:負け犬達の再会:

 

 

 スコールに近い突然の雨雲が飛那火の空を覆いつくし、バケツをひっくり返したような雨粒が地上へと降り注ぐ。その眺めは殆ど滝と表現して差し支えなかった。窓を轟々と打ちつける水の奔流を見ながら、向坂は濡れた傘を閉じた。背後では、スーツまで濡れてしまった名畑が大急ぎで扉を閉めている。普段ならいくらかの人間が居場所を持っているこの店にも、今日に限っては人影もなかった。

 店の中心に陣取り、足を組んで机に向かう矢萩が、「貴方たちも懲りないな」と視線も上げずに呟いた。手元に広げられた冊子類には、所狭しと数式が書き込まれ、隣には電卓の前に座る花火の姿。矢萩が早口で呟く数式を、一つと漏らす事無く打ち込んでいく。

 「今日は客も来ないのでね。久しぶりに雑務を終わらせておこうと思ただけだ」

 花火が示した数字をノートの端に書き込み、疲れたようにため息を吐いた矢萩が握ったペンで頭をかく。めがねの奥の瞳が、いつもの挑戦的な色を滲ませる。

 「協力する気はないと、言ったはずだ。私も齢らしくてな……めがねがないと、細かい文字なんかは見にくくなってきた」

 銀縁のめがねを外し、苦笑を浮かべた矢作に、「貴方の腕ならば、年齢など補って余りあるでしょうに」と吐き捨てた。

 「なんと言っても飛那火演習の際、たった一人で、二年の特別訓練を受けてきた精鋭三十名を打ち負かしたんですから」

 不意に目をかすかに伏せた矢萩が、静かに「そんなんじゃないよ」と呟く。

 「私が使えるのは、実践で鍛えられた人を殺す技術だ。君たちのように臨機応変にやっていける自信はない」

 事実、警察ではこの技術は窮屈なだけだった、と付け加え、窓の外へと視線を移す。

 「拳銃を唯一使える警察官という立場にあっても、軽んじて発砲することはままならない。その制度自体は、愚か者を抑制するために大切なものではあるが、実態は撃たねばならん危機的状況に陥ったとしても、組織に縛られ撃てず、被害を増やす結果へと繋がっている。

 発砲条件に状況が合致したとして、もし一発でも撃ったなら状況を知らぬ市民からの反発を恐れた警察機関からの圧力対象だ。山ほど始末書を書かせられ、上司、さらには顔も見たことのないさらに上の人間からもお叱りを受け、出世街道から真っ先に外される。

 そんな社会で、人を殺すしか能のない人間の何が役に立つ? 銃を撃たせるなら実力があっても、撃たないのならその実力は不要だ。

 そんな意味をもたない私と取って代われる有望な人材はいくらでもいるんだよ」

 何か言おうと口を開いた向坂の背後で、盛大な音を立て扉が開け放たれる。と同時に足を踏み出した向坂の眼前に、制止の手が翳された。

 「それは卑屈になった人間の理屈だろう。君には実力があり、それを必要とする人間が居る。何を躊躇う? こんな片田舎で脳を老化させながら屍と化すのを待っているだけか?」

 ぞくりと身の気もよだつ声。ここ最近耳にしていなかった声を前に、向坂は弾かれたように突如目の前に立った人物の横顔を見つめた。

 紺色の雨合羽から滴る雫が木製の床を濡らし、その奥にある端正な顔さえいくつもの雫が伝っている。ニヒルな笑みを浮かべた懐かしい男の顔がそこにはあった。

 安西直幸。「TWD」の総指揮権を持つ、彼らの元上司……。

 伝う雫さえ拭おうとせず、思わず立ち上がった矢萩の前へと歩み寄った安西の目には、萎えることのない強い光が宿っている。その姿を威嚇するように睨み付けた矢萩が、側にいた少女を庇うように前に出る。見下すように目を向け、安西が大げさに肩をすくめて見せる。

 「何もしやしないさ。久しぶりに部下たちの顔を見に来ただけだよ」

「どうだか」と返した矢萩の目をじっと見つめ、ふっと鼻を鳴らした。

 「君は相変わらず甘っちょろいな、矢萩警視。何を迷う必要がある。私たちには、君の力が必要だ。協力してくれればそれでよし、否ならば自分の首を絞めるだけだ」

 くつくつと笑い声を立て始めた安西に向けて、唾を飲み込み威嚇の目を逸らさない矢萩が口を開く。

 「それは、脅し、ですか?」

 「いや? 正当な『お願い』だよ」

 頬を伝う雫が一つ、床に滴り落ちる。「いい返事を期待している」と踵を返した安西が、頭一つ小さい向坂に一瞥をくれると、思わず避けた名畑を気にすることもなく再び雨の降りしきる扉を開ける。フードを深く被りなおし、外へと足を向けた安西の背後で、矢萩へと青ざめた顔で一礼を返した向坂がそれに続く。

 ベルが鳴る軽い音を背に聞きながら、雨の中へと足を踏み出した安西へと傘を差し出す。その目に非難の色を見たのか、安西がくっと皮肉を込めた笑みを浮かべた。

 「何故出てきたんですか。矢萩警視が貴方を危険視していたのはご存知のはず。貴方が出てくることは、ただ状況を混乱させるだけです」

 遮るもののなくなった向坂の頬を、大粒の雫が冷ます。次第に奪われていく体温を自覚しながらも、向坂は目を逸らさなかった。そのまっすぐな視線を受け止め、「驚いたな。鋼鉄で出来た心をもたぬ番犬が、ここまで人間に成り下がった」と口にし、彼女の方へと向き直る。

