「信じられないかい?」

 目の前の老人が、しわに埋まった目を細めて笑った。

「信じられぬのも無理は無い。私が君と同じ立場だったなら、きっと信じていなかっただろうからね。」

 もうすでに、理解されることを望んではいないようだ。

 怪訝そうに眉を顰めた男に、老人の笑い声が心地よく響いた。

「公彦……っ、じゃなかった。おじいちゃん、お茶いかがですか?」

 衣擦れと縁側をすり足で歩く音が近付き、淡い光を通す障子に、女のシルエットが映りこんだ。

「ああ、小夜子か。いいから、とりあえず入ってきなさい。紹介しましょう」

 終わりの方は、男に向かって言われた言葉だ。眩しいばかりの春の日差しを、柔らかく包み込んでいた障子がスッと音を立てずに開き、二十ばかりの女が顔を覗かせた。

勝気そうな切れ長の目が開かれ、黒目がちな瞳が除く。白く柔らかそうな肌は真冬の雪原を思わせ、どこか人ならざる美しさを誇っている。

 小夜子と呼ばれた女は口元をほころばせ、「始めまして」と頭を下げた。

「小夜子。彼は、東京の大学の偉い物理学者さんだそうだ。ほら、この間来たゴシップ記者の佐野さん。彼の友人らしい」

 口を閉めることさえ忘れ、惚けていた男が気づいたように頭を下げる。

「物理学者っていうと……」

「ああ。私たちのことも知っている。気にすることはないよ。」

 床から上体だけを起した老人が、つぶれたようなしわがれ声で言い、笑った。

 その時、奥の間から赤ん坊の泣き声が。

「あらあら、大変。善ちゃん、起きちゃったかしら。ゆっくししていってくださいね。少し騒がしいかもしれませんけど」

 駆けてゆく足音が少しずつ小さくなり、再び温かい陽射しが、白んだ室内に差し込んでくる。別世界のように輝く外の世界が、少しばかり引かれた障子の向こう側に覗いていた。

 狂ったように美しく舞い散る大木の桜が、まるで黄泉の入り口のようで、異様な雰囲気を孕んでいた。

 まるで、病室のようだと男は思う。

 あまりに白く冷え切った室内は、生の発する輝きに飢えている。要入院の重病患者でありながら、断固として自宅療養を選んだ老人には、ぴったりの死に場所なのかもしれない。

 悟りきった目は、そういうことなのだろう。

「小夜子はね。一度死んだんですよ。戦争で」

 はらりはらりと儚く舞い散る桜を目に移しながら、老人は静かに口を開いた。

「私が死んだことにした。アレは、我々とは時間軸がちがう。歳の取り方が違うんだ。さすがに怪しまれるだろう、と思った。容姿を進退させることは出来るが、相当な危険を伴ってしまう。だから一旦、『小夜子』というニンゲンに死を与えることで、歴史の均衡を保った」

日本家屋は、驚くほどよく声が通る。

赤子の鳴き声はすでに消えていたが、代わりに台所から甘い味噌の香りと、微かな包丁の音が聞こえ始める。昔は何処の家にもあったのだろう空気を、静かに吐き出される老人の声が引き立てていた。

「今、君が会ったのは実質上、二代目の小夜子ということになっている。一旦死んだことにした小夜子に、たった一回、容姿を変えさせ、別人として連れてきた。息子たちは皆、驚いていたよ。なんと言っても、自分の母に瓜二つだったんだ。けれど、あまり不思議がりはしなかった。戦後の混乱期だったからね。孤児だったというと、皆快く受け入れてくれたよ。『親父は、母さんに似ていたから見捨てられなかったのだ』とね」

