ずるり。ずちゃり。

 何かが這い回る音。

 ずるり。ずちゃり。

 何かが滴り落ちる。

 夜も更け、港の倉庫が並ぶ一角に人影は無い。

 申し訳なさげに時たま灯るガス灯が、赤黒く変色した石畳を照らし出した。

 ずるり。ずちゃり。

 太く伸びる四本の足をしきりに動かし、それは夜闇を歩き回る。

 ずるり。ずちゃり。

 足元に広がった血溜まりが、その歩みに合わせて音を立てた。

 荒々しく吐き出される息。死臭に似た生臭さを帯びたそれが、血を孕んだ夜気に溶けて消えた。

 ずるり。ずちゃり。

 ひたすら同じ場所を這い回るそれを見つめ、サディステックな笑みがこぼれる。

 ああ、やっとここまで育ってくれた。

 時折、愛しそうに細められる瞳。厚い雲に隠された月が、その異様な光景をねっとりとした闇の中に隠していた。

「さあ、もういいだろう。帰ろうか」

 そう語りかけた人物に、それの双眸が向けられる。がらんどうなその瞳には、狂気以外の感情は無く、むしろガラス玉のように虚無だった。

 ずるり。ずちゃり。

 一度首を廻らせ、生臭い粋が吐き出される。

 了解として受け取ったのか、その人物は黒いコートを翻し、踵を返した。

 陰っていた月が、一瞬吹いた風によって再び姿を現す。鮮やかに照らし出された影が波の音を思い出した漆黒の海に落ちる。

 次第に地を照らしだした光から逃れるように、それの双眸が見開かれ、影の中を這う。

 波間が煌めく海が、海中へと身を躍らせたそれの姿を一瞬照らし出した。

 血とリンパ液、肉片にまみれたその姿が、暗黒の海に赤い糸を引き、消えていく。

 呼応するように海中から現れた一匹の蛍が、歩みを止めない人物のもとへと飛び、ふっと消えた。

 再び闇が訪れたとき、その姿は溶けるようになくなっていた。

 

「ありゃりゃー。こりゃドハデにやられましたなあ」

 青年の頭の中に音は無い。

 否、意図して『消している』のだ。

 おそらく現実は、この混沌の洞穴を、取り止めなく騒然とした空気が取り囲んでいるはずだ。

悲しいかな、見慣れてしまった帝国陸軍の軍服と多数の野次馬の姿が、時折視界に紛れ込む。

 大都会の死角に出来た黄泉の洞穴を、まじまじと見つめ、彼は唯一脳内に響いた声に目を細めた。

「暢気すぎるのではないか? 一般人なら、悲鳴を上げて気絶でもしている。こんな惨殺死体、僕だって久々に見たぞ」

 声の主に一瞥をくれ、そう呟く。

 視界に一瞬入り込んだ男は、ヒュウと口笛一つ、再びあの飄々とした声を出した。

「彼だと思うか?」

「いや。この切れ味から言って、九割九部違うだろう。見ろ。切るというより、抉っている。むしろどちらかと言うと、食い荒らしたような……」

 そこまで言って、微かに入り込んできた喧騒を前に、青年は再び脳内の音という音を全てシャットダウンした。

――五月蝿い、五月蝿い、うるさい!

