骨がよじれ、砕ける音。肉が引き裂け、無理に絡む音。

 音という感覚を遥かに超えた、腹の奥底に響く不快な感覚にも、彼女は眉一つ動かさなかった。

 遥か上方に設えた光取り用の窓からは、光の帯が、揺らめきながら棚引いている。

 このために、東京湾へと大量の有機物を流したのだ。一時的な赤潮状態を作り出し、あの子の身体に見合った量の魚を意図的に殺す。

 以前ほど簡単に、死体が手に入らない以上、これが最も簡単で怪しまれない方法であった。

――昔なら、こんな苦労などなかったものを……。

 志津恵がため息を吐く。すっかり法が整備されてしまった世など、生き難いことこの上ない。

 おそらくこれは、闇に暮す者たち全てにとっての悩みだろう。

ひがな一日街灯に照らされたこの街も、すっかり妖怪と呼ばれる類のものが減ってしまった。

――だからこそ、霊魂である私が自由に行動できるのだけれど。

 神や鬼、物の怪といった非現実的なものを排斥する化学の作り出した社会は、生き辛くはあれど、上手く利用すれば体のいい隠れ蓑と化す。

 存在しないはずの鼓膜を打ち叩く、不協和音が、今となっては心地よい。

 これが唯一、愛する正行が存在する方法なのだから。

 耳を劈いていた音も次第に止み、ずるりと身を引きずる気配が肌に届く。

 不意に、今まで暗然としていた一角が、薄い明かりを灯す。奇妙な角度で現れたそれは、紛うことなき、正行の瞳だった。

 間接を鳴らしつつ元の位置に戻ると、以前と同じ、生臭いため息が吐き出される。

 突如として現れた狂気を、全身で感じながら、志津恵は笑っていた。

「正行、行こうか。あの子、殺さないとね……」

 獣が答えるようにため息を零す。

「赤いほうは後にしましょう。もう少し、正行が大人になってから、存分に食べられるわ。それよりも、もう一人逃げた子いたでしょう? あの子を追うの。あの子には血がついているはずよ。……分かるわね」

 吐き出される息。

 その姿に、満足げに目を細めた志津恵の身が、緩やかに闇夜に溶け始めた。

 正行は一瞬だけ、ほのかに青白い光を放つ月を見上げ、悲しげに目を曇らせた。

――ごめん……僕では、やはりもう――

 懺悔に近い痛切な思いが、人であるちっぽけな正行の心に、木霊する。

 公彦の返事はない。自分でありながら、意に反して動く獣。その肉体が新たに作り変えられたことで、化け物としての力が増したのだ。

――もう僕には、呼びかける力すら残されていない。

 さらに狭められた己の殻の中、正行に出来ることはもうすでに残されていない。じわじわと追い立てられ、消えていく感情を見つめ、恐れ戦くだけだ。

 正行の虚ろな瞳から、一滴の液体が零れ落ち、鱗の張り巡らされた頬を濡らしていく。

 肉体を生成する為に出た、不要な魚の血液が零れ落ちたものだったが、その輝きはあまりにも儚く、かつて人であった正行の流した涙のようだった。

 

「進ーっ! 悪いんだけど、配達行ってきてくれない? 三丁目の神野さん。突然のご不幸らしいのよ」

「えー? やだよ。外寒いし、まだ殺人鬼も捕まってないし。夜道は危ないから歩くなって、このまえ守衛さんが言って……」

「いいから、行ってきて。誰もあんたみたいなすっとこどっこい、襲いやしないって! 寒さくらい、若いんだから何とかする!」

 飛んできた平手をすんでのところでかわし、不満を隠す気もなく口を尖らせた。途端に、ヒヤリと冷気が肌を刺す。

「嫌なのかい?」

 お前は、そんなご身分だったんだ。へー、知らなかった。それとも、親の金で学校行かせてもらっているのに、やらないと。この程度の手伝い、小さな子供でも喜んでやるわね。それが二十にもなって、やりたくないなんて。横柄もいいところじゃない? 育て方間違ったかしらねえー。

 無言の追求。

 母の表情は、確かににこやかだ。しかし、それ以上の威圧感と、体験したことがないほどの冷気が進の背後から漂ってきた。

「……お姉さん、口元引きつってますよ……?」

「行くのか、行かないのか。私が聞きたいのはそれだけよお? 進お坊ちゃま」

 目……目が笑っていない……。

 こうなると、人生という縮図が二まわりも違う進には、なす術などないに等しかった。

「行かせて頂きます……」

 こめかみに浮かんだ青筋を目に映し、冷や汗を滲ませた進はそう言うしかなかった。

「じゃ、さっさと行っておいで! 明日も店出るんだからね」

「えー? 帳消しじゃないのかよ。母さんの方が横柄だってェ……」

「何か言ったかい?」と怒鳴る母の声を背に、自前のコートを取ろうと店の奥を覗く。

「あ……」

 しかし、目に入ったのは、昨日突然の夕立に降られたばかりの水も滴るカラスの濡れ羽色。

「あんたが乾かしておかなかったからでしょー。自業自得さね」

 顔も見せず、背後から追いかけてくる言葉。知っているなら、やってくれりゃよかったのに。

「もー、うるさいなあ……」と呟く声も、どこか覇気がない。

一瞬にしてやる気が失せた。しかし、やらないわけにはいかないし……。

 思わず思案するようにめぐらせた進の視界の端、冷え切った廊下の先の一室から、無雑作に脱ぎ捨てられた服の袖が覗く。

――あいつ(公彦)の物だったか……?

