、僕の、
「兄さん」
震える声が吐き出すと、見慣れた鎧に身を固めた彼は、鮮やかな色彩映える瞳を細め、白々しくふんと鼻を鳴らして、無遠慮に室内へ入り込んできた。背後からは、ぞろぞろと付き従う人、人、人。
「今次戦況における年次緊急予算ですが、早急であれば今月十八日にも議会の承認を得ることが可能です。これにより、二次・三次緊急予算を含め、前回提出されましたものにプラスして、二倍……いえ、三倍の武器弾薬を戦前投入できることになります」
勝手知ったる何とやら、己の部屋がごとく踏み込んできた十字軍は、しかし真の主を無視しながら己の世界を進めていく。鬱陶しげに纏ったマント、甲冑に手をかけた彼に対し、微笑み一つ、進み出た初老の女が手を差し出した。
その隣には、仏頂面の軍服を身に付けた青年。
その背に構隠された彼の側近である国家経理担当者は、むっと顔を顰めて、声を張り上げねばならなくなった。
戦勝時の予測データ、
敗戦時の予想損害データ、
現在の物価と、見込まれる経済成長のデータ。
データに、データに、よくもまあここまで調べたことだ。
読み上げられた数値は、しかし音にされた傍から惜しげもなく捨て去られ、男の手から散っていく。
舞う紙片、
バラバラになる書類、
彼のために作られたデータ。
彼のために組まれた作戦。
省みられることもなく地に伏した紙切れたちを尻目に、一向は足を止めようとはしなかった。
彼が進むから。
彼が望むから。
彼のトレードマークともなっているずしりと重い鎧は、背後の青年が受け取った。
下から現われた煌びやかな軍服を、心底煩わしそうに取り払う。
あまりに迷いなく皆が欲しがる装飾品を脱ぎ捨てる姿は、正しく彼自身がそのものなのだった。
紙片と同じく放り出されるそれらはしかし、彼の背後、ピタリと控えた女によって拾い上げられてゆく。
舞う紙片、
散る衣服。
嗚呼、もうなんと非現実じみたこと!
竦んだ僕が思わず後ずさると、もはや漆黒のタンクトップに、常時身に付けた黒鳥を模したペンダント、血の染みが残るズボン、膝まである編み上げ軍靴という井出達になった彼が、イライラと髪を掻き揚げた。
「しかしこの予算では、他予算を削るどころか緊急国債の発行どころでは到底足りなくなります。残された手段としては臨時的な税の上乗せをせねばなりませんが……」
「えぇい、その件はお前たちに一任すると言っただろう! そんなことですら、俺に聞かねば動けもせんのか。でくの坊共が」
突然上がった罵声に、眼鏡をかけた男はひぃっと悲鳴を上げる。
かわいそうに。あのレンズに歪められた世界の重きは、きっと果てしなく彼に傾いている。
僕と同じように。
痛々しい程しょげかえり、引き下がった背をちらと一瞥、口元を歪めた。
己の末路を見た気がして、腹の底が冷える。
この国は、彼。
絶対的勝利の生き神であり、伝説に限りなく近い男。
「何故にあのクソどもは自分の思い通りにやろうとせん。能力があるものがその力を出し惜しみするのは、能が無いより愚かなことだと言っているのに」
「君も酷い奴だよ、アーデルベルト。そこは正直に、《信頼しているから、望むとおりにやってみろ》と言わなければ」
背後の青年が小さく笑うと、彼はバツが悪そうに「ほざけ」と呟いた。
「そのくらい察せ」
「常人には無理なんだよ。俺たちやアンネローゼ公との仲じゃあるまいに」
「言葉に出しては言っている」
「ガサツすぎる物でなら、ね。アーデルベルト。君は少し意思表示が苦手なんだから」
耳慣れた幼馴染からの小言に小さく手を振り、ニヤリ、不敵に笑ってその双眸に僕を映した。
怖気立つ。
まるで、何もかも見透かされ、その上で嘲られているような。
僕の葛藤と裏腹に彼は至極上機嫌で、部屋の中央に置かれたチェアーに身を沈めた。
くかぁと間抜けな欠伸をひとつ、堂々と踏ん反り返る様は、正しく帝王のそれで。
「二日後だ」
「は?」
唐突に告げられた言葉は意味を成さず、僕は思わず不躾に聞き返してしまった。
何が、とは言えなかった。
見る間に顔を顰めた彼が、少しばかりふて腐れ、口を尖らせたのだ。
「何だお前、そんなことも覚えていないのか。いいか、よォく聞け、可愛いクラウス。明後日はお前の成人の儀だったろうに」
成人?
言われてみると、確かに二日後は僕の十五の誕生日だ。
しかし、何故それが今?
「オメデトウ、クラウス! これで晴れて、お前も一人前だな」
品位もへったくれもなく笑う様は、王族というよりは猛将である。どちらも間違ってはいないのだが。
僕に、王族としての品格を求めてくる卑屈な家庭教師にもみせてやりたい。
僕の兄、
国の神、
ブライトクロイツ家長にして現王位、アーデルベルト・ブライトクロイツその人。
「今年の儀は、華々しくやるぞ! 兵火隊も上げようか。何なら、食料制限を緩めたっていい。首都だけでない。地方も他国も、皆素晴らしき日を祝うんだ!」
「でも、今は戦争が……」
思わず口を挟む。
血まみれの彼の服。
傷だらけの彼の腕。
ちらちらと視線を投げる僕に気づいたのか、彼はふふん、と足を組み替えた。
彼が血に塗れているのも――彼は前線で、指揮を執っていたはずなのだ。
彼が泥に塗れているのも――酷い惨状、この城とは比べ物にならぬ程に。
僕。僕はなにをしているのか?
彼のように戦場を駆けることもなく、ただぬくぬくと城の中にとどまって。
彼の描いた地図の上を、彼の守る箱庭の中で、守護神である彼に怯えながら。
彼が描く未来に、僕の栄光の背後で、たくさんの人が死んでいく。
いや、今現在も、今までも続いてきたこととはいえ、唯でさえ気が重い儀式の裏で、何人も、何十人も!
「そんなもの、放り出せ。どっちが大切かなど、判りきっているだろうが馬鹿者が。そうだな、お前がどうしてもというのなら、このはれの日に停戦してやってもいい。もう少しで落とせそうな敵を見逃すのは惜しいが、お前のためと思えば何ともないさ」
快活な声に、女が苦笑を溢し、青年は顔を顰めた。
明るい筈だというのに、空気は妙に重々しかった。
ご機嫌なのは、目の前の彼だけ。
アーデルベルト・ブライトクロイツ。
僕の兄にして、神。
猛将にして、この国そのもの。
帝王たるブライトクロイツ王家の、正当なる嫡男よ。
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