やはりこの歳まで生きると、それなりに密度のある人生が歩めるものである。

老人の戯言と思って聞いてもらいたい。

 私の家は、古風な日本家屋であった。同級生は真新しいマンションに住み、テレビゲームを持つそんな時代だ。

聳え立つ高層ビルの一角にたっていたその家は、庭には大きな桜の木が植えられ、春には狂ったように淡い桃色の花弁が舞い踊りながら散っていく。私の家は、まるで進み行く時代に取り残されたように、ただ静かに存在していたんだ。

 現代のようだって? そうだな。私は取り残された現代っ子だった。幼い頃から同級生とは遊ばず、皆が家の中でゲームソフトに夢中になっていたとき、私は一人で街を駆け回っては喪中の家を探したものだ。だからこそ、殆ど先端機器というものに触れる機会もなかったのだが。

 おっと話が逸れたな。私には不思議な力があった。死霊の魂が食えるのだ。死霊の中でも一部の、この世に残されてしまった未練という魂の一部と、俗に『悪鬼』と呼ばれる類のものを。

 私が人ではないとお思いか? そうかもしれんな。小さい頃から、なにか不思議な物を見ては大人にすがり付いていた。しかし両親は何も見ることの出来ない確かな人間であったから、もしかすると過去に何らかの血が混ざりこんでいたのかもしれん。今になっては確かめようのないことだ。

 さて、そんな奇妙な子であった私の前に、あるときから「あるもの」が現れるようになった。その姿は薄ぼんやりとしていたが、男女の区別さえつかない美しさを宿していた。むしろ、どこか淫靡ささえ漂っていたように思う。そんな人物だ。

 名も知らぬゆえ、あえてここでは「彼」と呼ばせてもらおう。彼は月の美しい夜に限って現れ、私の耳元に同じ言葉を囁きかけるのだ。

――あの老人を殺せ、と。

 そうすれば、お前の望むあの世と繋げることが出来る――と。

 私には、彼の言う老人に心当たりがあった。私には、ほぼ寝たきりの曾祖父がいたのだ。同じ家に居るというのに、殆ど顔さえ見たことがない。

もし曾祖父の葬式に出ることができたなら、彼がどれほど長い人生を歩んできたかくらいは分かっただろうが、当時の私にはそれも叶わなかった。

 老人はまるで私の奇行を知っていたかのように死を一瞬にして受け入れたのだ。老人の喉は、小枝のように細かった。くっと一息、息を詰めると、何十年もの間拍動を打ち続けた彼の古びた命は急速に冷え、死という混沌の氷河へと沈んでいった。

 その後? さあ……私の記憶はそこで終わりだからなあ。おそらくこの後、私の命も終わったのだろう。等価のようなものだな。

 何故「現代っ子」で「若くして死んだ」私が、老人となり君の目の前にいるかって?

 それを知るにはもう少し時間が必要なようだ。

不思議がるだろうが、この後の記憶を話すとしようか……。

 

 いかに都会であっても、さすがにここまで遅い時間となると、このあたりも殆ど人気がなくなる。

昼間多くの人でごった返すこの大通りも、今はたださびしく街灯の明かりがさざめいているだけである。

時折表を通り過ぎる馬車の音だけが、唯一進の耳に届くものだった。

 林進の家は、江戸時代からこの地に飲食店を構える名家である。大正の世となった今も、味の良さと一家の人柄でそれなりに繁盛していた。

 さて、夜の大客入りの時間も嵐のように過ぎ去り、すでに閉めてしまった店内で後片付けに精を出していた進が、不意に忙しく動かしていた手を止めた。

何か得体の知れない不安がふつふつと湧き上がり、胸中を満たしていく。進は一瞬だけ締め切られた戸へと目を移したが、すぐさま弱い自分を振り払うように首を振った。

 進は、林家唯一の子である。しかし大切な跡取りでも、妥協を知らない彼の両親は、若い彼を遠慮なく店に出し、こき使い、鍛えていた。

そんなこんなで今日も変わらず、後片付けを行っていたのだ。

 再び手を動かし始めた進の背に、母親の声がかかる。その声へと「やってるよ!」といらだたしげに返した進の耳に、ゴトンっと何かが落下するような鈍い音が届いた。

視線の先にはきっちりと閉められた表戸。

 なんだろう? むずがゆいほどに騒ぐ心を押し込め、進は音源をじっと直視していた。するとまた、コンっと戸口に何かが当たる音。

 びくりと身を縮めた進の前で、あの戸は決して開こうとはしなかった。そのかわりに、カリカリと戸口を引っかく音と、「夜分申し訳ありません」という小さな声が聞こえてきた。