 微かに笑い声を上げた老人が、思わず咳き込んだ。病状は、思わしくないようだ。

 玄関から、軽い足音と「ただいまーっ!」という威勢のいい声が響いてくる。どうやら、彼のひ孫の一人が帰ってきたようだ。

「ああ、修! 手ェ、洗って。サヤインゲン、剥くの手伝ってよ」

 小夜子の声が飛ぶ。「えーっ?」と帰ってきた高めの声は、渋々ながらも応じたようだった。

 たしかあの子は、春休みの間、滞在している彼の次男の息子と言っていたっけ。

 パタパタと駆けてくる音と共に、再び縁側に小夜子の姿が覗く。

「おじいちゃん、ここで下ごしらえしてもいいですか? 温かいので」

 手には小振りの笊と、鮮やかな緑。

 その足元で、見知らぬ人間に少し萎縮しているのか、小さな子供が隠れるように立っていた。

 老人が、静かに頷く。

 日の当たる一角に腰を下ろした少年に笊を渡し、小夜子は一抱えもある大きなゆりかごを傍らに置いた。

 中から、ふっくらとした小さな手が、力いっぱい伸ばされる。先ほど鳴いていた赤子だろう。

 腰を下ろした小夜子の膝に、当然のように少年が座る。都会のコンクリートで固められた風景しか知らない男には、その光景はまるで夢物語のようだ。

「両方とも、私の息子兄弟の孫です。大きいほうを修、小さいのを善と言います。修は次男の、善は長男の血筋になります。と言っても、『善』という名は、殆ど使うことも無いでしょうが……」

 少年の指が、赤子の小さな手にしかと握られる。その小さな繋がりを、淡い薄桃色の花弁が際立たせていた。

「初めて小夜子と出会ったとき、あの子は私に言いました。『人間は、あまりに脆く弱い。自分が触れてしまうと、壊してしまいそうで怖いんだ』とね。世界は恐ろしい速度で変わってゆきます。あれだけ邪険にされた私のこの片目も、国が完全に開かれた後は、一瞬の驚きを残すだけです。汚れたものとして排斥された私と、人間という存在に怯えていた小夜子が今、共に生きておるのです。不思議じゃありませんか。それに比べたら、差別なんて、もっと単純なはずなんです。お互い、同じ人間なんですから」

 おっとりとした言葉は、温かい春の日に溶けて消える。

 男はとっくに、この怪異を解き明かそうと言う気をなくしていた。人に分からないことがあったとしてもいい。この人々は、幸せを保っているのだ。それでいいじゃないか。

 ゆっくりと瞬きをした男が、微笑を浮かべる。

「今日はどうもありがとうございます。科学者としてではなく、一人間の、僕という存在として面白いお話でした。あまりご負担をかけるのはいけませんので、私はこれにて失礼させていただきます。お体には、十分お気をつけて」

 差し出した手を、ゴツゴツとしたしわだらけの手が握り返す。硬く、かさつく肌は、彼が負ってきた苦労の全てだ。

「大丈夫、自分の死期くらい悟っていますよ。あの善が一人前の坊主になるまでは、這い蹲ってでも生きなければならん身です。ああ、もし再び近くをお通りになることがあれば、どうぞお顔をお出しください。喜んで迎えますよ」

 丁重に部屋を辞し、温かい生溢れる縁側へと足を踏み出す。背後でかすかにむせ返る、苦しそうな吐息が伝わってきた。

 不意に浮かんだ疑問に、目の前に腰を下ろした女性へと目を移す。

 彼女は男に構う事無く、楽しげに鼻歌を歌いつつ、傍らの子供たちに慈愛の目を向けていた。

「一つ、聞いてもいいですか?」

 不意に上がったその声に、不思議そうに丸い目が見つめてきた。

「何故、そこまでして彼に尽くすのですか。話を聞いている限り、あなたと彼の契約というものは、効力が薄いようだ。逃げようと思えば逃げ出せたはずです。むしろ、そのほうが偽装工作を行う必要もなく、あなたも自由に生きられたでしょうに……」

