どうやら、此処の人間たちは、目の前の笑顔に幻想を見ているらしい。

この外見から、愛らしく大人しい才女を想像しているのだろう。たしかに、目の前の人物は一般的に言うと美しい。……しかし、あくまでも、一般的に言うと。

「中身知らなきゃ、何とでも夢はみることができるよなあ……」

 呟きつつ、その作り物の笑顔に目を移す。恐らく、彼女の内面を知らない人物が見ると、非の打ち所の無い完璧な笑顔だっただろう。

しかし、現実。

彼らの色眼鏡をかけようと努力を続けた公彦の前で、その愛らしい(はずの)瞳がギラリと輝いた。

「食えって言ってんだ。せっかく私が作ってあげたのよ? それをあんた、餓鬼みたいにぐだぐだぐだぐだ……。何が好きであんたみたいな奴に飯つくらなきゃならないのよ。正直、すんげー面倒くさかったんだから。あまりに面倒だったんで、砂糖と塩、保障は出来ないけど」

 怒りマーク。あの、眉間に浮かぶ血管のマークだ。

 昔、当時の友達に読ませてもらった漫画に、そんな物が出てきたはずだ。ああ、こういうシーンで使うんだな、と心のどこかでぼんやり考えていると、笑みに形作られた小夜子の口元が、不穏に引きつる。

