川のせせらぎが、遠くで木霊している。
目の前に広げられた画板と、まっさらな神に一心不乱に向かい、公彦はペンを走らせていた。
早く己の波長を取り戻さねば、残留思念すらさがせやしない。
久しぶりに感じた、自らの意思でペンを滑らす感覚に、体から徐々に恐怖が引いていくのを感じる。
――そうだ。早く抜けろ。
恐怖と言うのは、横臥しようとしても、そうかんたんに出来るものではない。むしろ、時間が解決するのを只管に待っていたほうが、早いこともあるのだ。
ふうとため息一つ、きらきらと輝く水面へと視線を移す。他愛ない喧騒が、温かい時間と共に流れていた。
「お前、ヘッタクソだなーっ!」
その時だ。背後から、明るい声がかかる。
思わず振り返った目に、右肩から覗き込んでくる進の姿が映った。
「画材持ってるから、もっと上手いのかと思った。こりゃ、ガキの頃壁に描いておふくろにこっ酷く叱られた、俺の落書きの方が上手いんじゃないか?」
指刺した先には、公彦の描いた風景画が。
咄嗟にその絵を画板から引きちぎり、「わ……悪かったな」と応じた公彦が、恥ずかしさに目を泳がせた。
公彦自身は、決して絵は上手くない。
むしろ、超がつくほど下手なのだ。まっすぐ線を引けば見事な曲線を描いているし、何より、物の大小を考えて描くことが出来ないのだ。
平成で幼稚園とやらに通っていた時は、むしろ進んで最下位争いを繰り広げてみたりもした。
「そ……っ、それより何なんだよ。こんなとこで。お前、大学生だろ」
話題を変えるため、半ばにらみつけながら口を開く。
「ああ、次の講座自習なんだよ。岸辺教授が体調不良で休みってさ。もう、やんなっちゃうよなー。折角、面倒くさい証明やり遂げたのになあー」
飄々と言ってのけた進は、それを利用して散歩にでも出てきたのだろう。立ち尽くす公彦に背を向け、鼻歌交じりに歩き出す。
その背を見つめながら、公彦は意図せず口が動くのを自覚した。
「お前……俺が怖くないのか?」
「は? 何で?」
振り返った進の背後で、子供たちが楽しげに駆けていく。しかしその光景も、どこか他人事のようだ。
「俺が……こんな目をしているから」
汚れていると言われ続けた身は、もうすでに傷つけられることに鈍感になってしまった。いや……むしろ、傷つくことから逃げているのか。
どうにも出来ないことを責められ、畏怖され、邪険にされる。もう慣れたことだ。
包帯で意図的に隠した目を押さえ、そう口にした公彦に、進のまっすぐな瞳が向けられる。
「お前、バッカじゃねえの。そんなん、関係ないだろ。お前はお前で、俺は俺だ。それ以上でも、それ以下でもないのに、そんなくだらないことで、人の価値、変わらねえだろ」
――ねえ公彦、とっても素敵ね。金色って、太陽の色なんだよ? なんで皆、汚いって言うんだろうね。こんなに、きれいな色なのに……――
小夜子が笑う。そうだ、こいつ、小夜子に似ているんだ。あまりにもまっすぐで、他人の目に左右されない。
長年苦しめられてきたしがらみを、『くだらないこと』と一言で片付けてしまう彼の笑みを見つめ、ここまで悩んできて悔しい反面、泣いてしまいそうな程に嬉しかった。
彼に、力のことも教えてしまおうか。さすがに、蔑視されるのだろうか……。
「おーい、こっちにでっけえ鯉がいるぞ! ちょっと来てみろよ!」
屈託の無い笑みを浮かべ、進が叫んだ。その直後、覗き込んでいた水面で、何かが跳ね、水滴が飛び散る。
頭から水を被った進むが、「ちべてーっ!」と声を上げるのと同時、公彦は笑い声を上げていた。
