:過去よ、笑いかけておくれ:

 

 

鼻に届くのは、硝煙の燻る異臭。人々が恐怖さえ覚えるはずのその臭いさえ、図中で慣れきってしまった矢萩にとってはなんでもないものだった。

飛那火訓練。

 「TWD」が組織されて初にして最大の訓練だ。島民には不発弾の発見と称し、退かせたこの島で、対テロ用の壮大な訓練が行われたのは肌寒ささえ感じ始めた秋の終わりだった。

 陣営は二つ。テロリスト役の少数精鋭部隊に対し、二、三年の訓練をつんだ「TWD」メンバー。建物さえそのままのこの舞台で、当初一日程度で終わると思われていたこの巨大訓練も、テロリスト側の突如とした攻勢ですでに五日を費やしていた。カラーマーカー弾の装填された銃に視線を落とし、矢萩は今の状況を頭に並べていった。

 今現在、自分が属する集団の戦力は三人。そのうち一人は足を負傷し、一人とは完全にはぐれてしまった。彼らは戦力として数えない方が良さそうだ。

 手元にある武器は、煙幕弾が二つと銃が二丁。装填されたマーカー弾が五発だ。これで、残り十人近くを倒さねばならない。

 自分の肩に乗った重圧に耐えかね、微かにため息を漏らした。

 テロリスト側の指揮権をゆだねられた矢萩にとって最も有効な武器は、幼い頃の記憶に刻まれた地の利だけだ。

 仲間が次々倒される光景を横目に、ようやく自ら立ち上がったのが訓練二日目のことだ。

拠点として利用している廃屋病棟の柱に体重を預け、静かに目を閉じる。遠くで小さな破裂音と、近付いてくる駆け足音が風の音とともに耳に届く。やっと来た次の獲物を前に、矢萩は口元を微かに上げ、すっと影に身を隠した。

 倒壊し、進入を防ぐ太い柱を軽々と飛び越え、一人の人間が草の生える中庭へと姿を現す。視線と連動した銃口が四方を警戒し、忙しなく動いた。

 さくさくと背の低い草を踏みしだく音。重装備の戦闘服で身を包んだ一人の女が凛とした緊張感を発していた。

 「誰もいない……?」

 眉を顰め、訝しげに銃口を下ろすと、その視線が直前まで矢萩の居た柱の影へと移動する。彼女は驚いたように目を見開くと、手にした銃のストラップを肩からかけなおし、横たわる一つの影へと駆け寄っていった。

 「無事ですか、警部!」

 両腕両足を拘束され、力なく横たわっていた男が、埃にまみれた瞼を開く。彼もしばし驚いたようだったが、彼女の姿を見るなり、噛まされた猿轡も気にせず何か言いたげに唸った。

 「少し我慢してください。今外しますから」

 作業がしやすいよう銃を背へとまわした向坂の背後を、和泉と呼ばれた青年が畏怖の目で見つめる。ふっとかかった影を目に反射的に振り返った女の額に、固い銃口が突きつけられた。

 「油断大敵だよ。お嬢さん」

 太陽を背に見下ろした矢萩の目を、ひるみもせずに女がにらみつける。その視線には、彼女独特の幼げで気の強そうな光が灯っていた。

形勢は一目瞭然。たしか、向坂瑞穂とかいったか。こいつは鍛えれば実践で使えそうだ、と内心ほくそ笑み、矢萩は未来の部下を眼下に見据えていた。

 ゆっくりと瞼を閉じ、再び開く。

 ぞくりと走る悪寒とともに現れたのは、ごうごうと燃え盛る紅蓮に染められた風景だった。心臓が一つ、大きく心拍をうち、第三者と化した矢萩の体温をいくらか上げていった。

 どこかで「ああ、夢か」と自嘲気味に笑う自分を感じながら、刻み込まれた恐怖に素直に従ってしまう己から目を背ける。血に似た朱色を煌めかせる劫火の中に、二人の人影が先ほどと変わらず存在を浮き立たせていた。

 先ほど手にしていたマーカーのような玩具ではない、確実に人を殺す凶器として虚ろに照らし出された銃口が、向坂と同じように座り込んだ人物の額を、しっかりと捕らえていた。