「さっさと食いやがれって、このアホンダラーっ! 時間がもったいないんじゃボケぇ!」

「……腹減ってない」

「ついさっき、腹減ったー……って呟いてたでしょうが!」

「……そっちの腹じゃない」

「あんたね……首絞めるのと、腹かきさばかれるの、どっちがお望み?」

「……有望な未来を」

「あんたみたいなクソ餓鬼に、未来なんて言葉ないわ!」

 ぎゃんぎゃんと喚きたてる口の悪さは、昔小夜子が使えていた、故郷にある神社の主直伝である。

 懐かしい故郷の丘に立つ、神社で祀られていた白大蛇(これが、口が悪いどころか、性格も捻くれているという最悪の神だった)の顔を思い出し、深いため息を吐く。

 諦め半分、重く感じる瞼を閉じ、怒鳴り声を意識の内から外そうと耳を背けていると、不意に、つんとした異臭が鼻をかすめた。

「公彦?」

突然目を見開いた公彦に、小夜子が不審の目を向ける。

 つんと粘膜を刺す饐えた臭いに混ざって、わずかばかり線香の臭いが。

「……だれか、死んだな」

 公彦が呟く。こちらに来て手に入れた察知能力は、狭い範囲でなら、死した者の魂の存在を感じ取ることが出来る。

 思わず口元が緩む。久方ぶりの死人だ。

 再び黒い瞳を暗黙の中に落としこむと、もう片方にかけられた包帯を解く。色の違うこちらの目のほうが、よりいっそう力を出すことが出来るのだ。

 急激に網膜を刺した瞼越しの光に、一瞬眉を顰め、果ての無い暗闇に目を凝らしていった。

 何も触れず、何も見えない闇。

 確かに、質量を持って感じられる空間を、手探りで進んでいく。酸素がなくなってしまったように、妙に息苦しかった。

 時空が違うからだろうか。この場では、全ての常識が通用しない。

辺りの温度が一瞬にして変わったと思った直後、弱った蛍のような淡い光が目の前に浮かんでいた。

「見つけた……っ」

 歪められた口元が、そう言葉を紡ぐ。

 突如として硬く閉じていた目が開かれ、黒々とした瞳孔が一気にすぼまった。彼独特の、金の瞳が恐ろしいほどに煌めいた。

 のしかかってくる重い重圧。

 手ごたえに肌をあわ立たせ、「捕まえた!」と叫んだ。

 床に向かって垂れていた片腕には、何時の間に取り出したのか、一枚の札が煙を上げ、燻っていた。

「やった、やった! 久しぶりの飯ー。夜にでも抜け出して、取りに行こうーっと。あ、小夜子昼飯そこに置いておいて。後で食べるから」

 上機嫌に声をあげた公彦の背後で、小夜子が呆れたように口元を歪めていた。

自分の領域内なら、対象を一時的に捕獲、縛り付ける能力を持つ公彦は、しかし、それが何処であれ、自ら取りに行かねばならない。

少し前までズタボロだったその身を暗示はしたが、すぐさま驚異的な回復力を思い出し、口を開くのを諦めてしまった。

小夜子が公彦に出会って十年近く。

それまでの人生の尺度から考えると、ちっぽけな十年のはずだが、十分すぎるほど濃度の濃い十年である。

 どうやら、コイツ。私をのんびりと隠居させてはくれないらしい。

「あんまり無茶しないでよね。彼らに見つかると、面倒なんだから」

 ため息混じり。落ちた包帯を拾い上げつつ眉を顰めると、のんきな声が衣擦れの音と共に届いた。

「大丈夫、大丈夫。今夜は、小夜子も一緒に行くんだから」

 金の瞳に、包帯を巻いていた手が、止まる。

「……は?」

「いや、だから、万が一危機的状況になっても、小夜子が助けてくれるだろ?」

屈託の無い眼差しが、理解の追いつかない小夜子を見つめてきた。

「な……っ、夜は無理よ! 私が力なくしちゃうことは知ってるでしょ?」

「だって俺、今や力使い果たしてゼロだよ。ゼロ。追っ手撒くのに、相当深手負っちゃったし。もし奴らに出会ったらどうする? 俺に死ねというのか」

「だったら、今日は行かなきゃいいじゃない。あっちも探し回っているだろうし、何も今日行かなくても、もっと事態が落ち着いてから……」

「それじゃ、力の回復も出来ないんだぞ。心もとなく、こんな異郷でガタガタ震えてろっての? それなら、一刻も早く力取り戻して、街出たほうが、奴らにも気づかれにくいと思うけど」

「う……っ。でも、公彦の力がゼロなら、それを共同で使う私も力を出せないのよ? そんな私に、どうやって身柄守れって……」

「力なんか使わなくても、お前強いだろ。なんと言っても、師匠譲りの中国武術の達人だし」

「武術ってねえ……。人型保てないのに、どうやって武器持てって言うのよ……。あーもう……なんか疲れた……」

 理不尽な理屈だとは思いながらも、彼の言うことにも、ほんの一握りだけでも一理ある。要は、見つからなければいいのだ。

 言い負かされた違和感を口内に感じつつ、悲しいかな、彼には逆らえぬ自分にため息を吐いた。

 何より、追っ手は恐ろしい。

 元はと言えば、公彦が蒔いた種なのだが、今の小夜子にはどうしようもなかった。それが、二人と白大蛇との、契約の根本なのだから。

 ニヤリと笑う公彦の手から、微かに燃える札が舞い上がる。机に広げられた紙束へと落ちたその炎はじわりじわりと、広がった紙を燃やしていった。

驚くほどの画力で描かれた地獄絵図。

人に絶対的な死が与えられる瞬間が、一枚の紙に凝縮されている。人の苦しみが切々と綴られたその絵には、この世の恐怖全てが詰まっていた。

その憎しみが燃え、散っていく様は、命一つ一つが尽きるようで、なぜか美しかった。

 

