「俺のはあ?」心許した友に向けるように、悪びれもせず言った青年に、仕方ないと言った風に矢萩は肩をすくめた。

 「智宏の分も作ってある。自分で奥から取って来い」

 顎で厨房内を示し、すぐさま矢萩の押さえた扉に手をついて支えた智宏と呼ばれた青年が、勝手を知っているようにいそいそと厨房へと消える。その背を見送ってから、矢萩は何気なく花火が引いていたイスに腰を下ろしながら、手にした食器をテーブルへと並べていく。その隣に、何も言うことも無く花火が腰を下ろした。

 手元に置かれた純白の皿を見つめ、向坂が箸を取り頭を軽く下げた。「ありがたく、頂きます」

 それに続いて名畑が声を上げ、帰ってきた山口智宏が慌てて矢萩の前へと席に着く。かちゃかちゃと食器の当たる軽い音が暫く続いたが、急に箸を置いた向坂が伏せた睫毛を上げた。

 「昨日未明、彼が沖縄の大病院へサイバーテロを起しました。我々に届けられたメッセージは二つ。一つ、貴方と、貴方の奪ったアレを取り戻すこと。そして、二つ目が……」

 「そのためには、手段を選ばない……だろう?」

 驚いた向坂の目が、視線を落としたままの矢萩へと向けられる。やはりな、と苦笑を浮かべ、手に握った箸を置いた。

 「そういう男だった。いつもは恐ろしいくらい冷静で、冴えているのに、一線を越えられると取り返しがつかないほど熱くなる。彼がそういった状態に陥る程のことを、私は起したのだからな」

 音の無い室内には声がよく通る。波の音を遠くに、矢萩の落ち着いた声が響き始めた。

 次第にゆったりとした旋律をかなで始めたその言葉が、名畑の内側で凝縮し、不意に胸を締めた。

 アメージング・グレース。

 神への賛歌の意味合いを持つ、宗教歌……。

 しばし続いた旋律だけの歌声も、次第に掠れ、消えていく。その歌声に連動してゆっくりと開かれた瞳には、静かな悲しみが宿っていた。

 「私を連れ出した女性が、よく歌っていた歌だ。と言っても私はメロディだけで、めったに歌詞は歌わないがね」

 あまりにも美しすぎるから。

 暗に語った瞳を前に、名畑は重い口を開く。

 「矢萩警視は前、ここでの生活が一年だったと言われました。その理由は何ですか……?」

 名畑の瞳を見つめ返した矢萩が、「死んだ」と呟く。

 「組織の不始末を消すためにやってきた刺客に彼女は殺された。私も命からがら逃げたはいいものの、結局は生きる術も無く、裏社会と表社会の中間的場所で生きることになった。だから、私の子供時代はたった一年間だ。それ以上は大人でなければならなかったし、それ以前に至ってはほとんど人間と言っていいものではなかったからな」

 結構な広さを有するホールに、沈黙が舞い降りる。時間が流れていることを教えるのは、遠くに響く波の音だけだ。じわとにじみ出た重い空気の中、考え込むように瞳を閉じた向坂が口を開き、はじめに沈黙を破った。

 「彼は今、『キララ』と名乗っています」

 伏せられた矢萩の目が驚きで見開かれる。その動きに同調するように、隣に腰を下ろした花火もぴくりと箸を震わせ、箸を止めた。

 「彼は使用するコンピュータウイルス、ケルベロスを沖縄の病院まで入れ込んできました。キララの使うウイルスは日々進化を遂げ、我々の技術では押さえ込めない状況にまで発展した。それに加え、彼はケルベロスへとメッセージを組み込んできた……」

 どういうことか分かるか? と視線を強める。ため息を一つ吐いた矢萩が静かに口を開く。

 「図られた、と言うことか」

 「ええ。彼らの技術がそこまで進歩したのなら、ケルベロスが探す転送対象に、沖縄の施設を入れることは想像できる。……これは、キララからの暗黙の脅しです」

 眉根を寄せ、億劫そうに片目を手で覆った矢萩が、「それは分かる」

「だったら……!」

 咄嗟にそう叫んだ向坂の瞳を、底なしの漆黒を溶かした瞳が捉え、黙らせる。

 「お前たちは、私のことを救世主か何かと勘違いしている。私が持っているのは、人を殺す技。それも、社会の中で生き残るために身に着けた、忌むべきものだ。たしかに実践を積んでいる以上、特殊とはいえ訓練を受けただけの君たちよりは役に立つだろう。でもね、人間がどうしたら死ぬかを知っている限り、私は今まで殺した人間の亡霊に付きまとわれているに近い。