  黙れよ。全員くたばっちまえ。

 不意にだんまりを決め込んだ相棒を前に、男は胸につけた勲章を煌めかせながらその場にしゃがみ込んだ。

「ん? 血以外にも何か混ざっているな……」

 躊躇いもせず、手に取った鮮血を口に含む。

 口内に生臭い悪臭が広がった。

 きっちりと着込んだ軍服が、未だ乾ききらない血溜まりに浸り、ゆっくりと染まっていく。

 立ち並ぶ倉庫群に阻まれ、沈殿していた悪臭が不意に引いた。

 おもむろに立ち上がった男が、まっすぐ視線を上げた。

「海か……」

 視線の先には、広がり続ける大海。

 口の中血生臭さにかき消され、ほんの少し感じ取れる塩臭さが、吐き出した唾と共に消えた。

「人だと思うか?」

 突如として口を開いた相棒に、軍服の男が、驚いたように振り返る。

「……違うといったら」

「霊媒師でも呼ぶ」

 堅物であるはずの相棒の口から出た言葉に、思わず出た笑い。

 唯一心許していた存在である男が笑い始めたことで、気を悪くしたのか、青年は口を貝のように紡ぐと再びだまりこくる。

「悪い悪い。安藤っちゃん、機嫌直してよォ、ね?」

 笑い混じりに頭を下げた男の前で、青年はフンと鼻を鳴らした。

 そのどこか和やかな空気を、打ち破るように、突如として背後の人の波がざわついた。

「何を言う、我々は警察だぞ! 通しなさい!」

 劈くような怒鳴り声。

「ここは、俺たち軍部の統括だ。でしゃばって来んじゃねえ!」

 別の怒鳴り声に、男は困ったように頭をかく。

……ったく……どの分隊のヤツだよ。熱くなりすぎるのは、減点ものだな……。

 軍部と警察の確執は、歴史のわりに深く、おどろおどろしい。事件現場に着いたときから、こうした自体は予想しなかったわけではないが、出来るなら避けたい事態だった。

 背後から響いてくる言い合いは、止む気配する見せない。合を煮やした男は、億劫そうに立ち上がった。

「悪いんだけどさあ、今回は譲ってくれない? ね?」

 勤めてにこやかに振り返る。

 人止めの任を担った軍人の一人に、掴みかかっていた声の主は「ああん?」とねめつけるように彼を見た。

「じゃあ、そいつは何なんだよ。帝国大の生徒は入ってよくて、何で俺たちは駄目なんだ。ええ?」

眼光の先には、未だ何か思案する様子を崩さない相方の姿。

――ああ、そうか。こいつ、学生だったのか。

よく見ると、顔立ちもどこか若く、幼さを残している。

一度口を開けば、大の大人さえ舌を巻く、その弁舌さに慣れきっていた男にとって、その事実はあまりに軽いものだった。

彼の世界には、音という概念が存在しない。

彼の中に届くのは、彼自身が利益を得られると判断したごく僅かな人間と、彼の魂に共鳴させ音を届けられる稀な能力を持つ者だけだ。漏れなく前者に入る男は、この世にそんな能力を持つ人間などいるのだろうかと視線を泳がせる。

決して振り返ろうとしない横顔に行き当たり、男は軽くため息をつく。

結局は、コイツの利害感情に上手く絡まなければ無理、ということか。事実、己を中心に世界を回している彼の整った横顔を前に、疲れたように口を開いた。

「悪いが、こいつは陸軍の特別兵なんだよね。そりゃ、社会的にゃ学生だが、立派な軍人なんだ」

 乾いた笑みを浮かべ、指で指し示す。

 しかし、その口調とは裏腹に、その目にはギラギラと光る威嚇の光があった。

「陸軍省、第五課第七分隊所属、海原哲。もし万が一にも、死にたくなったらお尋ねください。一発でしとめて差し上げますよ。ああそうだ、その折にはあなたのご要望に出来る限りお応えしましょう。何がいいですか? 絞殺、射殺、刺殺……なんでもおっしゃってください。もっとも華々しい死を演出しますよ」

 細めた猟奇的な瞳に、相手の憎悪に歪む顔が鮮やかに映りこむ。

「幸い、我々には権力という最低にして最大の武器がある。人間の一人や二人死んだところで、簡単に握りつぶせますから」

 ピクリと反応した相棒の瞳が、一瞬だけ深い藍色に見えた。

――そうだ。殺して欲しければ俺のところに来い。間違ってもこの男――安藤昇に声を届けてしまえば、楽な死など望みようも無いのだから。

 