『なんだろうね、血の臭いがするよ』
何者かが草の陰から、覗いている。
『嫌だねえ、関係ないことだけれど』
それに答える声も、くすくすと笑っていた。
手にしたペンを、真っ白な紙の上で走らせる。
どこかに隠れていた霊の一つが、公彦の右腕を乗っ取ったのだ。写真のように鮮明に書き込まれていくのは、生々しい死の現場。
その軌跡から目を背け、公彦は僅かに顔を歪めた。
画板に貼り付けた白い紙を、勢いよくぐしゃりと引きちぎると、自由の利かない腕から取り落とした。
『何だろうね、なんだか変な匂いだ』
『ニンゲンの魂なんだろう。人間には怨みや憎しみというやつがあるのだと、長老様が言っておった。まあ、どちらにしろ家守りのワシらには関係ないことじゃ』
丸く黒い影が二つ、その紙くずの周りを歩き回り、公彦を仰ぎ見た。
夜。
ひやりとした空気が、未だ店先に立つ進たちの身に纏わりついた。いつもと同じ、閉店後の片付け風景。
しかしその光景とは裏腹に、進の奥底では、理由のない不安が燻っていた。
何かが、起きる気がする。それも、何か悪い事が。
その時、頑丈に閉じられた扉を乱暴に叩く音が、滞留する夜気を突き破って響き始めた。
「陸軍省だ! 扉を開ければよし、開けなければ……!」
怒鳴り声に混ざって、小さな金属音が耳に届く。銃器の類だろう。
咄嗟に背後に立つ母を振り返ると、彼女は大丈夫とばかりに笑って見せた。
「早く開けんか!」
痺れを切らしたのか、再び怒鳴った男に、表情を引き締めた女主人が気丈に応じる。
「何事ですか、こんな時間に。迷惑もいいところですよ」
かけられた鍵に手をかけると、頑丈な扉は向こう側から乱暴に開け放たれ、軍服を纏った男がなだれ込んできた。
その中心をゆうゆうと歩んできた男は、回りの者たちとは違い、真っ白な軍服に大量の勲章をつけ、一目見ただけで身分の高さがうかがい知れた。
「陸軍省、第五課第七分隊所属、海原哲中尉です。貴宅にて保護されている人物の、身柄を引き受けにあがりました」
影を落とす軍帽の下から、何人をも受け入れぬ強い意志を込めた瞳が覗く。
――身柄引き受けって、もしかして……!
「そのような人間は、我々の店にはおりません。どうぞ、お引取りくださいな。ご足労ですが、明日のしたくもございますので、我々も暇とは言いがたい」
進と同じ結論に至ったらしい女将が、臆する事無く告げる。取り囲んだ男達の銃口が一瞬上がりかけたが、口元を歪めた海原が制したことで、大事には至らない。
目の前の海原が、予想外に表情を和らげた。
「そんなに警戒なさることはありません。我ら軍部の上の人間が、少々興味を持たれましてね。話を聞いてみたいと申しているだけでして」
「どうかしらねえ。あんたたち軍人が考えることは、よく分からないから」
海原の背後に控えていた男が、「何だと?」と声を荒げる。
しかしそれに反し、当の海原は表情を緩め、声を上げ、笑い始めた。
「我々は、自らの利となる約束はお守りします故、ご安心ください。我々も、長く帝都に店を構える貴殿を敵には回したくありません。帝都の民全てを敵に回すに等しいですからね。貴殿を敵に回したくない我々が、身柄を保護する、と約束を取り付けるのです。決して悪い話ではないはずですよ」
「お引き取りください。私たちは軍には中立の立場を取ります。敵対もしませんが、協力も無いと思ってもらっていい」
女将が、頭一つ分高い海原の目をにらみ返した時、突如として背後の軍人たちがどよめきが上がり、澄んだもの静かな声が響き渡った。