暗い。

底冷えした夜気が、そっと頬を撫でていく。

殆どと言っていいほど、人気のない街の一角には、ただ薄ぼんやりと灯る街灯が、居心地悪そうに身をすくめているだけである。

レンガ敷きの地面を叩く靴音が、唯一規則的に、停滞した時間をかき回していた。

時折遠くを通る馬車の蹄と、手元から発する微かな音が、白い息に溶けていく。

彼は、手にした画板から、引きちぎるように紙を外すと、未練も無くその場に放り出した。

まるで、闇夜に舞う純白の蝶。

背後を歩いていた柴犬が、ゆったり優雅に舞い落ちたその紙に近付き、上手く口で拾い上げた。

茶と白が混ざり合った柔らかそうな背に、不自然に結ばれた風呂敷。その風呂敷からは、すでに幾つもの紙が覗いている。

いとも簡単に拾い上げた紙を風呂敷に差し込むと、寡黙であった犬がそっと口を開いた。

「公彦、いい加減、描いたものすぐに捨てるのやめてくれない? 田舎ならともかく、こんな街中で見つかったら、そりゃもう大変な騒ぎになるんだから」

 真っ白な犬歯を覗かせて、それは確かにそう言った。

 しかし、この不条理に対しても、当に公彦は書き付ける手を止める事無く、「ふうん」と曖昧な返事を寄こすだけだ。

その対応に痺れを切らしたのか、一瞬威嚇するように眉を顰めた犬が、走り出るように公彦の前に歩み出た。

「公彦っ! お前聞いてんのか、はっきりしろよ!」

上がった怒鳴り声に、公彦の手が止まる。

「ああ……小夜子か。どうした? 見つかったのか?」

 今気がついたような口調に、ほとほとあきれ返る。きょとん、と不思議そうに目を丸くした公彦は、まだ少しばかり傷が残るものの、普段と同じといってもいい。きっちりと着込まれた和装の首元からは、白いブラウスの襟が覗き、軽くまとめた髪が風に遊ばれている。

 力をなくした以外は、大して変わりは見られない。

 ため息一つ、ペンを走らせだした公彦の前を、獣独特の爪音を立てながら歩く。

 公彦の手元では、まるで奇跡のように鉛筆が一枚の絵を描いていった。

――今度は、武士か……。

 意思とは関係なく、迷い無く滑る己の右腕を見下ろし、そう心の中で呟く。

 捕獲するには値しない、弱弱しい残留思念や霊魂の類が、その無念さを訴えるために、肉体の一部を動かしていた。

 何枚描いたかも分からない思い、一つ一つに触れ、そっと公彦は手を止めた。

 戦場。首。刀。炎、炎、炎……。

 鉛筆で力強く描かれた、苦しみの一場面を、引きちぎり丸めると、目の前を歩く子犬の風呂敷に突っ込んだ。

 人間ではない小夜子の体は、夜になると力を失くし、獣の姿へと変わってしまう。術者である公彦の力を借り受けることが出来るなら、姿を取り戻すことも出来るが、公彦自身力を失った今となっては、望みようもないことだった。

「それよりも、お前。もう少し力の制御、徹底しろよ。あの店の一人息子……」

「進君?」

「そう、それそれ。その進が、そろそろ酔い始めてるんだ。お前の力って、慣れない奴が大量に浴びると、惚れ薬みたいな効果になるんだから。気をつけてやれよお。ま、一時の気の迷いなんだから、どうってことないだろうけど」

「……何それ。私が魔性の女って言っているみたいだけど」

「違うのか?」

 振り返った公彦の顔は、本気でそう思っていたのかどこか間が抜けている。

「……否定はしない」

「よし」

 意図してやっているわけではないが、事実なので仕方がない。肯定もしなかったのだが、何を思ったか公彦が自信ありげに頷いた。

「それでも、勝手に酔っちゃってるあっちも悪いんだからね。生まれてこの方、何度人間に迷惑な恋心押し付けられたことか……」

簡単な論理だ。人間でも愛想笑いを見せると、勘違いをされることがあるだろう。アレと同じ。

小夜子の場合、それに意図しない力が絡むとはいえ、本人が良しとしない結果に転がり込むのは誰でも嫌なものだ。

 黒々とした彼女の目に、得体の知れぬ何かに纏わりつかれる公彦の姿が映りこんだ。異形のモノたちは、追い払わないのをいいことに、遊び半分、何時ちょっかいを出そうかと策略していた。

「どうした?」

 柔らかい問い。

 身を隠すことも出来ない雑魚、公彦が気づいていないはずが無い。意図して放置しているのか、それとも単に追い払うのが面倒くさいのか、どっちにしろ、今の小夜子には関係ないことだった。

首を振り、「なんでもない」と返そうとした時、物の怪ではない、なにかどす黒い影が、公彦の背後でうごめいた。

「公彦、危ない!」

 その叫びが届くまもなく、公彦の喉を圧倒的な圧迫感が襲った。喉が絞まることも考えない、強い力。逆流してきた唾液が口から溢れ、上がった胃液が喉を焼く。

 あまりの力に一瞬視界が白み、その何かに引き寄せられる。

 白い肌、太い腕……!

「よォ、クソガキ。探したぜ。上手く逃げやがったなあ」

 その何かが、君の悪い笑みを浮かべて笑う。

息をするだけで辛い拘束に眉を顰め、何とか逃げようともがく。相手の身長のほうが圧倒的に高いのか、首に腕をかけられただけで、すでに爪先立ちだ。苦しさから来る涙を堪えながら、抵抗とばかりに頭上のにやけ顔を睨み上げた。

「お前が、大人しく俺たちの『クニ』に来れば済む話なんだぞ。何が不満だ? 悪いようにはしない。立派な契約じゃないか」

「何が契約だ! お前たちは、結局俺の能力を利用したいだけなんだ。単なる実験材料が欲しいだけなんだろう!」

 流暢に綴る口元と、その奥に潜む、細められた青い瞳。

 二人を追いかけ、苦しめてきた元凶……!