『都内惨殺死体』

『阿修羅出現か?』

 

「殺人事件ー?」

 女将の芯のある大きな声が、店内に響く。

 その驚きように若干優越感でも抱いたのか、目の前に居る常連客の一人が、下品な笑いを浮かべた。

「そーなんだよー。警察はね、阿修羅の仕業じゃないかって言ってるらしいんだけど、軍部も出張ってきたらしいし、何か始まんのかねえ?」

 そういった口は、しきりに何かを噛み砕いている。

 阿修羅は、最近帝都を荒らしまわり、混沌に陥れている殺人鬼の名だ。美しい月の晩、丑三つ時に現れ、獲物となった人間を刃物のようなもので切断してしまうのだそうだ。その残虐な手口から、畏怖と倦厭を込めて戦いの神、阿修羅になぞらえそう呼ばれていた。

「でも阿修羅って、月夜の晩に出るんじゃなかったかねえ」

「ちげーんだなあ。確かに昨日は曇ってはいたが、一時だけ晴れたって。三丁目のおっかさんが言ってたんだよ。そん時に出たんじゃねーかって。まあ、結局細かい所は分からず仕舞いなんだけどな」

 ほおぉ……と、その場に居合わせた者たちから感嘆が漏れる。その客は、自慢げに胸を張った。

「そんなこといいから、さっさと食べちまいなよ。いつもより三十分遅れさね」

 バシンッ!

 勢いよく背を叩かれた男の口から、幾つもの米粒が吐き出された。

「きったねえなー、もう少しきれいに食えよー」

幾つもの笑い。

 朝の店内というのは、騒々しくともどこか暖かいものだ。

 ゲホゲホと苦しそうにむせ返りながらも、「うるせえよ」と返した客が、「小夜ちゃーん、茶ァおかわりー」と声をあげた。

「はーいっ!」奥から上がる声は、どこか上機嫌だ。

 忙しなく聞こえてくる厨房の音を耳にしつつ、あの名物女将が含み笑いに似た表情を浮かべた。

「まあーっ。ここに店の主がいるっていうのに、奥で手の塞がってる人間を呼ぶとはね。小夜子にとってもいい迷惑よぉ」

「そりゃま、べっぴんさんに注いでもらったほうが気も晴れるっちゅうもんよ」

 言えてる、と居合わせた客も腹を抱えて笑い出す。

「あらー、その言い草じゃあ、私が美人じゃないみたいじゃないの。これでも、ここらじゃ蝶よ花よでそだった華のお嬢様なんですから。そんなこと言う奴には、今度からサービスは無しにしようかね」

「あーもう、何言ってんのさあ。この店一番の看板娘は、女将さんに決まってるんだよぉ。長年俺たちのさみしー心を癒してくれたのは、女将さんだけだったじゃないの! 心配しなくとも、女将はいつでも皆のマドンナじゃ。だからあ……」

「嬉しいけど、そんなこと言ってもおまけはつけないからね?」

 舞台俳優並みに言ってのけた客が、女将の一言を耳にした途端、「なあーんだあ!」と、心底落ち込んだように肩を落とした。

 ここでは、お世辞一つ取っても、全ては面白さに満ちている。

 はじけた笑いの渦の中、「はいはい」と明るく返事を返しながら、片手に薬缶を提げた小夜子が、厨房へと続く暖簾から顔を覗かせる。からからと軽い足音を響かせるこの少女は、ここ数日ですっかり店の看板娘と化していた。

「あ、おれも」ついでとばかりに急いで茶を飲み干した男性客に、女将の鉄拳が飛んだ。

「自分でやりな、自分で。皆小夜が来る前までは、時間が無い時間が無いって喚いてたくせに、今じゃ遅刻してでも帰らないんだから。あー、やだやだ。こんな図体のでかい奴らに居座られて、家も商売上がったりさね」

