カチ、カチ、カチ……。

 振り子時計が、着実に時を刻む。

 その部屋には美しいまでの沈黙が、途切れる事無く流れていた。

 飾り彫りの施された西洋風の振り子時計の針は、すでに重なり合おうとしている。

 世界を隔てていた窓の外には濃厚な闇が落ち、いつもと変わらず呼吸をしていた。闇は生きているのだ。

 しかし、長い間続けられた安息と停滞の時間も、突如として終わりを告げられる。悲鳴に似た叫び声が、長い外廊下を挟んだ母屋から轟いたのだ。

 聞こえてきた乱暴な足音が、離れに設えたこの部屋へと向かってくる。

 しかし、唯一息づいていた生命は、それにも反応さえ返さなかった。

 盛大な音を立て、桜の花が描かれたふすまが開け放たれる。

「伯母が何をしたって言うんですか! 五年前からずっと寝たきりで、今は意識も戻らないんですよ」

 すがり付いてきた女が、懇願の叫びを上げる。

 男は、ぎろりと眼下の瞳を睨み付けると、氷のように冷ややかな姿を、裸電球の明かりの下に晒した。

「他に理由がお要りか。彼女――松内志津恵は、帝国に反する者の手引きを行っている。帝国に反することは、死罪なり。国が決定したことですよ」

 見下ろした海原が、吐き捨てるようにそう言った。

 痛々しいばかりの電飾の下、胸元につけられた勲章が赤茶けて見える。

「そんな……! 伯母様が反乱なんて、何かの間違いです。寝たきりで意識も戻らない人間に、何が出来るって言うんですか。この部屋も、毎日私たち家族が出入りしていますから、赤の他人が入る事なんて出来ません。確かに、一時期おかしい時期もあったそうですが、少なくとも私が知る限りそんなことする人じゃありません。間違いにきまってます……!」

 力なくへたり込んだ女が、壊れたようにそう繰り返す。

 その涙すら目にせず、海原は腰に帯びた拳銃を抜き放った。鈍い灰色。何度見たのだろう、その死と恐怖を混ぜた色が、今はただ海原の心を無に落とし込んでいた。

 薄暗い銃口が、ただひたすら眠り続ける老婆の額に向けられる。

 女の瞳に、濃い絶望が浮かび上がった。

 劈くような銃声。

 呼応して排出された薬莢が転がる軽い音が辺りに響き渡り、焼きを纏っていた空気が一瞬にして血生臭いものに変わった。

 飛び散った鮮血が、薄っすらと月明かりを映す障子に鮮やかに絵を描いた。

 鼻腔を突く異臭。

 その光景を呆然と見つめていた女が、こみ上げてきたものを制御できなくなったのか、先ほど以上に声を上げ始めた。

――そうだ、これでいい。権力とは何時の世も、あまりに偉大で甘い。行使する一部の者には優しく、大多数には無常なのだ。そうでなければ秩序は形成されることは無く、かといって、こうして形成されて秩序は、見せ掛けのように脆い。

 しかし、この世界にはまやかしであれ、秩序が必要だ。その裏の顔を知らない大多数が、社会という生活基盤を無意識に求め、己の背を預ける国家を、無責任に肯定する。

甘い一面だけだとしても、国民が求める以上、我々はそんな愚かしい秩序を断固として守り、行使しなければならない。哀れな大多数の愚民のために。

「後始末はお任せください。お早目のご帰還を」

 背後、闇にまぎれた部下が言う。

 感情を宿さないその瞳を一瞥し、軍服のポケットから取り出したハンカチで、手についた血を拭った。

 踵を返した海原に、女は構う事無く泣き続ける。

――そうか、死とは悲しいものだったか。

 ふと、そんなことを思った。死に慣れきってしまった身には、おそらく永遠に訪れない感情だ。

 入れ替わりに室内へとなだれ込んだ軍人たちが、一時の喧騒を作り出していた。

「相変わらず冷徹ですね。同胞の死に、涙一つ見せませんか。野蛮なジャップらしいことだ」

 酷く明るい月の下に、一人の人物が照らし出される。

 離れの土壁に背を任せていたその人物は、ゆっくりとそう呟き、赤く染まった海原の顔を見た。

 くっと、海原が口元を歪める。

 視界の先には、青白く幻想的に照らし出された安藤の姿があった。

「日本人でありながら、別の記憶を持つあなたには分かりかねるでしょうな。ミス・ジンジャー」

「懐かしい名を呼ぶんだな。今では誰も呼ばないわ」

 昔の名を呼ばれ、憎悪と共に今の身の上を思い出したらしい安藤が、忌々しげに顔を顰める。『安藤昇』という仮面を貼り付けていた虚勢が半ば崩れかけ、使い慣れた言い回しが零れ始めた彼へと一瞥を送り、海原は続けた。