ほっと胸をなでおろした進が「はい、今開けます」と手にしたバケツを床に下ろす。

古くから街道に位置するこの店は、稀に僧侶や産婆が休息をかねて訪ねてくることがあるのだ。

 すっかり軍部によって統治されたこの街では、夜盗は殆どいないに等しい。その代わりと言っては取り締まっている軍部が大きな顔をして怒鳴り込んでくることがあった。

 無礼な軍部関係者を警戒していたが、か細く流れてくる声は、明らかに女のものでその心配もなさそうだ。

 相手を安心させるように返事を返しながら、旧式の鍵を手馴れた様子で開けると、ゴトンという音と共に蒸気のような生暖かい風が、室内に吹き込んできた。

 どこか獣の臭いがする風に顔を顰め、意を決して外を覗き込む。

「どなたでしょうか」

微かな街灯に彩られた二人の人影が、濃度の高い闇に浮かんでいた。黒々とした影が地面に長く伸び、ある種の異様さを放っている。

地に身を横たえる男の上体をすがるように支えていた女が、弾かれたように顔を上げた。

「助けてください!」

 目には大粒の涙が、今にも零れそうなほどに溜まっている。

 冷たい夜気の中、赤黒く染まった着物。その美しい布地を斑に染める傷口を目で追い、絶句した。

 すらりと伸びた腕に支えられた男の着衣はズタズタに裂け、ぱっくりと口を開く傷口が垣間見える。

 地に垂れた二本の腕には血の気が無く、血に染まった紙切れと、不気味な血の紋様がいたるところに散乱していた。

 すがるような瞳に、慌てて店内へと飛び込む。足元にあったバケツに足を取られながらも、「母さん、医者!」と叫んでいた。

 

「いやー、大変な傷でしたが、適切な応急処置のおかげで、大事にならずに済みそうですわ。一週間かそこそこで動けるようになるでしょう。完治するには……そう、一ヶ月くらい見たほうがいいかもしれません。それにしても、よかったですなあ、お嬢さん。女将さんに感謝せにゃあ。お連れさんが助かったんは、きっと女将さんのおかげでっせ」

 ぬるま湯の溜められた桶で手を洗いながら、丸眼鏡の医師が呟いた。

 その隣には、布団の中、包帯やガーゼで固められた男と、今にも泣き出しそうに笑う女の姿がある。

 明るい電灯の下で寄り添う二人は、どちらもまだ十代後半ほどに見えた。

 自分と同じか、少し下くらいだろうか。

 そう思ったとき、背後から聞きなれた声がケラケラと笑った。

「ゲンさん、あんまりおだてないでよ。どうせ何も出ないんだからさ」

 この店『華北』の名物女将である母、キヌヨだ。

 普段から抜け目無く仕事をこなし、進の尻を叩く彼女は、おろおろと混乱し何も手につかなかった息子に代わり、負傷者へと応急処置を施した人物である。

「それもそうですなあ」と笑い半分、濡れた手を拭き終えた医師が、手元にある鞄を手に取った。

「ほな、わては帰らしてもらいますわ。何かありましたら、すぐ知らせて下さい。真っ先に飛んできますよって。たまに顔見に来ますから、安心してください。あ、こまめにガーゼやら変えるんは、忘れんといてな」

 元々、流れの医師だったらしい初老の男は、どこのものとも判別がつかい独特の口調でそう言い、のそりと立ち上がる。きしっと畳が小さく音を立て、女将が「ありがとね」と声をかけた。

 住み込みの店員がその背を追い、部屋から出て行くと、鼻をすする微かな音が狭い室内に響き渡った。

 涙を拭った女がこちらへと向き直る。薄っすらと赤みを帯びた目元に、知らずドキリと胸が高鳴った。

「助けていただいて、本当にありがとうございます。何とお礼を申し上げればよいか……」

 きっちりと手をついた女が、深々と頭を下げる。その姿のあまりの美しさに、進の背筋もぴんと伸びた。

「困ったときはお互い様だ、気にすることは無いさ。それよりあんたたち、何処から来たんだい? 見慣れない格好だけど」

 一瞬考えるように視線をさ迷わせた女が、顔を上げ、上目遣いに二人の姿を見た。

 背後に横たわる男が、苦しげに呻く。

「私の名は小夜子と申します。こちらは、公彦。北の……ある集落で暮らしておりました」

「じゃあ何故、追われているんだい?」

 僅かに俯いた女が、意を決したように口を開く。

 しかし、弱々しげに伸ばされたた手が、その動きを制した。傷から来る熱にうなされつつも、力強い目を開いた男が、荒い息を堪え、首を横に振った。片方の瞳に予想外の色が浮かぶ。