「いいですよ。俺たちのことなら」
厨房と店頭の境に、その姿があった。
しかし、輝くばかりの金の瞳には、包帯が巻かれていない。
ざわめきの正体はこのあまりに鮮やかな色だろう。僅か不快そうに顔を顰めた公彦が、足元に転がり出てきた子犬へと視線を泳がせた。
「しかし、お前。この人たちは……」
お前を追っていた人物ではないのか? 視線が問う。
「数日前、ある外国人が何者かに殺害されました。彼は、祖国から、辺境のニッポンという国に存在する、兵器として転用可能な『何か』を手に入れに来ていたんです。その過程で、不思議な力を持つ迫害種を見つけてしまった。
俺を追っていたのは、ある国です。あの日殺されたのは、俺たちを追っていた某国のスパイでした。表向きは文化交流に派遣された、外交官のようなものでしたが……」
そして、彼らはハイエナのように貪欲に、狙った獲物はどんな手を使っても手に入れようとするのだ。駒である一工作兵の死など、一時の気休めでしかないのだろう。
次のハンターがあてがわれるのは、時間の問題だった。
「まあ、あいつらは、もし俺が使えなかったら人体実験の被験者にでもするつもりなんでしょう。己が迫害する者に対して、人間は驚くほど残酷ですから」
公彦という幼い子供に対する村の人間も、単なるサンプル欲しさに、村全体を焼き殺した追っ手の男達も。
澱んだ脳内から異物を吐き出すように、思い切り伸びをすると、暫くぶりに動かされた関節が悲鳴を上げる。緩みきっていた筋肉が、軽く引っ張られ心地よい。
「でも、良かった。どっちにしろ、帝国のお偉いさんとは、何とかして接触を持たなきゃと思っていたんだ。国に対抗できるのは国しかいない。何とかして保護してもらわなければ、俺の命はありませんから。むしろ、ツテを作る手間が省けてよかった。そのために都会に出てきたんだからね」
傍らに置いた鞄を肩に掛けなおし、軍人の並ぶ扉へと歩く。歩みに迷いなどなかった。
思わず手を伸ばした進の足元を、小柄な子犬が駆け抜けていく。公彦の足元へと擦り寄ったその子犬は、進の方を一瞥すると、僅かに口角を上げ、小さく鳴いた。
それが何故か、大丈夫だ、と言っているようで、遠ざかっていく明かりを、ただ呆然と見つめることしか出来なかった。
陸軍省・本部。
西洋風の外観に等しく、建物内部は煌びやかでいて、どこか落ち着いた独特の雰囲気を漂わせている。装飾の施された電飾には煌々と明かりが灯り、煌々と足元を照らしている。
大きな背を追う公彦は、反響して聞こえてくる足音に遅れを取らぬよう、傍らの子犬を抱き上げてやった。
「ここだ」
振り向いた海原が、一つの扉を示した。
ノックを二つ。
「相良少将。海原少尉、ただ今帰還しました」
「入れ」と、中から届いた声に、海原が扉を開け、戸惑う公彦へと相槌を打った。
どうやら、続けということらしい。
中はやけに広かった。そして、何より暗い。
差し込む月光が帯びのように伸び、繊細にくみ上げられたパズルのような室内を薄っすらと照らし出していた。
白と黒の市松模様で彩色された床に、いくつもの大きな装飾品が並ぶ以外は、殆ど何もないといっていい。窓辺に追いやられてしまった一対の高価そうなデスクが、目に付くだけだ。
装飾品に目を走らせると、細かい装飾の施された一つ一つが、まるでコマのように、ある一定の法則に沿って並べられていることに気がついた。
――もしかして、西洋の巨大なチェス板か……?
