――三丁目! 東通りの細い路地の二本目を、左に曲がった先――

 上がる息に、喉の奥が焼けるように熱い。

 公彦は、薄暗い路地を只管に駆けていた。女将に教えられた道は酷く曖昧で、入り組んだ帝都の中を探すには情報が少なすぎた。

――こっちで合っているんだろうか……。

 疲れた肉体は、思考を著しく害していく。

 気を抜くと負の方向へと向かう己を律し、公彦は重い足を動かし続けた。

 空がどこか、赤黒い。

 どんよりと圧し掛かってくるように重い空には、妙に血色の悪い満月が浮かんでいた。

――どこだよ! どこにいるんだ。

絶叫に近い祈りは、乾いて粘つく喉に張り付き、声にならなかった。

「だーっ! 志摩の馬鹿野郎ーっ!」

 見つからないのなら始まらない。溜まってしまった不満は、浮かんだ第三者の顔にぶつけられることとなった。

「ちきしょう、目も霞んできやがった……!」

 圧迫感を与える赤黒い空へと目を移し、その一角に知った顔を見つける。

 真っ白な月光に照らし出され、肌を白く染めたその人物は、公彦の姿を見つけると、ふと顔をそらす。

 赤い軍服に、いつもと同じ大きな鞄。

 大きな建物の屋上に悠然と立った紗羅は、すっと街の一角を指差した。

「あそこか!」

 叫ぶ。答えはない。

 しかし、じっと訴えるように見つめてくる真紅の瞳が、その存在を雄弁に伝えていた。

 その一角へと足を向ける。

 重いことには変わりなかったが、足の進みが少し良くなった。

 

寒さの執拗な攻撃に、ひりひりと肌が痛む。

 白く霞む自らの吐息に、気持ちが重苦しさを増し、進むの身に圧し掛かる。

「うー……さむいよーっ。口にしたところで、楽にはならず……早く帰ろ」

 吐き出す息が白い。その奥に薄っすらと燐光を放つ青白い月が、どこか物悲しげに浮かんでいた。

 何処からか、悲しげな犬の鳴き声が聞こえてくる。

 赤黒い空に何故か肌が騒ぎ、気が急いてしまう。

 人通りは無い。

 殺人鬼のおかげですっかり様相を変えてしまった街を歩きながら、進はなにやら得体の知れない不安に襲われていた。

「寒さのせいかな……」

 耳鳴りのするこめかみを押さえ、羽織っていた着物に首をうずめた。

――早く帰ろう。そうだ、それがいい。早く帰って、温かい布団に包まって思いっきり眠ってやる。さすがの母さんも、少し寝坊しても文句は言わないだろう。

 肌が痛い。全ての不安要素と不穏分子を寒さのせいにし、何とか心を落ち着けようと試みる。しかし。

――見つけた……――

 総毛立つような腹に響く重低音。

 さらに同時、エコーがかかるように重なった高い音が、一気に辺りの空気を凍りつかせた。

「え……?」

 一瞬、ちらと黒い影が映りこみ、その口元が笑みを浮かべた。

「お行きなさい……今度はちゃんと仕留めるのよ」

高いレンガ製の建物から、一つの巨大な影が月光の下に躍り出、姿を現す。

獣のようであって、動物より禍々しい姿をしたそれは、まるで空を翔るように落下してきた。

得体の知れない恐怖が背筋を走る。

その異形を目に映し、進は思わず足がすくむのを自覚した。

停止していた脳が、そのしなやかな肢体の延長線に、自らの体を認めたとき、その身に計り知れないほどの衝撃と激痛が走った。

「いっ……!」

 声にならない声が進の口から漏れる。しかしその声も、強大な力が地面を抉る音が掻き消した。

理解が追いつかず、思考が完全に停止する。

 その直後、再び響いた破壊音が、からっぽになった進の脳を、いやがおうにも叩き起こした。

 したたかに打ち付けた腰から、痛みとほんのりとした体温が伝わってくる。

 無理やり上体を上げると、腹に巻きついた何者かの腕が目に映る。

――助かった……?