 真っ直ぐに見つめてくる瞳は、舞い散る桜の花の色を映し、僅かに薄桃色だ。

 彼女は一瞬驚いたように目を見開いたが、すぐさま微笑を取り戻し、手元へと視線を落とした。

「まさか、現実主義の科学者さんが、あの話を信じるとは思いませんでしたわ」

「信じる信じないとは別の話です。僕、個人として興味がある。それだけです」

「そう。それなら教えて差し上げましょう。あなたは、一つだけ勘違いをしていらっしゃいます」

「勘違い……?」

 うぐいすが鳴く。その視線の先には、切り崩された山々の光景が広がっていた。

 清々しい風が頬を撫で、絶えることの無い日の光を届けていく。

「ええ。あなたは、私への拘束力が少ないとおっしゃった。確かにそうです。私と公彦の契約は殆ど効力を持たないと言ってもいい。逆らおうと思えば、殺せたし、逃げられたでしょう。けれど、そうはならなかった。何故だと?」

 男の瞳が揺らぐ。その反応に満足したかのように微笑んだ彼女は、美しい純白の布が覗くゆりかごから、小さな子供を抱き上げて頬を寄せた。

 僅かに赤みを帯びたその手が、小夜子の頬に添えられた。

「どうにもならないものって、あるんですよ。力があっても、どうにもならないものが。あなた結婚なさっていないでしょう。子供が出来たら、きっと思いますよ。『ああ、自分はこの子を愛するために生まれてきたんだ』って」

 小夜子は、「この子達に比べたら、公彦に対して感じていたものなんて、愛じゃなかったんですねえ」と皮肉っぽく笑った。

 足元を、何か黒い物体が通り過ぎるような気配が感じられる。かすかな笑い声も耳に届いた。

 淡いピンクの光が、美しく辺りを照らし出す。白昼夢さえ、ここまで優しくはないだろう。

 散っていく桜が、音を立て、幻想の色を作る。きっと、どんな画家でもこの色は出せない。

 あの老人はもしも己の死後、同じ力を持つ人間が現れたら、どんな風景を描かせるのだろうか。

 すっかり遠い存在となってしまった彼の部屋を一瞥し、長い年月を耐え抜いてきたもうひとりの先人に、深々と頭を下げた。

 

 薄暗い、夜の帳も織り始めた蒸し暑い夜。

 その人物は、青白い身を殆ど闇に溶け込ませ、静かに笑っていた。

 伽羅。

 半妖、半人にして、長い年月を闇と静寂のなかで過ごしてきた人物。

傍らには、唯一の肉親である紗羅が、あの時と同じ、目の覚めるような赤い軍服を着込み、立っていた。いささかくすんだように見えるのは、あの後も血が滲みすぎた結果だろう。

結局、どう取り繕っても彼らは人の負から生まれた存在であり、悲しみや憎しみ、多くの血と死をもってしか生きられない者なのだ。

 瞼を閉じていた伽羅が、不意にその美しい瞳孔をあらわにする。瞳は、あの日と同じく燃えるように赤かった。

 ガラス細工のように華奢な手が差し出される。アンティークなのか、細かい細工の施された鳥かごの中、小さな淡い光が、辺りを照らし出した。

 その光に呼応するように一匹の蝶が舞い、その手で羽を休めた。

 伽羅の瞳が、笑みの形に細められる。血のように赤い唇が開き、しっとりと言葉を紡ぎ始めた。

「やあ、久しいな少年。どうだ、絶望の味は。責めることも出来ないのは辛い? それとも、悔しい? どっちにしろ、諦めるしかないだろう。なにせ、自らの息の根を止めるのは、過去の己なのだから。けれど、安心しろ。子供のお前は、ちゃんとあっちに飛ばしてやる。お前の無念を使ってな」