 『あれは、俺か』

 強大な武力に屈するように描き出された人影を目に、そんな思いが胸を刺す。「そういうことか」と小さく呟いた途端、今まで不鮮明だった光景が波が引くようにクリアになる。

 急に肉体に引き戻され、今まで他人事として眺めていた男の顔を黒々とした銃口と同時に視界に捉る。矢萩は目の前、黒く影のかかった猟奇的な瞳を見つめた。

 『彼』がよく身に着けていた漆黒の戦闘服には、いくつも不自然なふくらみが生じ、何ももたない矢萩との戦力差を痛切に教えていた。

 かすかに照らし出された口元が、僅かに歪む。狂喜に染められた男の影を前に、矢萩は苦笑に近い声を漏らした。

 「秋口……(みつ)(のり)……

 現在、『キララ』と呼ばれる彼の、裏切り者に対する復讐劇……。今に現実となるであろう末路を見る気にはなれず、諦めたようにっゆっくりと目を閉じていく。真っ暗に染められた頭の奥底で、鎮魂歌のようにアメージング・グレースが聞こえてくる。神に祈るとはこんなものか、と無神論者である矢萩の内部で、歌は響き続ける。

 痛みも感覚すらもない。現実も、こうだと救われるのだろうに。

 全てのものから隔絶され、鍵のかけられた心の中へと、乾いた破裂音が木霊した。

 どくりと自らの心臓が高鳴る奇妙な音を聞く。同時に勢いよく瞼を上げた視界には、見慣れた暗い室内の光景が屈折されて映りこんでいた。

 ずきずきと痛む頭を重たげに持ち上げ、ひやりと冷気を放つ壁へと凭れさせる。ゆっくりと感覚の戻っていく手先には、べっとりと汗が滲んでいた。六年の時間をかけて、作り上げてきたものに一気に歪が出来る。いまだ忘れることの出来ない生々しいまでの感覚を思い出し、矢萩は思わずきつく目を閉じた。

 これ以上、俺たちに何を求めるんだ。

 もう十分だろう? これ以上、この手から奪わないでくれ……!

 行き場のない不安を胸に、握り締めたこぶしを壁へと叩きつけた。じわりと伝わってくる痛みを感じながら、子供がするように体を丸める。襲ってくる恐怖を堪えていると、小さな音を立てて扉が開く。

 かすかに廊下から漏れ出してくる光。不安気に覗き込んできたのは、あの幼げな少女の瞳だった。

 「花火……」

 起したか? と呟くと、かすかに首を横に振る。『起きてた』と紡がれた唇を読み取る。長い経験の中で身についた読唇術のおかげで、気兼ねする事無くコミュニケーションを取れるのは、消し去りたい過去の中でも唯一の救いだった。

 明かりをつけようとした花火を制し、痛みを訴える拳へと視線を落とす。静かに添えられた手が赤く痛む傷口をなぞり、少女が整った眉を顰めた。

 『痛そう』

 咎める目を向けた少女を前に、伏せた目を上げる。純粋無垢な双眸が、その視線を受け止める。「なあ、花火」と紡がれた声を耳にし、花火がかすかに首を傾げる。

 「俺は今生きているか? ちゃんと人間として存在しているか……?」

 痛む手で目頭を押さえると、手を取った花火が不安げに覗き込む。

 『嫌な夢、見たの?』

 「……ああ。秋口のな」

 花火にとっても久しく耳にしなかった名。その奇妙な響きを前に、花火も同じ思いに辿り着いたらしい。

 やらなければ、やられる。

 その場所では当たり前だった法則。きっと彼は、秋口はやってくる。首輪から逃れた矢萩と、矢萩の持つアレを取り戻すために。

 「秋口のことだ。俺を殺すかもしれないし、国家から見捨てられた俺を再び仲間に取り込もうとするかもしれない。……どちらにしろ、良い結果はないと思っていいだろうな」

 どちらにしろ、今の生活は望めない。矢萩にしろ、花火にしろ。

 『怖い?』

 不意に動いた花火の唇が、そう告げる。悲しげに笑い「年甲斐もないな」と漏らした矢萩の手を握り締め、少女は苦しげに口を動かした。

 『コウスケは私が守ってあげる。だから、大丈夫。大丈夫だから』

 矢萩の二分の一にも満たない少女の祈りに似た言葉が、矢萩の胸に響いた。

俺は、何をやっているんだろう。四十になっても、こんな子供の影に隠れなければ生きることが出来ないのか? 「TWD」の時もそうだ。俺は、自分のためだけに逃げた。後に残されたものたちに全てを押し付けて、餓鬼のように逃げたんだ。あの日、初めてあの部屋から連れ出された日から、一歩も進歩しない、成長しない精神。結局俺は、何も自分で義務を果たしてはいないんじゃないか?

伏せた目を上げた花火が、ぎこちなく笑みを浮かべた。そうだ。今の俺には、この子が居る。この子を守るのが俺の義務じゃないのか? そのために、手にしたもの全てをかなぐり捨てたのではなかったか……。

 「そうだな……何とかするしかないな……」

 消え入るような声で呟くと、目の前の少女へと手を差し伸べた。

 

 

2006,8