 走ってきたのか、噎せ返るその人物を視界に入れたとき、背後で巨大な影がむくりと起き上がった。

 進が立っていた地面は粉々に砕け、ここで初めて目の前に迫っていた死に、血の気が引く。

 身を立て直した獣が、唸るように喉を鳴らし、虚ろな目をこちらに向ける。太く長い尾を砕けた地面に叩きつけ、盛大に打ち鳴らすと、咆哮を上げた。

「小夜子!」

 再び体勢を立て直した獣に、進を庇うように倒れこんでいた公彦が叫んだ。

 直後、首をめぐらせた獣の岩のような肉体が、何かに弾かれ地面に叩きつけられた。敷かれたレンガが砕け、盛大な音と共に弾け飛ぶ。

 もうもうと上がる土煙の向こうで、小さな人影が青白く浮かび上がる。

装着していた飛行用のゴーグルを上げ、公彦と同じ金の瞳を窺わせる。猫のように縦に裂けた瞳孔が、彼女の存在の異質さを表していた。

その青白い肌が月光の元に晒された時、得体の知れない恐怖が、進の背を這った。

――小夜子……。

 公彦が叫んだ言葉が、頭の中で木霊する。

――まさか……。

小夜子が身に着けていた金属の装飾品が、音を立て鳴る。

光沢のある、体にフィットした衣服は、普段の和装からは想像できない、彼女のスタイルの良さを際立たせていた。

「ふははははっ、小夜ちゃん、ふっかーあつ! おいこら、そこの……何かよく分からないけど、大きな猫と変な臭いのする+α一匹! いろいろと手間取らせてくれたお礼は、きっちりきっかり、利子つきで返してやるからね!」

 手にした長い棒を獣に向け、憮然と笑い声を上げる。

 進はその武器に見覚えがあった。

 たしか、中国文化の講座で見た、棍とかいう打撃武器――。

「遅いぞ小夜子! 一足遅かったら、俺たちはあっちの住人だ!」

「うるっさいわねー。仕方ないでしょ、あんにゃろー、街のいろんな場所にトラップ仕掛けてやがったんだから。おかげで何度無駄足食わされたか。私だって、一介の妖魔なんだから、そんな何でも万能になんて行かないわよ」

 低い唸り声を上げ、獣が起き上がる。どうやら、完全に怒りを買ったらしい。

小夜子の顔に、喜色が浮かぶ。

「大丈夫そうか?」

 不安げな公彦の声が、そちらへと目を移した小夜子にかかる。

「大丈夫。いくら人殺して大きな力手に入れたからって、たかだか一年程度生きただけの子猫ちゃんに、この小夜子様が負けるわけが無いもの。私がきっちり『遊んで』あげる。久しぶりに腕振るうからね……手加減は出来ないかもよ!」

 朧にうつろう獣の瞳が、一瞬にして意思を持ち、繰り出された棍の先を、今までとは比べ物にならない速さでかわす。突如として幕を切られた人外の者たちの闘争に、ただ目を丸くする進の隣で、身を立て直した公彦が、焦ったように身を乗り出した。

「小夜子! 有限だから。俺の力、有限だからね! 夜にお前が、具現化してるだけで結構な負担だってのに、こっちで使いすぎてどうする。あっちの世界につなげる力もなくなってみろ。完全に意味無しだぞ!」

「やだなあもう、分かってるってぇ! 公彦がぶっ倒れない程度に、程よく子猫ちゃんを遊んでやってろってことでしょ? だいじょーぶ。私に任せなさい」

 喜々とした笑みを浮かべ、振り下ろされた爪を受け流した小夜子が返す。

「本当に分かったのかなあ……」と不安げに呟きつつ、総相違決着をつけるため、懐から何十もの札を取り出した。

「大丈夫なのか……?」

「ああ。小夜子に任せておけば、少なくとも暫くは安心していい。あいつも俺たちに手を出す余裕は与えられないはずだ。それよりも今俺に出来ることは、一刻でも早くあいつが本気で戦えるようにしてやることだ。あいつの力は、主(マスター)である俺の力が影響する。早くしてやんねーと、俺の力が尽きちまう。俺どころか、あの小夜子までぶっ倒れちまうぞ!」