 手にしたものは、彼らしい和服。

 何で出来ているのだろう、手にした途端、今まで手にしたことがない程の柔らさが伝わってきた。

「ま、いいか」

 そう言うと、おもむろに着込む。思いのほか、温かい。

 内心、断らず借り受けることに、少しばかり罪悪感を抱きはしたが、背に腹は変えられない。何より、この温かさはありがたかった。

――今は、あいつも出かけてるし。

「母さーん。公彦帰ってきたら、上着借りてくって伝えてくれるか?」

 客席の一角に置かれた重箱の取っ手を引っ掴み、頑丈に鍵のかけられた引き戸を引く。

 ぞくりと背筋が凍るような、違和感。

 本当なら行くことすらやめてしまいたい己を叱咤し、ぐっと背をそらした。

「よしっ! 元気!」

意を決したようにそう呟くと、肌をひりつかせる冷気の中へと、足を踏み入れていった。

 

「え……っ?」

 引きつった息遣い。

 水音に混ざって聞こえてきたその吐息に、女将は不思議そうに、再びその言葉を口にした。

「だから、あの進の馬鹿が自分のコート乾かし忘れてて、公彦君の上着借りて行くって。大丈夫よお、そんなに遠くまで行くわけじゃないから」

後片付けの合間に聞こえてくる声は落ち着き払っていたが、それを聞く公彦は、まるで信じられないとばかりに目を瞠る。

不思議に思った女将が、暖簾に手をかけ、顔を覗かせる。

「そんなに大事なものだったのかい。そりゃあ、悪いことしたねえ」

 公彦の傍らに立ち、「どういうこと?」と声をかけた小夜子に、公彦は青ざめた顔を上げる事無く呟く。

「ああいう霊体は、逃がした獲物は追ってでも仕留めるんだ。あの服には、殺された人間の血がついていた。たぶん、それを追ってくる……!」

「でもちゃんと、洗っていたじゃない。それでもだめなの?」

「お前は知らないんだ。血には、目に見える物以外にも多くのものが含まれている。そのいくつかは、目に見えるものを落としたところで取れはしないんだ」

「あー……とりあえず、大変な自体が起こったのは分かった。じゃあ、何で処分しなかったの。余計事態がこんがらがったじゃないの」

「今夜、白蓮の馬鹿に取りに来てもらう約束だったんだあ!」

 思わず声を荒げた公彦の後頭部を、鈍い痛みと重みが打ち叩く。

「誰が馬鹿か、おんどりゃー。天下の白院帝志摩様が、可愛くて可愛くて反吐が出そうなクソガキどもの手に余るブツを片つけちゃろうと出向いてみりゃ……」

 重厚な靴底が、盛大に倒れた公彦の頭をなじる。

公彦が憎憎しく引きつった笑みを浮かべるその顔を仰ぐのが早かったのだろうか、小夜子が「師匠!」と叫ぶのが早かったのだろうか。

 その男――彼らの師である志摩は、漆黒の瞳を訝しげに細め、表情を引き締める。

「しかしまあ、よくもここまで面倒な自体を引き起こしてくれたな。お前の貪欲な才能のおかげか」

 皮肉を込めてそう言った志摩の下から、這うように公彦が逃れる。見計らったようにため息を吐いた志摩は、気を取り直したのか神妙に顔を伏せる。

「人の霊魂から作られた、殺人兵器か……。面倒だな。

文明開化の影響で、都市部の信仰は途絶えたといっていい。信仰がなくなった以上、この地を守護していた神も居なくなって久しい。統治する者の無い地に、予期できる事態だったとはいえ、ここまで大事になるとはな……」

「何とかならないんですか? 志摩様のお力で」

「無理だな。我々は、己の領地に縛られる。それになにより、八百万の神というのは、自然界全てに信仰を持つ日本人特有の、いわば結界のようなものだ。それが消えてしまった以上、私もこの地では上手く動けん。それに……私自身、力が以前よりは衰えているからな」

 公彦たちが集落を追われた日、暮らしていた村人は全て殺され、焼かれてしまった。それを食い止めるためとはいえ、一時的に身を犠牲にし、離れられない自分の代わりにと、使い魔であった小夜子を公彦に同行させたのが彼だ。