悪びれもせず、女将が口にする。

愛らしい黒目がちな瞳を丸くして、キョトンと見つめる小夜子の手から薬缶を取ると、近場の客へと手渡した。

「もうこんな時間だろう。こっちはある程度めどがついたから、相棒に食事持って行ってやんなさい。後は私に任せて」

 周囲から、ため息に似たブーイングが上がる。

 暫く思案の色を覗かせた小夜子は、誰一人として本気で嫌がっている人間が居ないことに気づいた。

 皆、一様に笑顔なのだ。

「さあさ! こっちの心配はしないで。病人の一番の特効薬は、しっかり食べて寝ることなんだ。病人放り出してまで手伝わせようなんて思っちゃいないよ。早く行っておあげ」

 笑った女将の目じりに、独特の温かみのある笑い皺が刻まれた。

 小夜子の顔が一瞬でほころび、「ありがとうございますっ!」と応じる。

 その任を女将に渡し、再び暖簾を潜った小夜子を眺め、その場に居合わせた者は苦笑に似た笑みを浮かべた。

「女将さんもいい子拾ったなあ。気立てはいいし、ありゃ、仕込んだらいい女将になれるぞ」

「馬鹿言え。あの子には想い人がいるんだよ。それに、あんなに芯の強い子だ。どう転んだって、家の弱虫坊主に乗り換えやしないって」

「何でそう思うんだ? あんたんとこの倅も、条件的には悪い男じゃないだろうに。そりゃま、少し押しが弱いところはあるが」

「女の勘だよ」

 手にした薬缶で茶を注ぎつつ、女将が言った。

「そりゃ、家に残ってくれたほうが、私としても嬉しいんだけど、どうももう片方の方がそうは思っちゃいないようでねえ。この店に転がり込んできたときも、すぐに出発するようなことを言っていたし、きっと訳ありなんだ。分かっておあげね」

「そうか」と帰ってくる返事は、諦めに近い。

 日本の首都である東京は、近代都市として名高い。しかし、大量の技術が賑わい、繁栄の下には必ず数多の人間が存在する。

 それと同等の事情と悲しみを孕んでいるのだ。

 だからこそ、長年東京に住む彼らは、決して何があったのか聞かない。

 それが最低限の秩序。思いやりだからだ。

 自らの半身に近いであろう人物によりそう少女の姿を重い浮かべ、彼らは各々視線を宙に泳がせていた。

 家紋が鮮やかに染め抜かれた暖簾が掻き揚げられ、顔が覗く。

「母さん、そろそろ時間だから上がるよ」

 学生服に腰止めのエプロンを掛けた進が、濡れた手を布で拭いながら言う。

 その姿をまじまじと見詰め、その場に居合わせた者たちは一様にため息を吐いた。

「な……なんだよ」

「駄目ね」

「駄目ですね」

「希望もないなあ」

「すまん。フォローのしようもない」

 再び零れるため息。哀れみの目。

 コートと学生帽を手に取った進が、痺れを切らし「だから、何だって!」と叫んだ。

「何って、小夜ちゃんが、あんたに心変わりする可能性よ。どこをどう眺めてみても、あんたじゃきっと無理だわ」

 肩にかけていた鞄がずるりと落ちた。

「……は」

「だって、あんなに強い子よ? そりゃま、私とあんたの死んだ父さんみたいに力の釣り合いが丁度取れる場合もあるけどさ。はい、では順序立てて考えてみましょう。相手は、とても勝気な自立した女性です。ライバルは少し子供っぽいとは言え、同等に渡り合えるくらい気の強いヤツときた。それに対してあんたは……」

「紛うことなき、臆病者ですな。それも筋金入りの」

「いろいろな分野に博識なんだけど、恋となると急に奥手で受身になる。迷っている間に知りもしないライバルに掻っ攫われるタイプだな」

「となると、小夜が振り向く可能性は」

「皆無だね」

「あったとしても、天文学的数字になりますよ」

 呆れ顔の母親と、知った顔で合いの手を入れる客。その後ろでは、皆納得するように頷いている。

「くだらないこと言わないでよ!」

 内心の動揺を隠すように、コートを羽織り、鞄を肩からかけなおす。

「くだらなくなんかないわあ。大っ事な問題じゃない。それに、皆知ってるのよ」

「何を」

「あんたが小夜子を、好きなこと」

ガクンッ!