「そりゃあ、あなたはすでに紛うことなき日本人だ。どんなにあなたが認めたくなくとも、仕方のないことです。しかしまあ、そちらの名で呼んで欲しいのでしたら、そうしましょう。それよりも、どうです? いくらか男の体というものには慣れましたか? IQ一四〇の天才プロフェッサー(博士)には、どうってことないでしょうが」

 いかにも楽しそうに笑う海原に、安藤が眉を顰めた。

己の身に起こった非科学的な現象が、安藤自身理解できていないのだろう。しかし、与えられた生だ。生きていくしかない。

それが、復讐という意味しか持たないものだとしても。

「二代にも渡ったその技術を、我々にも与えてくださればよろしいのに。酷いお人だ」

 安藤は、かけられた言葉に背を向けるように、寄りかかっていた壁から背を離す。伸び放題の草木を踏みしだく規則的な音が、夜気を振るわせた。

「勘違いしないで欲しいですね。僕はただ、何としても復讐をしたいだけ。何が好きで、敵であるジャップに我が技を教えねばならないの。軍に手を貸すのも、我が望む復讐が、望む形で行いやすいから。まちがっても、汚れたあなたたちと同じにはならないわ」

「それは、ミス・ジンジャー。あなたの言葉ですか? それとも安藤昇の?」

 返事は無い。

 頑なな背に、海原は小さくため息を吐き、肩を竦める。

この世はあまりに憎しみに満ちている。人は恐れというものを、己の中で消化できない生き物のようだ。それが、一種の差別へと繋がる。結局それは、大多数で固まって、恐れるものから目を背けガタガタ震えているだけだというのに。

――哀れだな。

 畏怖する何かと、深く関わろうとしない限り、理解など生まれない。触れることもせず、何を優劣などつけられようか。大多数で固まり、恐れおののいているだけの者が、それから目を背けるために自らを優遇するのだ。

 月夜は白くかげり、冷たい夜気が肺に入っては細胞一つ一つを冷やしていく。

不規則に石の敷かれた外廊下や母屋、隠れるようにひっそりと立つ離れを目に映し、諦めたように足を踏み出した。

「俺も同じだよ。復讐にのみ生き、そのためだけに死ぬ。お前と同じさ」

――そして、俺とお前は一生分かり合えない。お前が、『日本人』というもの全てに、劣勢のレッテルを張り、俺という一個人に触れてこない限り……。

「ま、そんな未来、一生来ないだろうけど」

 自嘲的な呟きは、絶望色の濃くなった夜の闇へと溶けて消えていった。

 

「やはりお前か、伽羅……」

 闇の中から這い出てきた気配は、忌々しげに口を開く。

 伽羅はただ、大きく眼下を見下ろす窓辺に腰を下ろし、動じる事無くその声の主を迎えていた。

「あら。その声は、白院帝志摩卿ではありませんか。お暇なことですね。こんな所までいらっしゃるなんて。それとも、自らの力を封じられるのを覚悟で、追ってきたので?」

 窓に映る瞳は、血のように赤い。

「この都……何か狂っているとは思ったが、まさかお前が手引きしているとはな……」

 目を細めた志摩の影から、一匹の白蛇が這い出てくる。志摩の使い魔であるその蛇は、酷く赤い舌を見せながら、志摩の周りを囲い始める。

「忘れませんよ。五百年前、生まれたばかりの私を、問答無用で閉じ込めた事は」

「負の感情に飲み込まれ、邪神として地獄に閉じ込められたお前の母を、呪術によってこちらに戻した人間か……幼いお前だけでも、と情けをかけたのが間違いだったと思いたくはないが……。二百年前、私の手元からお前を逃がしてしまったのが失敗の始まりだ。やはり、更生はむりだったか……」

 振り返った伽羅を見つめ、志摩が吐き捨てるように言った。

 にやと笑う伽羅の背後で、小さな破壊音がした。

「あなたには感謝しています。あの闇から、私を出し、一神として扱ってくださった。しかしね、考えても見てください。私は、両親の行いとはいえ、幼くして両親を殺され、おなじ遺伝子を持つものとして、何も知らぬ幼子の時から危険視されてきた。無性に悔しくなりましてね。確かにあなたは私を一個人として扱ってくださった。しかし、他はどうです? 生まれという足かせに囚われず、人格だけを見てくれた者はいましたか? この世はあまりに腐っている。人間界も同じだ。笑える程にくだらない。