 土地に憑く彼にとっても、己のよりどころをなくしたのは大きかったのだろう。

 それに対し、気兼ねする事無く「えー? 手伝ってくんねえのかよーっ!」と叫んだ公彦が、身を乗り出す。

「命の恩人にそんなことを言うか、おぬしは……! まあいい。今回のことは、仕方ないからお前らだけで片付けろ。私は……別の仕事が出来た」

 引きつる志摩の笑み。

 さすがにこれ以上神経を逆なでするのは洒落にならない、と感じ取ったらしい公彦が、「……わかりました」と不満を隠す事無く二の句を継いだ。

「まあどちらにしろ、上手くこちらの空間に引っ張ってくれば、何とか五部に持ち込める。決して勝てない相手ではない」

「でも俺たち、あいつを見つけ出す力までは持っていないぞ。どうやって探し出せって……」

 呆れたようにため息を吐いた志摩が、片手を宙に挙げ、指を打ち鳴らした。と同時、あたりに花火のような軽い爆発音が響き渡り、二匹の掌大の毛玉が出現した。

「ネズミ?」

『きゃー! 見つかった、見つかった。俺たち、ネココ様に食われてしまうんじゃろうか』

『いや、もしかすると、こっちの大蛇に食われることもある。どちらにしろ、嫌じゃ。ワシら、ちょーっと人間様の家に忍び込んで、米齧っていただけじゃ。お目こぼしをお……』

「さっき、見つけて捉えておった。妖魔としては下級だが、使えないこともないであろう。この溝鼠、私が近付いても気づかず米を齧っておったわ」

 高らかに笑う志摩の手から、縄に縛られた二匹のネズミの妖魔が、小夜子の手にわたる。

 その姿を訝しげに眺めた小夜子が、搾り出すように低い唸り声を上げた。

「あんたたち、本当に私たちの役に立つ?」

『立つ! 立ちますから、命だけは……!』

 小夜子の口元が笑みの形に歪む。

「じゃあ、よろしく。逃げたら……容赦しないから」

 くりっと丸い瞳が一瞬にして窄まり、威嚇の色を浮かべた。手に乗せられた毛玉が、一瞬にして縮み上がる。

『は……っ、はい! 承知しましたネココ様!』

「猫……っ、私は、狐だっての……!」

 少々癪に障ったが、この毛玉にしてみれば、狐も猫も、己の命を狙う化け物には違いない。

「では、そっちは頼んだ。私はこれでな」

 志摩の身が、一瞬にして風となり、消える。立っていた場所に、美しい純白の鱗が落ちていた。

 しんと訪れた沈黙の中、小夜子、と今にも消え入りそうな公彦の声が届く。

「やるしかないみたいだ。俺は、もうだれも死んで欲しくない」

 追ってくれるか? と続いた言葉に、一度目を閉じる。その響きは問いかけというよりはむしろ、懇願に近かった。

苦笑いを浮かべ応じた小夜子が、公彦の顔を上げさせると、その額に己の額をつける。

「私はその霊のことは覚えていない。だから、公彦の記憶を頂戴。そうしたら、追える」

 公彦の視線が上げられ、再び伏せられる。

 それを合図に、小夜子は封じていた力を呼び覚まし、久方ぶりの細胞が沸き立つ感覚に身をゆだねた。

 風が微かに渦を巻いてのたうち、ぞわぞわと悪寒が肌を舐める。完全に肉体から剥離した意識の中、小夜子は可能な限り手を伸ばし、違った目線、公彦という別の人物から見た世界の一端、膨大な記憶の山を弄った。

 美しい口元が歪む。

「思い出した」

 猟奇的にすら見えるその笑みは、気配として公彦へと届く。開かれた小夜子の瞳が窄まり、細められた。

 脳内に叩き込まれた音、色、臭い……。五感全てに覚えこんだ景色と死の臭いが、知らず小夜子の口元を緩めさせた。

「ほら、お前たちの出番だ。行け」

 手にした毛玉の紐を解き、宙へと放り投げる。力を取り戻した毛玉が、小さな風と化し、色を持って室内を駆け巡る。まるで、出口を失った子供のようだ。

「あんたたち、いったい……」

 驚愕のあまり目を瞠った女将の前で、小夜子の周りに二匹の妖魔が纏わりつく。重なり合い強い風となったその中心で、小夜子は一匹の妖狐に姿を変えた。

 頑丈に閉じられていた店の扉が、突如として開く。

 一度公彦の姿を仰いだ小夜子が、安全とした闇の中へと飛び出していった。

「何が……」

 女将の震える口から、恐怖のこめられた言葉が吐き出される。

 見慣れた恐怖の浮かぶ瞳をしかと見返し、力なく垂らした手を握り締めていた。

――期待などしていなかったはずだ。自分は、初めから恐れられる人間だったのだから。

 不幸は、次第に慣れていくものである。長いこと窮地に無理やり押し込められると、人は負の感情すら捨て、完全な木偶人形になるのだ。

 しかし、何だろう。この心の中の違和感は。

 拒絶されることなど慣れているはずである。それなのに、何故……。

――わずかばかりの平穏と幸せに、甘んじてしまったのか。

 そう思い当たり、思わず笑ってしまった。

「言ったでしょう……僕たちは、化け物なんですよ……」