 君たちが言っているほどいいものじゃないよ。人殺しは」

 空気が次第に重みを増し、室内へと沈殿する。微かにかき混ぜられる気配はあるものの、その圧迫感はその場にいるものたちが口を開けるようになるには程遠かった。

 「まったく……こんな所で物騒な話すんなよなあ。お日様が照っていて、風が気持ちよくて、俺たちは生きている。それだけでいいじゃんよ」

 そんな空気をぶち壊し、あっけらかんと言ってのけたのは、手にした椀に盛られた米を口にかき込んでいた智宏だった。

 「この島は、俗世とは隔離されてると、俺はそう思ってる。実際、本土なんかで起こる凶悪事件なんかも起こらないしな。そう考えりゃここは天国だよ。陽気な仲間が居て、美味い飯が食えてさ」

 「それだけでいいんじゃね? 人間、生きていけるもんさ」と言った智宏は、島育ち特有の日焼けした顔を歪めた。

 「それにしても、花火ー。お前、髪伸びたなあ。俯くと目に入りそうだぞ」

 斜め前に座る少女に手を伸ばし、手触りのいい髪を手に取る。するりとその手をこぼれた髪の毛の下で、花火の幼げな瞳が輝き、首をかしげた。

 ごく自然を装って変えられた話題に、矢萩が一瞬詰めた笑いを漏らし、「そうだな」と呟いた。

 「連れて行こうとは思っているんだが、なにぶん時間が無くてな。仕方ないからそろそろ結ぼうかと……」

 「あー、面倒くさい面倒くさい!髪結ぶってなあ、やる方に取っちゃすごく面倒なんだぞ。毎朝時間が無くとも結ばにゃならなくなるんだ。特にお前たちみたいな職業だと尚更清潔にしておかなきゃなんねーから、逆に手間がかかることになる」

 真剣に言ってのけた智宏を目に、そうか……と思わず考え込む。その姿を視界から外し、再び花火に向き直った智宏が、「ようなら、俺が切ってやろうか?」と声をかけた。

 「えー……?」

 困ったように首をかしげた花火の隣から、いかにも不服そうな声が上がる。

 「お前なあ……本人に断られるならともかくとして、何で孝介なんかにいちゃもん付けられるんだ。いいか? 俺は、一時は東京でトップヘアアーティストを目指していた、山口智宏様だぞ? それをお前……っ、子供が言うみたいに、えぇーって……」

 「結局修行六年で断念して出戻ってきたお前がか」

 「う!あははーん……気にしない気にしない!大丈夫、技術はしっかり持ってっから」

 足りなかったのは根性と勇気!と叫び、人懐っこい瞳で花火の目を見つめた。その瞳に捉えられ、思わず隣に座る矢萩へと顔を向けた花火に、温和に笑った矢萩が「やってもらえばいいさ」と言った。悪口であっても互いに言い合える彼らの言葉を受け、花火は微かに頷いた。

 「よっしゃ!決まりー。じゃ、早速切ろう。今すぐ!お姫様の機嫌が変わらないうちにな」

 腕をつかまれ、強引に立たせられた花火が、困惑した表情を矢萩に向ける。苦笑を浮かべながら「大丈夫」と声をかけた姿を見つめながら、名畑が深くため息を吐いた。

 「なあんだろうなあ、あの二人……。そうだ、向坂警部。何か感じません? 違和感と言うか、何と言うか……」

 部外者二人を蚊帳の外に、当たり前に感じられる日常を謳歌する人間たち。彼らにとって他愛ない日常が大切なのであろう事は、名畑にも分かっていた。もしも事情を知らない第三者がこの光景を目にしたとしても、まさか目の前の男が日本の未来を一挙に担っている人物だとは思うまい。