 明らかに日本人とは違う闇にまぎれた人物に、絞まる首元を押さえつつ、公彦は叫んだ。

「お前たちの国には行かない、協力もしない! 力があると言っても、俺の『力』は『喰う』ことだけだ。お前たちが望む破壊的な力なんか、持ち合わせちゃいないんだよ!」

「そうか、そりゃあ残念だ。しかし、何だ。そう思っているのは、お前だけかもしれないだろう? 眠っているだけかもしれん。それに、もうすぐ戦争が始まるらしいじゃないか。能力を見つけて、使いこなせるようになったら、戦場に出られる。功名も立つし、お前も好きなだけ喰うことが出来るじゃないか。力が開花すれば、一石二鳥だ。これは、お前にとっても利益になるんだぞ」

「はっ、よく言う。結局は得体の知れない国、ニッポンと戦争になったときのため、兵器が欲しいだけなんだ。そんな誘いに乗るほど、俺は馬鹿じゃない!」

 首にかかる力が増す。巻かれていた包帯が緩み、苦しげに細められた金の瞳が、闇夜の中に浮かび上がった。

 頭上の青い瞳が、猟奇的に歪む。

「ハハハッ! お前も罪人か! 単一民族の中で、秩序を乱した我々の同類! しかし、何だ。イエローなんかが我らと同じ血を継ぐなど、吐き気がする。汚らわしいお前たちは、このちっぽけな牢獄でガタガタ震えていればいいものを。結局お前たちは、我々に尽くさねばならんのだ。分かるな、穢れた子供……っ!」

――早く棄ててしまいなさいな! あんな穢れた子供……。

――家長様も、何を考えているかわからんな。得体の知れん、外の人間の血を引いた子供なんかを、殺さず手元に置くなんて。

――あそこの娘さんも、何て子を産んだんだ。早く始末してしまうべきなのよ。あんな瞳の、子なんか……。

――ほらこの間、東の集落が洪水にあったでしょう? あの時、占い師の婆さまが『これはあいつの呪いだ』ってわめいてたそうよ。怖いわねえ……このままだと、こっちにまで不幸を運んできそう。

――俺は知ってるぞ! あいつが火をつけたんだ。あの金の目をした呪われた鬼子が!

 公彦の手から力が抜ける。当然かかる重力が増したが、しかし、今の公彦には同でも良い事だった。

「うるさい……黙れ」

口から零れた言葉に、笑みを浮かべていた相手が疑念の色を浮かべる。

「誰が悪いってんだ……。公彦が生まれたことが悪いのか? 責められ続けて、息子の公彦殺して、自分も自殺した母親? それとも、ノイローゼになるまで追い詰めた、村の奴らが悪いのか。魂の無くなった体を利用して、この時代に生きている俺? 結局は皆罪人だろう。でも、この世に罪の無い人間なんているのか。お前は、完全な聖人君子様か! その穢れたちっぽけな日本人の力をあてにしなければ、日本人も殺せないお前たちが、罪人で無いと言えるのか。

俺はな、人間の汚いところも全て視てきたんだよ。だから、判るんだ。協力なんてしない。協力する価値もない!」

「……だったら、死ねよ。異端児が……我々にも、日本人にもなれない、ならず者のお前が死んだところで、悲しむやつなんかいないんだよ!」

 明らかに殺すため、かけられはじめた力に、体中の血液が逆流する。パキッと首の骨が嫌な音を立て、軋んだ。

――苦しい、苦しい、苦しい……っ!

  ヤバイ。これが折れたら、お仕舞いだ。死ぬ……っ!

 声にならない声が喉元から溢れ出し、視界が醜く歪む。

 過去、他人の死を自ら望んでおきながら、死ぬことを恐れている自分が、哀れに思えて仕方がなかった。

「公彦っ!」

 思い余った小夜子が走り出す。

 いくら力尽きたとはいえ、命を削ればほんの少しでも人化できるかもしれない。その一瞬で型をつける!