「な……にゃにをっ?」

突然全身を襲った衝撃に、間の抜けた声をあげる。

顔を真っ赤に染め口ごもる進の姿は、可能性の一つでしかなかった事実をゆるぎないものに変えていた。

目の前に整然と並ぶのは、呆れたような顔ばかり。

「やっぱりね……」

「だっ……っ! ち、違うよ! そんなんじゃないって。学生の本業は勉学! 勉学に励むことなんだよ。いいか、勉学とは一朝一夕にはならない過酷な山登りみたいなものなんだ。他を知り、己を知る。とっても大変で難しくて、人生ぜんっぶかけても当然な程にな。だから、色恋沙汰には興味ないっていうか、関係ないっていうか、むしろそんなことに時間を費やしている暇も無いわけで……」

「あんたね、そんなこと言ってるから、いつまで経っても彼女の一人や二人作れないのよ。結婚年齢が高くなったとはいえ、あんたの年だと、本当は結婚してもおかしくないんだからね。ほら、覚えてる? 二丁目の哲二君。この前美人なお嫁さんと結婚してたわよー。これで店も安泰だって、大旦那喜んでたっけ」

「そ……っ、それにっ、歴史的文学の主人公達って、皆気弱だったり暗い過去背負ってたり悩んでなんぼだろ。そんな壮絶な苦悩と難産の後に、歴史的名作が生まれるわけでさ。そう考えたら、俺のことなんか歴史の渦に埋もれていくちっぽけなクズみたいなもので……。それに物語として置き換えてみると、その可能性はそりゃ万に一つもないけどさ、もし、もしも、俺があの子を好きになったとして、苦労はあれど、むしろ気の強い競争相手より俺の方が最終的には勝つような気が……」

「本の虫の屁理屈ね。社会はそう上手く行かないの。あんたが読んでるエセ純文学みたいにじっと見守るような恋も傍目で見ると綺麗かもしれないけど、結局の所は影から見ながら付きまとってくる得体の知れない奴なんだからね。そりゃあそんな気味が悪い人間なんかより、直球勝負でぶつかって来た方に乙女心は傾くわ。きれい事神妙に並べただけの文学を、社会の布石として読み漁ってるあんたには分かんないだろうけど」

「おい、坊。一つ気になったんだが、もしかしてその体で恋の一つもしたことがないのか? 俺らがお前の年の時分は、そりゃもう遊びまわっていたぞ。遊郭とか行ったことないのか?」

「ぎゃーっ、変態! 不健全ですよ、そんなの。僕は、皆さんと違って優等生なんです。僕唯一の楽しみは勉強で……」

「小夜ちゃんー。悪いんだけど、ちょっと手伝って欲しいことが……」

「呼ばなくていいからあ!」

 暖簾へと声をかけた母に、思わず声を荒げる。

「勝手な思い込みで行動しないでよ! 学校、行ってくるっ!」

 追いすがる含み笑いに背を向け、真っ赤な顔のまま逃げるように店を後にする。

――ああ、もう! あの人たち、絶対俺をからかって遊んでやがるっ!

