――見つかった!
アレは、絶対追いかけてくる。服についた落ちない血の臭いを辿って、俺を食い殺しに来る……!
一面の闇の中、過ぎる不安に足を取られぬよう、公彦は我武者羅に走っていた。
頭の中で、これが夢だと言うことを理解している。
あの後確かに、世話になっている店に帰り、敷かれた布団に倒れ込んだのだから。
――夢だ、夢だ、夢だ!
しかし、いくら夢であると分かっていても、己の脳は一向に覚醒しようとしない。
己の身でありながら、自由にならない。
今の公彦にできることと言えば、夢から覚めるまで、唯闇雲に闇から逃げ惑うだけだった。
――苦しい、辛い。もうだめだ……だれか助けてくれ……!
不意に目の前が白み、目を覆いたくなるほどの光に包まれる。
次の瞬間、開いた瞳に映ったのは、懐かしい平成の風景だった。
聳え立つマンションや集合住宅の一角に、ひっそりと立つ古風な家。めっきり見なくなった木製の縁側では、年老いた老人と、若い美しい女が、手に抱いた赤子を見つめ、愛おしそうに笑っていた。
「小夜子姉ちゃん……」
公彦の口から、口にしなれた、しかしどこか懐かしい名が零れ落ちる。こちら側(大正時代)の幻魔、小夜子に名をつけるきっかけとなった遠戚の女性だった。
「小夜子ねえ……っ!」
懐かしい空気。甘くて切なくて、安心できる。あの日、自ら手放してしまった無条件の安息が、目の前に広がっていた。
溢れてきた涙に、思わずその影へと手を伸ばす。
「無理だよ。これは、君の魂の遺伝子……記憶を蘇らせているだけ。君が生まれる、ずっと前の風景のはずだから」
背後から、澄んだ声が。
「ごめんなさい。こうするしか、手が無かったんだ。君についた血と、僕の一部になった血を辿って、遺伝子単位で繋ぐしか」
振り返ると、満開の大きな桜の下、一人の少年がこちらを見つめていた。
「僕の名は、正行。今日……君に会った」
――正行、好きなだけいいよ。おやりなさい――
背を悪寒が走る。
もしかして、あの獣――!
「許してもらえるとは思っていない。でも、今日のことはごめんなさい。もうアレは、僕じゃない。もう僕では、制御できなくなってしまった。それでも、どうしても、君に頼みたいことがあるんだ」
正行と呼ばれた少年は、泣きそうな顔を俯けた。
「母さんを……僕の母さんを助けてやって欲しいんだ。こんな体になった僕じゃ、母さんを救えない。僕は、もう一度死んでも構わないんだ……だから、母さんを……母さんを助けてやって欲しい」
散ってゆく桜が淡い幕を作り、正行の涙を隠していた。
あの光景が蘇る。状況からして、あの場にいた女がこの少年の言う、母なのだろう。しかし、あの光景を見る限り、正行自身が異形に身を落としたのは、彼女に問題がありそうだった。
「どういうことだ? 何故、そこまで……」
原因はあっちにあるのだろう? と言いかけ、首を振った正行に遮られる。
「僕は、母さんの本当の息子じゃない」
風が吹きぬける。感覚など無いはずなのに、あまりにも清々しい。風に誘われ大木の元を離れた花弁が、幻想的な恐怖を強めていく。
「本当の正行は、生まれる前に死んだんだ。事故で、堕ちてしまった。それから、母さんは気がふれてしまって……。
僕の本当の名は、清。小さい頃に間違って目に劇薬を刺されて、両目の視力を完全に失った。時代が時代だから、人の目を恐れた両親は僕を棄て、浮浪者となった僕は、夜な夜な徘徊していた母さんとであった。
正常じゃなくなっていた母さんに、殺されたんだよ。正行への生け贄にね」
闇の中に浮かぶ、ガラスのような空っぽな瞳が脳裏を過ぎり、公彦の全身を硬直させる。
しかし、上げられた正行の双眸は、溢れんばかりの涙と、手に余るほどの悲しみを湛え、煌めいていた。
「死ぬ直前、母さんの悲しみが僕の中に入ってきたんだ! あまりにも悲しくて、苦しくて、辛くて……。あんな強烈な感情、持ってくれる人間がいる、正行が羨ましかったんだ。同時に、憎くて仕方がなかった。僕には、死んでも悲しんでくれる人はいない。
だから、僕はこの世に存在しない『正行』になったんだ。カワイソウな母さんと、カワイソウな僕のために」