それで、思ったんですよ。どう生きたところで結局そう思われるのなら、奴らが望む姿になってやろう。無条件に攻撃できる敵が欲しいのなら、むしろ進んで敵になることで、正当な理由をもって奴らを叩き潰してやろう。私を蔑視した者たちを、絶望させてやろう……ってね。幸い、わが身は絶望には慣れている。やろうと思えば、人の心を捨てるのは簡単でしたよ」

「だからって、人間を陥れるのか」

 閉じられた伽羅の口元が、猟奇的に歪む。

「だって、楽しいんだもの」

 眩い月光の元、その身はガラス細工のようで、志摩の身を恐怖が襲った。

「……やはりお前は、始末しておかねばならないようだな……」

 吐き捨てるように呟く。

 闇の中からもう一匹白い蛇が姿を現し、口に銜えた真剣を志摩の手へと運んだ。覚めるような銀色が、月光を受け煌めく。

にっこりと笑みを浮かべた伽羅が「できますか? あなたに」と首を傾けた。

 志摩の身を這っていた蛇が威嚇の目を開き、牙をむく。志摩自身、手にした真剣を握りなおすと、大きく一歩を踏み出していた。

 しかし、その切先が含みのある笑みに届く間際、鈍い衝撃が志摩の身を襲った。

 市松模様の床に、盛大に押し付けられる。

 痛む瞳を開くと、見知らぬ青年が志摩の細い首を押さえつけ、感情の灯らない瞳を向けていた。

 青年の背後で、伽羅が悠々と立ち上がる。

「紹介しましょう。私の愛息子、紗羅です」

「お前……何をっ」

 上手く回らない舌で、何とか言葉を紡ぐ。

 その問いに伽羅は一瞬きょとんと目を見開いたが、すぐさま何時にない怒りをその顔に浮かべた。

「何を言うか……私の、ニンゲンとしての幸せを奪ったのは、お前たちの方だというのに……!」

 紗羅の母は、伽羅を追ってきた人外の者たちに殺された。初めて存在をを受け入れられ、世界を赦せた、そんな幸せな日々を、彼らは奪ったのだ。

「あの事件に、あなたが関係しているとは思わない。しかし、今まさに私を殺そうとしたのは事実なんだ。あなたも、私の敵なんですよ!」

「可能性の調律者として、人間と共存できればいいものを……」

「そうなる可能性すら閉ざしたくせに、よく言う。結局、あなたたち神にしてみれば、私は単なる異端児。排斥されるものでしかなかったのでしょう」

「……かわいそうな子だな」

 志摩の手が、首を掴む紗羅の頬へと伸ばされる。

紗羅が一ひねりするだけで、志摩の命は潰えるだろう。

しかし、怯えることも、臆することすらせず、志摩は手を伸ばしていた。

「親の愛情を知らぬ目をしている」

 紗羅の瞳が、驚愕に歪む。冷たい何かが背筋を這い、心の奥底に氷を放り込まれたように痛かった。

「お前も同じだ。全てを憎まねば生きられぬ者の目……カワイソウな子……」

「うるさい、黙れっ! まだそんな口、叩く気力があるのですか。不快ですね。

 そうだ、いいことを教えてあげましょう。この顔、見覚えありませんか? あるはずですよ。あなたの庇護していた村、あそこに住んでいた村人の一人なんですから」

 伸ばされた志摩の手が、ビクリと硬直した。

 脳裏に、平和だった頃の風景が蘇る。

 彼の住んでいた村はずれの神社、その石段で子供たちが遊んでいたはずだ。

「九歳でしたっけ? 可愛い女の子でしたねえ」

「お前、まさか……!」

「やっとお分かりになった? そうです。あの事件、仕組んだのは私です。馬鹿な工作員に情報流しただけですけれど。後はとんとん拍子。いやあ、人間って無垢が故に愚かで素敵だ!」

 可能性の守護者である伽羅は、自らの姿を他の遺伝子によって組み替える。そして、それには肉体を失った他人の魂が必要だった。

「殺したのか? 唯それだけのために!」

 もがきだした志摩の首に、紗羅が力をこめる。近付いてくる死の足音が、目前で止まっていた。

 死神が笑う。美しい女の姿をしたそれは、まさに死神そのものだ。

「化け物……っ!」

「かもしれませんね。あなた方と同じ血を引いた私でしたら、あなたも同じ化け物、ということになる。さあ、もう終わりにしましょう。私のために死んでください」

 伽羅の冷淡な言葉が尾を引き、眼前が暗くなったかと思うと、ごりっという嫌な音が脳髄に響き渡った。