 しかし、小さな身が変化の光に包まれる直前、長身の男に蹴り飛ばされてしまった。

――馬鹿だな。俺なんかのために。

 潤む視界に、弾かれた小夜子の体が転がるのが映る。

――ああ、死ぬのか。

 闇の中から這いずり出てきた死が、確かな確証として彼の身に寄り添っていた。

 しかし。

「え……っ?」

 直後、視界の端を走った深紅の軌跡に、ぼんやりと溶けていた視覚が覚醒した。

切断された腕。その間からは、なにやら白いものが覗き、加えられた力と反対方向に働いた風により、飛び散った血が、唯一月光の下で鮮やかに映えていた。

「うわあぁっ!」

上がる絶叫。

酸欠でよく動かない体に鞭打ち、間合いを開くように駆け出す。

なにやら理解できない言語で喚きたてる声を背に、倒れていた小さな体を拾い上げ、胸に抱く。手の内に戻った体温に安堵しつつ、振り返って初めて、己の身に起こった状況が理解できた。

滴り落ちる血は、尋常な量ではない。

何者かが、公彦を拘束していた腕を切り落としたのだ。

「この……っ、ジャップのクソガキがっ!」

 彼にとって公彦は、得体の知れないものだったのだろう。公彦が何か、人外の力を使い、己に危害を加えたと思ったのか、怒りに目を血走らせ、彼はもう片方の手を伸ばしてきた。

 ずるり……。

 その時だ、彼の背後で、何かを引きずる音が聞こえたのは。

 ずるっ……。

 建物の影となり、闇の落ちるその中で、一対の双眸が煌めいた。

つんと鼻を突く臭い。まるで、何かが腐ったような……。

生理的に鼻を覆った直後、それまで勢いを持っていた男の肉体が、バランスを崩し、ぐらりと崩れ落ちる。夜気で冷やされた宙に、美しい朱の雫。レンガ敷きの地面には、先ほど以上の紅色の液体が、一瞬にして広がった。

ずるり、ずちゃり。

あまりのことに目を瞬かせていると、闇の中に浮かび上がったそれが、公彦を見つめる。

水の滴る音が爆ぜ、得体の知れない獣が、禍禍しいその身を、月光の元に晒した。

鯨のようにヌメヌメと光沢のある皮膚からは、磯と不快な腐敗臭がない交ぜになり、液体が滴り落ちる。手の先には、巨大な爪。

所々飛散した赤黒い液体に身を染めた獣は、よく見ると、複雑に色が混ざり合い、奇妙な模様を形作っている。

陰っていた月光が、再び鮮やかに陰間を照らし、獣の身、隅々まで映し出したとき、一瞬呼吸が止まるほどの衝撃が、公彦の心を襲った。

「死体……っ!」

 零れる吐息は、悲鳴にも似て、その場の空気を凍りつかせる。

 数多の海洋生物が絡み合い、不可能なほどにねじれ、一体の獣を形作っていたのだ。前足の付け根には、人の皮膚らしき痕跡も垣間見える。

 獣の口から吐き出される息は、大量の腐敗臭を孕んで生臭い。

 公彦の瞳が驚愕に見開かれるのを、いかにも楽しげに笑う声が包んだ。

 高く聳える建物の上で、姿を現した満月を背に、それは笑っていた。逆光で影がかかり、顔はよく分からない。眼下の獣を見つめる瞳のみが、愛情すら浮かべ、爛々と輝いていた。

「あまり時間をかけては駄目よ、正行。見つかってしまうから」

 獣が、反応するように息を吐く。

 停滞していた空気が、更なる混沌へと塗り替えられていく。

――逃げられない。殺される……!