「俺は見ての通り、昔で言う鬼児です。いかに港の門が開いたとはいえ、我々に対する弾圧は未だすさまじい。一時の気まぐれで、店の信用は地に落ちますよ。その覚悟が無いのなら、今すぐ追い出してくれて構わない」

「公彦さんっ!」

 金の片目が、明らか敵意を持って煌めく。

 傍らに腰を下ろす小夜子が思わず声を荒げ、目を細めると、毒気を抜かれたのかフンと鼻を鳴らし、再び布団に包まった。

「すみません。あの……助けていただいた上にこんなお願いをするのは気が引けるのですが……あの……公彦さんの傷が癒えるまででいいので、ここにおいてもらえないでしょうか。お店もお手伝いしますし、精一杯頑張りますから……」

 穢れの無い液体がたたみの上に落ち、じわりと滲む。

 うわ。うわわ。

 意図せず胸中がじんわりと温かくなる。

 な……っ! なんなんだよ俺。あー……もしかして、これが世に言う恋とか言うアレか……?

 いや、でも相手は男が……あ、でももしかすると兄妹とか……従兄妹かも……!

 胸に過ぎった不安を打ち消すように、幾つも浮かび上がる無意味な言い訳。自問自答を繰り返す己の奇行に気づいた進が、呆れたように見つめる母の視線に青ざめた。

「あ……っ、で、でも困ってるときはお互い様だし……! ちょ、丁度一人辞めちゃったトコだし……」

 後頭部に鈍い痛みが走る。

 いつもと同じように飛んできた平手が、小気味良い音を立て、進の頭を叩いた。

目の前がぐらりと揺らぎ、一瞬白んだ視界に星が飛ぶ。

「い……っ!」

 涙目でその出元を睨み付けると、その黒い瞳はどこか別の場所に向けられていた。

 目の前の少女が、僅かばかり首をかしげる。

 じりじりと痛みを訴える頭を擦りながら、間が悪くなり視線をそらした。

 にっこりと微笑んだ母親は、何事にも動じない女性独特の強さを持っている。その強い視線が、守るべきものを持つ少女へと注がれていた。

「……仕方ないねえ。どうせその体じゃ、放り出すもなにも無いさ。馬鹿息子が言ったとおり、人手も減って、困っていたところなんだ。……しっかりと働いてくれるんだね」

 少女に失われた笑みが戻る。

「ありがとうございますっ!」と言葉紡がれた背後で、微かに「ちっ」と舌打ちの音。

 思わずムッと顔を顰めたが、少女が笑みに僅か怒りを含ませ、その背を殴ったことで口を開くのを止めた。

 息を詰める音と、むせ返る声。

 折れたアバラが痛んだのだろうか、公彦と呼ばれる少年が呻いた。

 あれ? 今の光景って……。

 どこかで聞いたフレーズが脳裏に過ぎる。

『子は、結婚相手を選ぶ時、どこか親と似た人物を選びやすい』

 …………え?

 俺が小夜子さん(だっけ?)に恋してるって事は、もしかして……。

 突如ケラケラと通る笑い声が上がる。

「いやー、いつまでも泣いてるんで、どんな弱っちい娘っ子かと思ったが、重病人にそこまでできるとは、結構肝の据わった子だねえ!」

「あら。役立たずは所詮、どう転んだって役立たずですから。とにかく、公彦さんはしっかり休んで。何もできないひとは大人しく病人やっててくれれば、私も納得できるし。ちゃんと治るまでは私が頑張りますから」

 小夜子の背後に横たわる公彦が、ふて腐れたようにそっぽを向く。

 あ……もしかして、いや、もしかしなくとも母さんと同じタイプ……?

 何も言い返すことが出来ず、子供のように行動で示すしかない公彦を見つめ、進は初めてこの目の前の少年に同情の感を覚えた。

 どうと言った根拠は無かったが、親近感に似た哀れみがその瞳に宿っていた。