大粒の雫が、大地に落ち、しみこんでいく。それに伴って、じわりと胸が切なく締め付けられた。そうだ、ここは俺の精神世界なんだ。ここで感じるコイツの苦しみは、俺の苦しみでもあるんだ。
誰にも祝福されず生まれ、死すら望まれる。
まるで自分と、死んでしまった公彦ではないか。迫害や蔑視は、排他的な大多数の人間の中にのみ存在する。彼も自分も、その犠牲者ということか。
背後では、楽しそうな笑い声が上がっていた。
「でも、駄目だった。僕に母さんは救えなかったんだ。母さんのためだと思ってやっていた人殺しで、僕の知らない何かが育ってしまった。もう駄目だ。僕ではもう、あの巨大な何かは押さえ込めない。肉体も動かせない、自分すら制御できない僕に、何が出来る? また人を殺して、心を蝕まれていくだけだ。このままだと、母さん……僕のせいで、あの世に行けない。本当の正行のところに行けないんだ……」
「もしかして、お前……」
正行が、辛そうに歪んだ口元を、無理やり笑みに結んだ。
「霊体だよ。僕も……そして、母さんも」
だから、君を探し出したんだ、と付け加えると、不意に今まで確かにあった地面が、音を立てて崩れ始める。
「君なら、何とかしてくれると思ったんだ。僕たちと同じ痛みと、それ以上の血を持つ君なら」
「お願い……」と、囁くように呟いた正行の身が、辺りを支配し始めた漆黒の闇へと溶ける。
何処からともなく、「もう時間が無い」と声が響き、公彦の意識を染めていった。
――覚えておいて。僕の名は、松内正行。母さんの名前は、志津恵。松内志津恵だ……。
「アレぇ? 小夜ちゃん、どうしたの、その傷」
客の一人が声を上げる。
「ああ、これ。ちょっと転んじゃって。大丈夫ですよ。もう、痛くないですから」
笑った小夜子が、頬に走った赤に指を這わせた。
あの時負った傷だ。いつもなら、すでに治っているはずの小さな傷に、胸を過ぎる不安。契約者である小夜子は、主である公彦の力に左右される。
――今回は直りが遅いな……。
まだ本調子ではないだろう公彦の身を案じ、不安そうに視線を送ってくる常連客に「大丈夫」と、再び笑顔を向けた。
あれから公彦は、何か考え込むように部屋に篭りきりだ。このままでは、力の回復も見込めそうに無い。
小夜子は、ため息を一つ吐くと、ふさぎ込もうとする己を、無理やり笑わせてみた。うん、大丈夫。まだ笑える。
「小夜子」
公彦の声。
驚いたように振り返ると、意地でも部屋から出ようとしなかった公彦が、目の前に、それも愛用の画板を片手に立っていた。
畏怖の対象となる金の瞳は、純白の包帯で巻かれ、窺うことができない。
あの夜、新たに負った足の傷を庇いながら、戸口へと歩み寄ってきた。不安げに見上げる小夜子を前に、にっこりと笑う。
「ばーか。師匠も言っていただろう。『うじうじしたって始まらない。そんな時間があるなら、迎え撃つ最善の策でも練っていろ』……ってね」
そのための猶予期間だったのだろう。
「……長すぎなんだよ、ばぁか」
「そりゃ悪うござんしたねえ。たかだか、十そこそこの小童なぞ、天下の小夜子様には敵いませんで。でもま、安心しろ。それだけの結果は出してみせるから」
「どういう作戦でいくの」
「んー……、とりあえずチマチマと力取り戻す。後はそれから考える」
「な……っ! 安直ーっ! なにそれ、あんなに時間かけて結論それだけ。むしろ、あんたの神経を疑うわ。泥舟提示しておいて、安心しろだなんて、よく言う」
「仕方ないだろ。逆転の発想、原点回帰だよ。全ては原点に戻り、何もかもシンプルな方がいい」
一人納得する公彦を横目に、小夜子が哀れむようにため息を吐いた。かといって、他にいい案があるわけではなく。まあ、これまでも、何だかんだ言いつつ、乗り切ってきたこいつのことだ。
仁王立ち。
「しゃーない! 自分の身は、自分で守るように。ただし、ちゃんと日が落ちる前には帰ってくること。いいわねっ!」
私が困るから、と付け加えられ、公彦も困ったように眉を寄せ、笑った。
「了解」
引き戸に手をかけると、清々しい風が吹き込んできた。夜とは違う、活気と温かさ。
人々の喧騒が支配する、レンガ敷きの地に足を踏み出すと、公彦は今ある力を駆使し、辺りに漂う人ならざる者の気配を辿り始めた。