 眉根を寄せ、深刻に悩み始めた名畑に、目を伏せた向坂が「何処が」と呟く。

 「何もおかしくは無いでしょう。ただの親子。それだけよ」

 「んー……なんか、違うんですよねえ……なんだろうなあ。どこか不自然というか、余所余所しいというか……」

 そこまで口にし、腕を組んでしばし唸っていた名畑が、はっと思い立ったように声を上げた。

 「分かった!アレだ!花火ちゃんって、たしか十六でしたよね」

 「……そう聞いてる」

 「そうかあ。先輩、十六って立派な反抗期真っ盛りのはずですよ。あの歳だったら、父親となんか話すどころか毛嫌いしても仕方ないのに。なのにあんなに仲がいい。

しかもあの仲のよさって、親子の仲のよさとはちょっと違うように見えるんですよ。親子って、もっと容赦ないところがある。でもあの二人って、互いを必要以上に慈しんでるって言うか、どっちかと言うと、恋人同士みたいな……」

 違和感の原因は探り当てられても、再び眉根を顰め困惑し始めた名畑の声に、「あなたの目は節穴?」と言う向坂の呆れたような声が重なった。

 「あれは恋人関係とも違う。幼子が親に向ける目。それも、五つか六つくらいのね。小さな子供にとって、親は神に近い絶対的な存在よ。その目に似ているの。

 そんなだから、ふられるんじゃないの?」

 そうか、としばし納得し、不意に最後に呟かれた言葉に「それは言わないでくださいよ……」と肩を落とした。

 「でも、矢萩警視から協力が得られたとして、花火ちゃん、この島に一人になるんですかね? それはそれで、可哀想と言うか……」

 背後に回り、鼻歌交じりにはさみで髪の毛を切りそろえていく青年の前で、暇を持て余した花火がその歌声に合わせ、足をぶらつかせる。ついさっき言われた言葉のせいか、その仕草が何時になく幼く見えた。

 適度に髪を削ぎ、肩までの長さでそろえた智宏が、「よし、終わり」と花火の肩を叩く。切りそろえられた髪は、毛足を整えるだけでなく軽く見えるよう計算されていた。東京で修行していたというのは、嘘ではなかったようだ。

 ぱっと表情をほころばせた花火が、距離を置いて座る矢萩へと視線を走らせる。柔和な笑みを浮かべ、「可愛くなった」と呟いた矢萩の声に、花火は照れたように肩を竦めたが、すぐに立ち上がり、側へと駆け寄った。

 「それって、すごく悲しいですよね……」

 彼らのことは何も分からない。しかし、名畑の胸に一抹の不安が過ぎり、そんな言葉が漏れていた。

 もしも、自分たちが矢萩警視を連れて帰れたとして、その後はどうなるのだろう。向坂が言うには、彼、キララが行うテロ活動の阻止に借り出される。しかし相手は、あの、キララだ。今までに直接手を下してはいないとは言え、ジークフリートを使ってすでに何人もの人間を社会復帰不能、もしくは死へと追いやっている。さらに今キララの手には、コンピュータウイルスという新たな武器も存在しているのだ。命を賭けるとは言わないまでも、壮絶な追いかけっこになろうことは容易に想像がついた。

 唯一頼れる人間に側を離れられ、情報も入ってこないこの島で、彼女はどんなに不安を抱えて生きるのだろう。まだ子供である彼女にとって、その恐怖がいかに強大なことか。

 「だったらやめる? 彼を説得するのを」

 きっと睨み付けた瞳に、こちらには何千万もの人間の命がかかっている現実を直視し、名畑は言葉に詰まった。

 「キララを止めたら、帰ってくることもできるわ。何もせずに全てを失うより、大きなリスクを負ってでも、後の平穏をとるのが人間だと、私はそう思います」

 続けられた言葉は、名畑というよりも、その先にある矢萩の背に向けられていた。矢萩は静かに目を伏せ、「そうか」と呟いただけでそれ以上言葉を続けようとはしない。向坂もこれ以上、ここにいることも無意味と感じ取ったのか、「ご馳走様でした」と言い残し、席を立った。

 