 心ばかりの腹いせに、扉を力いっぱい閉めることを忘れなかったが。

 店に残された者たちが、各々にやりと笑ったことは言うまでもない。若いというのは、こんなにも純粋で愉快なものか。

 深呼吸一つ。

 進は、落ち着いた心中に安堵し、目を上げる。

 恍惚とした雰囲気が、進の目の前一杯に広がっていた。

 青い空に、レンガの落ち着いた茶色。夜とは大違いの、活気で満ちた町並みだった。西洋の洋服と、日本古来の和服、二つの文化が秩序無くごった返すこの光景は、まるで子供の宝箱のようだ。

 カンカンカン! と威勢のいい路面電車の鐘の音。それに重なるように馬車を引く馬の蹄に、人々の喧騒。

 客引きの女の声が聞こえたかと思うと、通り過ぎる車が吐き出した大量の紫煙に、思わずむせ返ってしまった。

 目に染みる。黒く煙る視界に目を擦っていると、潤み霞む視界の中で、一瞬目を瞠った。

 進と同じ、趣のある黒いコートに、独特の学生帽。その人物は、何を見るでもなく、虚空をじっと見つめていた。

 女性から見ると、物思いにふけっていると思われるらしいその瞳は、二年前夕暮れの中で氷のように冷たく光っていたのと同じものだ。

 講堂へと続く、広く古ぼけた廊下で、散ってゆく葉の軌跡を見つめる感情を宿さない横顔を、ただ遠くから見つめていた自分がいた。歩く度悲鳴を上げる、年期の入った校舎の一角に伸びる秋の終わりの光さえ、その脳裏に鮮やかに蘇ってきた。