その地に残る念を体内に取り入れることは、魂を喰うほどは行かないまでも、失った力を回復することが出来る。
死者は生者の臭いを嫌う。己の定義が、危うくなるからだ。
夜ほど反応を示さない己の右腕を眺めながら、走るペン先に意識を集中した。
商人、山中、これは夜盗か。それに、子供……。
その直後。
今まで手を動かしていたものとは比べ物にならない力が、公彦の身にのしかかる。息さえ詰まるほどの、圧倒的な重圧感。
動いていた右腕が、一瞬硬直したかと思うと、カタカタと震えだし、力の気配が消え去った。あまりに強力な何かの前では、小さな霊魂など、無力に近いのだ。
――なんだ? この気配。何にしろ、いいものではない気がする。
細胞一つ一つが、あわ立つような錯覚。首筋を舐めていく恐怖に、反射的、その正体を捜していた。
公彦を形作る全てが、危険だと叫ぶ。しかし、それに反するように体は視線を漂わせるのをやめようとしなかった。
絶えることの無い人波に、ふらつく足を踏み入れ、乗る。
唯一視覚として機能していた黒い瞳も閉じ、高鳴る心臓の鼓動に集中した。
完全な闇。次第に大きくなるその音に、耳を傾け、全身で感じる人々の雑踏を避けて歩く。
――近付いてくる……。
一瞬、一際高く響いた心音。反射的に勢い欲手を伸ばすと、すれ違う肩を掴んだ。
驚いたような目。
やっと色を取り戻した視界に、二人の対照的な人物が、鮮やかに映りこんだ。
学生だった。端整な顔立ちは、相当ちやほやされただろう。その隣には、軍服に、軍支給のコートを羽織った、目つきの鋭い男が気づく様子もなく歩みを進めていた。
掴んだ手を這ってくる、得体の知れない恐怖感。きょとん、と見つめてくる外見からはうかがい知れない、何かがある。
ふっと、無理やり笑みの形に口角を上げた公彦が、小さく呟いた。
「本当はどっちが偉いんだか……」
肩を掴まれた学生の瞳がすぼまり、美しい顔が驚愕に歪む。
「おまえ……っ」
開かれた口元は、僅かばかり引きつっている。
これ以上詮索されたくはない。これだけの力の持ち主だ、もしかしたら、何か面倒ごとに巻き込まれるやも知れない。目立った行動を制限されている身にとって、可能な限り避けたい事態だった。
肩にかけていた手を離すと、逃げるように人波の中心へと走り出した。
その背が消えた辺りを見つめ、彼は呆然と立ち尽くしていた。
「どうした?」
振り返った海原が問う。
人波を見つめていた安藤が、いつも通りの落ち着きを取り戻すと、「いや」と返した。
「あいつ、僕の正体が分かっていたのかも知れん」
自嘲的に歪められた口元だけが、笑みの形を帯び、海原の目に映る。「まさか……」と、言葉尻に詰まった。
この都に、コイツの正体をうかがい知る奴がいるとは。幾つも居ないであろうその才能を持つ人間が、まさかコイツ以外に現れるとは思っても見なかった。
「へえ……利用価値有りか」
海原の口元に、笑みが浮かぶ。
――ああ、上手く利用すれば、この面倒な状況を打開できるかもしれない。
彼自身の目的を達成するためには、今の状況は正直言って邪魔だ。不安の芽は、摘んでおくに限る。
「追えそうか?」
「大丈夫でしょう。彼の身に、僕の力の一部を、潜り込ませましたから。すぐにでも、正体を突き止められますよ。彼自身に邪魔されなければ、の話ですが……」
その言葉を待つ事無く、海原は安藤に背を向ける。安藤に任せていれば、大丈夫だろう。意地でも情報を引きずり出してくれる。
「軍令部に帰るぞ。隊長に報告して、指示を仰ぐ。……さあ、これから何が起こるか見ものだ」
音をなくした安藤の世界に、海原の声が響き渡る。
その背を見つめ、表現できない違和感に、こめかみを押さえた。
しっかり、言葉を交わす価値のない音は消したはずだ。しかし、ついこの間のことといい、今回のことと言い……。
――タイムリミットが迫っているということか……。
だったら、こんな事件、早く終わらせてしまいたい。死ぬ前に大義を果たさねばならない身としては、こんな無駄ことに時間を使っては、いられなかった。
通いなれた軍令部への道を辿る。
視界の端を、時期外れの蝶が力なく横切っていった。