 いかにも楽しげに笑い始めた伽羅に、紗羅のいぶかしむ目が向けられた。

「何故、彼にそこまで固執するのですか。そこまで手を貸す必要もないでしょうに……」

「そうだな。しかし、私は過去、彼らのおかげで街に充満する最高の恐怖を手に入れたのだ。人助け、というよりはむしろ、過去の自分への贈り物だな。

おっと……忘れるところだった。お前を消す前に一つ、しなければならないことがあったんだ」

 逃げることすら敵わなくなった蝶に、手を翳す。淡い光が浮かび上がり、美しい文様が崩れるように溶け始めた。

 伽羅の身を光の蛇が舐め、姿を変えていく。最後の一つ。パズルが組みあがるように体に染み渡ったDNAの一端が、彼女の体を舞ったく別のものに作り変えていた。

「ほう、これがお前の可能性か。ありがたく頂戴するとしよう」

 己の姿を確かめながら、伽羅が呟いた。

 これが、小夜子との違い。彼女が長く世の表や裏に君臨してきた訳だ。

 肉体を失ったものの魂から、記憶されているDNAを取り出し、今現在保有する肉体の遺伝子と混ぜる。一人として同じ者のない、未来の一可能性を生み出す。

 不意に、鳥かごの中の篝火が、輝きを和らげる。照らし出された籠の一端が、鱗のように微妙な陰影で彩られていた。

 それに気づいた伽羅が、再び喜びに目を輝かせた。

「ああ、やっと抵抗することもやめたか。どうだ? 己の愛する者の死は。なあ、小夜子。あの忌々しい白大蛇から作られた牢獄では、手も足も出まい」

 力なく輝く蛍に問う。しかしそれはもう、心さえ失くしたように、決して答えることはなかった。捉えられて尚、あれほど抵抗を試みていたものが、だ。

 満足げに笑う自分の源を見つめながら、紗羅はこっそりとため息を吐いた。

――こんどは、男か。

 自分の親とは言え、彼のもとの姿など、当の昔に忘れてしまった。

 まあいい。

我々は愚かな人間ではないのだ。くだらないことに固執するつもりもない。

「また戦争は起こるでしょうか。太平洋戦争は上手く工作しましたが、こうも平和だと、むしろ不快です」

 呟くように口を開くと、振り返った男が笑った。

「当たり前だ。人間は愚かな存在なのだから、再び起すに決まっている。それにこの世だ! おまえは平和だと言うが、本来はそうではない。むしろ世界は悪くなっていると言っていい。死人は出にくくなったが、その分生の悲しみは倍増した。ネオンによって闇と隔絶され、その穢れから妖怪が住めなくなったこの世は、むしろ我々にとって最高の世だ。元々、ごく稀に存在する『見える』人間に見つけてもらわねば存在できない完全な魔とは違い、僅かながらも混ざりこんだ人間の血によって、我々は生きているだけで自分の存在を定義できる。徹底した個人主義によって人の心が荒み、憎しみで染まることで満たされる我々は、どんなに人間妖魔双方に住みにくい世になったとしても、生きてゆけるのだ」

 狂ったように笑うその姿を目にしても、紗羅は何の感情も抱かなかった。

 それが二人の全てだから。

「……食事……」

 引き結ばれた唇が、かすかにそう紡ぐ。

「腹が減りました」

 滾々と湧き出る絶望と生命力を渇望する己を何とか押し留め、傍らの背にそう声をかける。

 その声に「ああ」と投じた伽羅が、開いていた時空の門を閉じた。

「そうだな、好きなだけ狩って来い。ただし今の世は、いろいろと面倒くさくてな。私が再び国の上層部に食い込めるまでは、上手く偽装工作をしろよ」

 異様なほど、靴音がよく響く。

 薄っすらと白み始めた空の一角へと足を向けた伽羅の背を、紗羅が追った。

 ふと、一度だけ背後を振り返り眉を顰めたが、すぐさま大きな鞄を片手に狂気の夜を抜け出していった。

 

 今でも、時々思うことがあるんだ。

 あの日、手にかけた老人は、自分が死ぬことを分かっていたんじゃないかって。

 そして――自らの愛する者が、人間以外の何かであるということも……。