 「君たちがあまりにも甘いからだよ。私だって彼とうまくいっているとは思わない。だからこそ、奴の首を押さえられるんだ。

 利用できるものは利用する。民主主義社会の鉄則だ。そんな社会の中で生き残るには、使えるカードをより多く持っていなければならないんだよ。金、地位、権力、武力……憎悪や同情さえもね。心などという曖昧なもので互いを庇いあう君たちには出来ないことだろう? だからこそ私が矢萩の首を押さえてやったのだ。国家権力でな」

 「しかし、それでは……!」

 「国は容認したよ。どちらにしろ、この話を断れば、彼は消されるだろう。キララからか、国家権力からかは分からないがね」

 懐かしい、からっぽの瞳が向坂に向けられる。「TWD」によって感情を殺す術を得た瞳だ。鋼鉄にも似た戦闘能力と、容赦のない感情を切り捨てた心、何よりも忠実に国のために動く姿から、『鋼鉄の番犬』と呼ばれた彼ら独特の瞳だった。

 六年と言う長い時間をかけ、生身の人間へと昇華した今の向坂には、恐怖しか感じられぬものだ。背を走る悪寒の正体を知ることも出来ず、向坂は差し出した手を戻す。

 「向坂、お前は何故日本がここまで無責任な国家に落ちたと思う? 警察が無能だからか? 法整備の遅れか?」

 突如かけられた問いに、向坂が目を見開く。その目を真っ直ぐに見つめながら、安西は雨の降りしきる空を見上げた。目の前に広がるのは、どろりとした混沌を溶かす雲と、そこから滴り落ちる薄汚れた雫。

 「加害者の人権ばかりが重視され、被害者には保障さえままならず、それどころか大抵安易に実名公表だ。権利だ何だと聞こえのいいオブラートに包んでも、どうしようもない。一時的にでも改革が必要なのだよ、この国には」

 それは警察官という職業柄、向坂も数え切れないほど目にしてきた事実だった。不意に視線を戻し、雨で濡れた顔を向けなおした安西が、「そのきっかけは作ることができるだろう」と呟いた。

 「矢萩孝介。彼と、彼がもつ『アレ』の存在は、停滞を転機へと返る。少なくとも、彼らが動き出したら日本政府は焦るよ。彼らは国を陥れるための要素を十分持っているからね。それは、矢萩警視を追う彼……今はキララと名乗っているんだっけ? 彼もそうだ。それ相応の背景があり、相応の動機を持っている。さあ、国はどう出るだろうね」

 雨に濡れる向坂に背を向け、ひらりと手を振った安西が足元の悪くなった道を歩き出す。

「私だって、忙しくてね。残念ながら日帰りだ。まったく……何が好きで息抜きのつもりの有給がこんな雨なんだ」

頬を伝う冷えた雫さえ気にせず、波止場へと足を進めながら、安西は疲れたように呟く。遠くから駆け寄ってきた男が、にやついた顔を隠そうともせず手にした傘を差し出した。

 「アレが安西警視正の思い人ですかあ。ほおー、へー?」

 傘を奪い取られると同時に、ぎろりと向けられた射るような視線に、男は一瞬表情を引きつらせた。

 「その言い方はやめろ。俺たちの事情は知っているはずだぞ、須藤」

 「へえへえ、そうでやんした。お前の周りもいろいろと大変だな。お前も、俺みたいに出世合戦から悠々離脱すりゃいいのに。そこまでして、わざわざ面倒な泥の塗りあいに参加する意図がわからない」

 旧友の呆れた声に、不敵な笑みを返した安西が傘を開く。雨合羽のフードを取ると、少しばかり湿った黒髪が風を受けて舞った。

 「お前には一生分からないだろうさ。それに、今回のことはそれが意図ではない。瑞穂に汚れ役は似合わないし、俺だけで十分だ。それに今回は少しばかり報酬を付けさせただけだ」

 雨の音に掻き消されながら、船の汽笛が鳴る。もうすぐ最終便の出向時間だ。目の前に立つ旧友、須藤に軽く目配せをし、安西はやり残したことを終わらせるため、波止場へと足を向けなおした。

 

 「何で彼に教えたんですか!これで絶望的です!事実、名畑はあのあと矢萩警視に、顔も見せてもらえなくなりました!」

 「それがなあ……どうにもしょっ引きならない理由が……」

 「そんなあいさつ文のような言い訳はいいです!とにかくこうなった以上、こちらからの増援はあまり期待しないでください。我々も精一杯やってはみますが、おそらく希望は無いに近い」

 疲れたようにため息を吐いた向坂の耳に、宇崎の乾いた苦笑いが届く。この狸オヤジがと内心吐き捨てながらも、「そちらの状況はどうですか」と冷静に言い放った。

 「最悪……としか言えんな。ケルベロスの出現回数も日に日に増えている。一昨日は、公共電波までジャックされたよ」

 あちらも相次ぐ騒動のおかげで疲弊しているのだろう、宇崎の堪えるようなため息が電話口から聞こえてきた。

 「とにかく、明後日には帰って来い。君だけであっても戦力は確保しておきたい。後のことは後任に引き継がせてな」

 その言葉を聞いた途端、雨で冷えた体にどっと疲労がのしかかる。今まで緊張で押し留めていたのだろう疲れが、急に肉体を蝕んだのだ。

 「わかりました」と返し、電話口から聞こえてくる声も無視して受話器を置く。ぶつっと音が切れると同時に静かな静寂の中に、いっそう強くなった雨音が響く。窓を叩く雨を見つめながら、向坂は目を伏せていった。

 

 

2006,8