 公彦の腕に、幾つもの文字の羅列が、おどろおどろしく浮かび上がった。その一つが、肉体という呪縛を捨て、血生臭さの混ざる冷気へと舞い上がる。

手にした札が、呼応するように輝き、四散する。青白い炎を上げ、幻想的に見えた。

「公彦、危ないっ!」

 小夜子が吼える。

 思わず飛びのいた公彦の足元に、巨大な亀裂が走る。振り下ろされた獣の爪を寸でのところで押さえ込んだ小夜子の頬を、小さな傷が走った。

「あんたの相手は、この私! 大して役にも立たない大馬鹿非戦闘員なんぞに、目を向ける余裕、無いのよっ!」

 引きつった笑みが消え、繰り出した棍が獣の腹部を打ち据えると、息を詰める耳障りな音が聞こえてくる。

 袖口から一本のチョークを取り出した公彦が、「馬鹿って、おまえなあ……」と口もとを引きつらせ、しゃがみ込んだ。地面につけられ、引かれた線に迷いは無い。見る見るうちに描かれる軌跡は美しい六角形を描き、何処からか取り出されたナイフが手にあてると規則的に鮮血が滴っていった。

 血まみれのナイフが中央に突き立てられ、息を吐いた公彦が、遠く轟く喧騒に叫んだ。

「小夜子!」

「はいはいっとぉ!」

 棍を握り締めた細腕が、音を立て軋む。下から掬い上げるように獣をたたき上げると、あの獣の巨体が、いとも簡単に投げ飛ばされた。

 轟音と共にその身が落下したのは、ほんのりと赤く染まる陣の中。

 公彦の金の瞳が輝きを増し、それに呼応するように描かれた陣が仄暗い地面を照らし出す。

地鳴りのような震動が腹の底に響き渡った直後、何も無かった地面から何本もの鎖が出現した。唸る獣の四肢に巻きつき、完全に自由を奪う。

同時に、遠巻き眺めていた志津恵の身にも、地面から這い出てきた鎖が絡みついた。底知れない強い力で、揺らぐ闇のそこへと引き込まれそうになる。

「お前、何を!」

 驚愕に歪む瞳に、公彦の会心の笑みが映りこむ。

「隊を弱体化させたければ、頭を仕留める。基本中の基本だろ。それにお前も曲りなりにもこいつのマスターだったら、見物ばっかしてないで、少しはその苦しみを一緒に味わってみねえとな」

 網膜が痛むほどの光。

 足元から発した眩いばかりの潜航が、巨大な月の光さえ飲み込み、無理やり同化させてしまう。

 あまりの眩しさに進が目を庇った一瞬、背を押す衝撃が、脊髄を駆け上った。

 進の体を、突然の浮遊感が襲う。

 反射的に受身を取ると半減された痛みが、土ぼこりと共に進の身を打ち叩く。

「公彦っ?」

 勢いよく輝きの外に弾き出された進が、その力の主に向かって叫んだ。青白く照らし出された公彦が、ふっと微笑む。

「これ以上こちら側に深入りしてはいけない。あやかしや鬼、物の怪の類と、神や悪魔は紙一重なんだ。これから日本は、排他的な現実主義社会になっていくだろう。こいつらと関わっても、いいことなんかなくなる。神すらも淘汰する社会では、現実を生きる人間と、魔が国は不可侵が一番いいんだ」

 忘れろ、と諭すような口調に、光が強さを増す。

一時たりとて来るべき時間を過ごした事のある公彦の心からの言葉だった。

 進が再びその口を開こうとした時、大きな奔流となった光の波が、突如として渦を巻き、次の瞬間、弾け飛んだ。

 じりじりと網膜に焼き付けられた閃光が、視覚の邪魔をする。パチッと力の残りが小さく弾け、肌が痛い。

 ようやっと戻ってきた正常な闇の中、夜光虫のように弱弱しく漂う残光が、まるで全て夢だったかのようにその場を照らしていた。