淡いベージュとイエロー。そして、場違いなほど鮮やかな赤色。

 儚さを含んだ景色の中で、唯一その瞳だけが冷気を持って輝いていた。

 何人も受け入れない、氷のような瞳。

 懐かしい顔を前に、進は思わず足を踏み出していた。

「安藤君!」

 二人の間を、旧式の車が横切る。

 再び襲った排気ガスの波にむせ返りながらも、進は反応を返さない安藤へと駆け寄っていった。

何度呼びかけても、全く気づく様子も無い。

初めは聞こえていないのかとも思ったが、さすがに長い沈黙に耐え切れず、その肩を叩いた。

その途端、背に走る悪寒。

反射的に振り返った安藤の瞳が、進を捉えると同時、驚愕に目を丸くした。

「あ……?」

 整った唇から、間の抜けた声が漏れる。

 永遠に揺らぐことが無いと思われていた氷が、一瞬波紋を作ったように見えた。

「久しぶり。元気だった?」

音の無い彼の体内に、珍しく声が響く。

「あ……ああ」

戸惑ったように声を出した安藤が、再び氷の瞳を取り戻す。

しかし、動かなくなった表情の奥で、安藤は、今まで経験したことが無いほどの動揺に晒されていた。

進の姿を観察するように眺め、己の心音が高鳴るのを自覚する。

――殺してしまうところだった。

 ポケットに忍ばせた拳はべっとりと湿り、握った折りたたみナイフの柄に吸い付く。

 本能に叩き込んだ殺人の技術は、彼の肉体を問答無用で動かしてしまう。

今回自己の意思で止めることが出来たのは、まさに奇跡に近かった。

 本来なら、振り返ると同時に頚動脈を掻き切っているところだ。

 汚らしい生に飽き、知っている知識を再び一から教え込まれる苦痛に、ただ絶望していた時だったか。

十を知っている安藤が一を軽くこなせることを、大人は皆、非凡だ天才だ、聖人君子だと騒ぎ立て、その美貌のため、異性からは一線を介されてきた。

 当然、同性からは妬みの的にされ、心許せるものなどいない。否、欲しいとさえ思わなかった。

 しかしそんな中、臆する事無く近付いてきたのが進だったのだ。

――別に、殺したところでどうだ。僕には関係ないじゃないか。畜生……イライラする。

 揺らぐ己の心に動揺する。

 そんな葛藤さえ上手く隠しこめているのか、進は変わることの無い笑顔を向けてきた。

「安藤君、今何をしているの? 最近、学校にも来ないけれど」

「軍……」

「軍?」

 屈託の無い黒い瞳が、続きを問うてくる。

「軍で……働いている」

「学校は?」

「上官が掛け合って、休学中……」

 ぼそぼそと喋ってしまうのは、安藤が己を保てない証拠だ。いつもそうだ。コイツといると、ペースが狂う。

「軍かあ! すごいなあ。俺なんて、二年経っても変わらず、おふくろにこき使われてるってのに」

 ケラケラと笑う。

安藤の背を、己の知らない恐怖が掠めた。

「安藤っちゃーん! こっちこっちい」

 にじみ出てきた冷や汗がツと頬を撫でたとき、聞きなれた調子のいい声が聞こえてきた。

 五車線がひしめく大通りの最奥に、一台のバンが停車していた。正規軍のマークをボディに輝かせたその車体から、一人の男性が手を振っている。

「相良室ちょーが、ちょっと司令部に顔出してほしいってー。なんかぁ、重要機密任務らしいぞー?」

海原。

そう判断するや否や、「行くから」と短く口にし、反対車線へと車の波を掻い潜り始めた。

「あ、また忙しくないときにでも、顔出しなよ。待ってるからな!」

頑なな背に向けて大きく声をかけた。

その背後から、囁くようなか細い声が笑い声と共に上がる。

『ネココ様だよ。ネココ様がいらっしゃったんだ。水間のじいさまが言っておった。唯でさえ血の臭いで息が吸えんというのに、獣臭くてかなわんと嘆いておったわ』

『本当か? 北のネココ様が、闇もないこんな場所に何用かのう? とにかくこっちに来ているのは確かなのか。ああ、よかった。それなら、俺たちももう心配は要らないということか。ネココ様ほどのお方なら、奴をきっと退治してくださる』

『おお、そうだそうだ。あの名高いネココ様がいらっしゃったとなれば、もうすぐあの得体の知れない化け物も退治されよう。しかしまあ、我々も喰われぬよう重々気をつけておかねばな』

 くすくすと、小鳥が囀るような笑い声だ。

 一瞬声の主を探して振り返った進は、たいして変わらない雑踏に首を捻った。時々こんな不思議なことがあるのだ。

『しかし、どうやら人間と一緒なのだそうだ』

『人間と? 珍しいこともあったことじゃ。昔から狐は人の家に憑いては富を増やしておったが、まさか天下のネココ様までが……。しかし何じゃ、狐は情があついからのう。面倒なことにならぬとよいが』

『そうじゃそうじゃ。わしらと人間とは不可侵が一番いいんじゃ。憑かず離れず。面倒は避けるが一番』

 しかし、構わず再び足を踏み出した進の背後で、再び小さな声が上がる。今度は小さな影がうごめいたが、気づくものはなかった。

『あの小僧、わしらの存在に気がついたかな? 何だかこちらを気にしていた』

『それでもいいよ、あいつに力は無さそうだ。それより、あっちだ。あっちのニンゲンに見つかったら大変そうだ。何だか分からないけれど、気味が悪い。同じ都にいること自体、なんとはなく恐ろしいなあ……。早く帰って長老様に報告せねば。さっさと逃げてしまおうぞ』

 小さな子猫ほどの黒い影が、二つ、安藤の背を見つめていた。

力任せにバンの扉を閉めると、にやにやと鼻につく笑みを向けられる。

「ほへー。天下の安藤様にお友達がいなさった。IQ一四〇の一匹狼、生まれつきの天才で、天涯孤独を自ら好む変わり者の安藤ちゃんでも、たまには群れたくなるもんなのかねえ」

 安藤の瞳が、威嚇の色に染まり、歪められる。

「うるさい。さっさと車出せ、この税金泥棒」

 一瞬肩をすくめた海原が、覆いかぶさるように体重を預けていたハンドルから手を離し、キーをまわした。

耳障りなエンジンの悲鳴が、吐き出される排気ガスと共に二人を包む。

 気持ちがいいほどの快晴。しかし、抜けるように青いはずの空は、度重なる工場で出された失敗作の紫煙と、通りを駆け抜ける数多の排気ガスで、どこかくすんでいるように見えた。