「海原ァ。ついにクソダヌキどもが、音を上げたぞ。やっとだ、やっと。まさかここまで時間がかかるとは思わなかった。元々頭の創りが違うのだ。馬鹿どもめ、そうとう渋っていたよ。これで完全に、陸軍省は我が手中に収まった。いやー、ぜひ見せてやりたかったなあ。愚鈍で愚かな者共を圧倒的な実力差でねじ伏せるのは、直接剣を握り首を取るより面白い」
クツクツと奇妙な笑い声が、背を向けた椅子の奥から響いてくる。
こんな暗い部屋に人がいること自体、公彦は違和感を感じたが、それ以上に得体の知れない恐怖から鳥肌が立つ。
その声に「そうですか」と応じた海原が、壁へと手を這わせ、電灯のスイッチを入れた。一瞬にして闇が消え、辺りが眩いほどに照らされる。
椅子に腰を下ろす人物が、その光の下、ゆっくりと振り返った。
「相良零だ。陸軍省第五課長で、少将。主として、そいつが所属する第七特別分隊を指揮している」
その姿があらわになると同時に、立ち尽くす公彦の目が驚愕を浮かべ、見開かれた。
目の前にあったのは、雪のように青白く、透き通る肌。光沢のある髪はさらりと長く、切れ長の目には涼やかでありながら、底知れぬ強い光が灯っている。閉じられた唇は、ほんのりと紅をぬったように柔らかで、厚みがあった。
「女……っ!」
呻きに似た呟きに、目の前の相良は満足そうに目を細めた。
「驚いたか。そりゃあそうだろう。まさか、女性進出の未発達なこの時代に、私のような者がいることなど、歴史と言うものを知る平成生まれのお前には信じがたいか」
「何故それを!」
相良は、赤い唇を楽しそうに歪め、微笑んでみせる。
「ついでに言うと、頭の固い職業軍人なんかに、どうやって自分の力と身の危険を理解させ、保護させようか思案している。ちがうか?」
全てを見透かされているような違和感が、公彦の不安を助長する。じりじりと身を焦がす焦りから、意味もなく目の前に鎮座する相良を睨み付ける。
その反応に満足したのか、それとも耐え切れなくなったのか、当の相良はくっと息をつめると、美しい顔を惜しみなく破顔させ、狂ったように笑い出した。
「いやー、悪い悪い。少しおふざけが過ぎたようだ。私の本当の名は伽羅。君が我が領域に足を踏み入れた時点で、生い立ちまで全て見せてもらった。なにせ私も、君と同じく、純血ではなくとも人ではない。もっと別の何かなのだ」
公彦の目が、驚いたように見開かれる。
「まさか、そんな……」
「お前のDNAを調べさせてもらった。随分薄いようだが、人外の血が混ざっている。それも、今ではなく過去だ。器でも変わったのか? まあいい。久方ぶりに同類に会ったのだ。むしろ喜ばしいことと言ってもいいな」
「同類……?」
怪訝そうに顔を歪めた公彦が呟く。
「はは、案ずるな私も同じだ。私の場合は直系で、血も濃かったゆえ、こうして何百年と無様に生きながらえているのだがね」
笑みを含んだ目が、公彦の手の内、顔を覗かせる子犬へと移された。
「お前のこともすでに分かっている。それでも今更、姿を変え続けるのか? 珍しいヤツだな」
ムッと顔を顰めた子犬が、するりと腕から逃れると、一瞬にして人間の姿を取り戻す。伽羅の領域内であるこの場では、夜間の負荷も半減されるのか、案外やすやすと人化することが出来た。
「それにしてもお前、よく見れば妖狐の類だろう。何故犬の姿に化ける」
「あのね、森もない都心を、何処から来たのか狐が歩いていたら怪しいことこの上ないの。それに対して犬なら、飼い主さえいれば大抵嫌な顔もされないし、何より自然に街に溶け込めるもの。同じイヌ科だから変化しやすいしね」
突き放すように小夜子が言う。再び口を開いた小夜この目には、侮蔑のような色が滲んでいる。
受け止める伽羅の笑みに目を移し、ぞくりと悪寒が走る。女って、互いに容赦なくて怖い。
「それより、何よ。いちいち、私たちをここまで呼んだ理由は」
不機嫌を隠すこともなく、小夜子の黒い瞳が伽羅を映していた。
「連続殺人鬼を知っているか」
どちらのことだろう、と思案をめぐらせた直後、「新参者の方だ」と伽羅が口を開く。
「確か、大量の骸で出来た、獣のような姿をしていると言ったか」
その問いに、ああ、とため息に近い返事を返す。一瞬憂いを帯びた目を伏せた伽羅は、不意に立ち上がり、大きな窓の外に広がる閑散とした大通りを見下ろした。
昔は、夜でも雑踏でにぎやかな、活気のある場所だったはずだ。しかし今はただ、薄暗い闇が億劫そうに身を横たえ、街灯によって薄っすらと照らし出される光景に、ちらほらと見回りを行う軍人の影があるだけだ。
「紗羅が、現場でお前に似たガキを見たと言ってな。何らかの力もあったようだし、それで、何か知らないかと呼んだ」
冷たい雰囲気に体温を奪われ、伽羅の言葉が溶ける。
――紗羅?