 直感。

 どんなに人外の者たちが、恐ろしい姿をしていようと、これほど完成された恐怖を孕んではいない。

 その異形を正行、と呼んだ人物が、口元に笑みを浮かべる。

「正行、好きなだけいいよ。おやりなさい」

 それを合図に、獣が血みどろの巨体を闇夜に躍らせた。

 反射的に瞑る目。子犬を抱く手に、力が込められる。

 決まっている死に向かうとき、人は世の中を酷く遅く、その目に焼き付けると言う。

 公彦の脳裏に、幼い頃テレビで見た記憶が蘇り、自嘲まじりに口角が上がった。

――ああ、あれって本当なんだな。

 しかし、それは唯悪戯に、怯え、恐怖に身を引き裂かれる時間を増やすだけだ。

――いっその事、スパッといってくれたら、楽なのに。

 理解することを拒絶した脳の片隅で、そんな感情が弾き出されたところで、無心論者の彼に、贖罪の手が差し伸べられることは無く、願いは聞き届けられなかった。

 何か、金属を打ち鳴らしたような、不快な音が盛大に鳴り響き、公彦の思考を完全に停止させたのだ。

 反射的に開いた瞳に映ったのは、真紅の背中。

 その背の手にした金属製の鞄が、貝や岩、甲殻類の甲羅で形作られた獣の鋭い爪を受け止め、摩擦から不協和音を奏でていた。

「汝が、我が狩場を荒らす野良犬か……」

 真っ赤に染まった、見慣れぬ軍服をはためかせ、男が言う。

「帝都は我が手中。そこに住む弱き者どもも、全て私のものだ。貴様にくれてやる餌など、一つとしてないわ!」

 手にした鞄に力を込め、男は巨大な獣の爪を、軽々と弾き返した。

 壁へと叩きつけられた獣の身から、幾つ者死骸が零れ落ちる。

 しかし、爛々と光るガラスのような双眸から狂気は消えることが無く、むしろ狂ったように雄叫びを発した。

「単なる単細胞か……。くだらぬが仕方がない」

一心不乱、地面を蹴った獣に、呆れたように呟く。

あれほどの重みを受けおきながら、傷一つ見当たらない鞄に手をかけると、中から一体の傀儡人形を取り出した。

ばらばらにされ、いくつかの配線でのみ四肢を繋いだ人形が、軽い音を立て引き出されると、青年の動きに同調するようにひとりでに原型を取り戻していく。最後の間接が閉じ、ばらされていた人形が元の姿を取り戻したとき、雲の去った青い月が、今まで以上に大きく輝いていた。

「我に背いたからには、楽に逝かせてはやらんからな」

 そう呟いた口元は、何故か笑っていた。

 公彦の背を、じっとりと汗が伝った。

 恐らく彼が、この地で起こっている連続殺人の犯人だ。無意識にそう結論付ける。

 自分は、史上最悪の殺人鬼の元に、躍り出てしまったわけだ。

それに対して自分は、完全に力を失っている。これでは、哀れなスケープゴートでしかない!

――しかし、唯一の救いは、双方が互いに反発してくれたことか……。

 今逃げなければ、生き残ったほうに殺されてしまう。

 退路を確認するように足を滑らせると、手にした子犬を抱きなおす。今しかない。

「小夜子、逃げるぞ」

 囁くように呟くと、震える足に鞭打ち、赤黒く染まる大地を蹴りだした。

 一瞬、気がついたらしい男が、視線をこちらに向けたが、再び響き渡った金属音に、すぐさま意識を戻す。恐れを知らない作り物の瞳を見つめ、笑ってやった。

「……本当に死にたいようだな、お前……。我々と同じ、ならず者が……っ」

 どちらのものとも付かない、獣じみた方向が、ぴんと張り詰めた空気を裂いた。

 

 辺りに広がるのは、一面の水。それは、海水であり、獣を形作っていた死骸の体液だ。

 ビルの谷間で、その人物は小鳥が囀るように笑っていた。勝敗は一目瞭然だった。

「コワレタなら、もう一度、ツクレバイイ」

 眼下に広がる地獄絵図の中、唯一存在する生命を見つめ、そう呟く。

「ザイリョウは、タクサンあるもの」

 海に山に、街にさえも。

 垂れ流された重油で死んだ魚。化学薬品で命落とした獣。大気に停滞する毒物で殺された人間――。全ては、彼女のためにあるようなものだ。

「アナタは、ニンゲン?」

 最後に、そう聞いてみる。

 見上げてきた男の足元で、獣を形作っていた魚の一つが跳ねた。生きている、というより、死後硬直のようなものだ。

「だったら、何だというんだ」

 男が答える。

 しかしその人物は、返された問いに答えることも無く、肩を竦めて立ち上がった。

 崩れた獣の一部が光り、一匹の蛍が舞い上がる。

 美しい満月の下、彼女の手に舞い戻った蛍は、まるで呼吸でもするように点滅を繰り返していた。