誰かの名であろうと脳が弾き出した途端、伽羅デスクの陰が、突如として蠢く。
光の下に落ちる、力ない手。
赤い袖口には、軍用の錆びたカフスボタンが覗き、公彦の脳裏にあの夜見た光景がフラッシュバックした。
赤い軍服、手にした大きな鞄。そして、あの言動も。
公彦の視線を辿った伽羅が、ああ、と声をあげる。
「息子の紗羅だ。昔、気まぐれに創ってみた、私唯一の血族だよ」
大きなデスク、寄りかかるようにして、眠っていた青年が、脂汗の浮いた額を億劫そうに拭う。薄っすらと開いた瞳は、血のように赤かった。
「大丈夫、今は大人しいよ。紗羅は昔から、社会の影響を受けやすくてな。清い人間が側にいるときや、私の影響下にいる場合は大人しいが、社会が憎しみで満ちれば、それ相応の人格に変化してしまう。今は……見ての通りだ」
自分の息子が、夜な夜な殺し歩いているのを知っているのだろう。伽羅は、悲しげに呟く。
「原因は多々あるが、今問題視しなければならないのは、お前も目撃しただろう。あの巨大な邪念が、帝都に漂う恨みや憎しみを食い漁り、増幅させている。元から都市というものは、多く人間が集まる分、負の感情が溜まりやすい。早く何とかしなければ、悪霊本体が危害を加える以上に、紗羅が人殺しを加速させるだろう。私ですら紗羅を止められなくなるんだ」
よほど頭を悩ませているのか、眉間に寄ったしわを、無意識に押さえていた。
「我々も早急に手を打ちたいんだ。何か知っている事があるなら、教えて欲しい。でないと、取り返しがつかないことになるぞ……」
――母さんを、助けてあげて――
正行の言葉が、木霊する。
正行の言う『救う』が、死を意味するのなら、これほどいい話はない。
――しかし、この女……。何処までが真実か分からない。信用していいのか……?
先ほどからうるさいほど響いている心音が、考え込む公彦を逸らせる。公彦の中の、人ではない何かが、警報を打ち鳴らしていた。
むしろ、疑った方が正しいのかもしれない。しかし、一人であのバケモノに対抗できるほど、強大なを持っている訳ではなかった。
彼らなら、しっかりと片付けてくれるだろう。人知の及ばぬ力を駆使してでも。
「……志津恵」
意識せず、口元がそう紡ぐ。
「松内志津恵。アレを動かしているヤツの名だ」
薄らぐ意識の中で、最後に耳に届いた声が伝えていた言葉だ。
伽羅がにやりと笑みを浮かべる。
「志津恵か、わかった。こちらでも早急に手をこうじよう」
再び、闇に支配された窓へと目を移した伽羅が、「ありがとう」と呟く。
表情が読めない位置だったからだろうか。なにか、含みを込めた言葉のように聞こえた。
見計らったように外へと促した海原につき、踵を返す。
磨き上げられたガラスに映りこんだ瞳は、赤く染まり、何故か口元に笑みを浮かべていたが、公彦はその異質な微笑を見ることはなかった。