 「部長!こちらの書類の処理もお願いします!キララの調査で経費がかさんでいるんです!」

 「宇崎部長!ケルベロスによる被害報告が、外務省から送られてきています。早めに提出しないと、上がうるさくて……」

 「沖縄県警から新たな被害報告!ケルベロスが沖縄県警に出現、ネット経由で神奈川県警に飛び火したそうです!」

 続々とやってくる情報の綴られた紙面に埋め尽くされた四角い部屋の中で、宇崎は悔しげに呻き声を立てた。

 「おやおや。これほどまで事態が急転しているとは思わなかったな。久しぶりですね、宇崎課長。いや、今は宇崎部長だったか」

 多くの捜査員が駆け回る本部内に、こつこつとやけに落ち着いた靴音が響いた。廊下へと続く一つしかない入り口を占領し、事の次第をどこか楽しげに眺めていた男が、最も置くでペンを走らせる宇崎へと視線を移す。その皮肉めいた視線をまっすぐ受け止め、宇崎は疲れの増した身をイスから離した。

 「君はよほど暇なようだな、安西警視正。できるなら、この場で捜査員と共に働いてもらいたいものだが」

 口元を歪めた宇崎の皮肉に、肩をすくめて見せた安西が返す。いつも彼は何を考えているかわからない、警視庁内部でも食えない人物であった。四十代の安西の目に、萎えることの無い強情さを見、宇崎は口を滑らすまいと身を硬くした。

 「一線から外れた私に何をお望みになる。貴方もご存知の通り、私は「TWD」が傾いた時点から、お飾りなんですよ」

 くつくつと耳障りな笑いを浮かべる安西。その姿を目の端に捉え、「何かはできるだろう。なんと言っても、君はエリートだったんだから」と零す。その言葉に、いかにも面白そうに目を細めた安西の口元が奇妙に歪んだ。

 「エリートねえ。懐かしい響きだ。「TWD」の最高責任者として責任を押し付けられて、解散を迎えてから聞かなくなった言葉だな」

 「TWD」という最高の出世街道をひた走っていた彼が、一連の不祥事による責任を取り、その波から外れたのが六年前。彼にとっても人生の転機であったのだろう事件を前に、宇崎は「何が言いたい」と漏らした。

 「別に? 見学に来ただけですよ。どうも、我々の尻拭い、ご苦労様です。それにしては、よくもこんなに今の警察は歯も立たないんですねえ。こりゃ、大変だ」

 壁に所狭しと張られた記録を前に、ニヒルに笑う安西へと「君には関係ない」と呟き、宇崎は書類がうずたかく積まれた自身のデスクへと戻る。しかし視線さえ逸らしたその姿に、安西は君の悪い笑みを浮かべたまま声をかけた。

 「矢萩警視も捕まらないらしいじゃないですか。もっぱらの噂ですよ? 裏切り者にまで縋らなきゃ、警察は何も出来ないのか、ってね」

 ぴくりと止まったペン先を倒し、宇崎は疲れたように視線を上げる。変わらず扉の前に陣取っていた安西が、手に持ったファックス用紙をヒラヒラと振った。

 「私についている捜査員が調べてきました。こんな私にも、少なくとも自由に動かせる部下はいるんでね」

 その独自の内部報告書を前に、宇崎が呆れたように口元を歪めた。

 「内部でまで腹の探りあいか? そこまで警察内が腐っているとは思わなかったよ」

 「公安に居た頃はよくやっていた事です。なんと言っても独立した機密機関、内部であってもいかにして我々の手の内を見せず、表側の持つ情報を取り出すかが勝負だったのでね」

 歩み寄ってきた安西が手にした紙切れを宇崎の目の前に置き、挑戦的な色を宿す瞳で目の前の男を見据えた。

 「私が現状を動かしてあげようと言っているだけですよ。さすがに現役時代の捜査網は持たぬものでね、私が知りえたのはこれだけだ。矢萩警視を連れてくればいいのでしょう?」

 その黒々とした瞳を見つめ、「目的は何だ」と苦々しげに吐き出した宇崎が、手にした書類をぐしゃりと握りつぶす。

 苦渋を滲ませた宇崎へ背を向け、オーバーに肩をすくませた安西が静かに細めた目を向けた。

 「なに、難しいことではありませんよ。私をこちら側に戻してもらえるよう、進言してもらえばいい。ただそれだけです」

 「彼女も居るんでしょう? あっちに」と付け加え、完全に顔を背けた安西が、いかにも楽しそうに口を開いた。

 「久しぶりに同窓会といきましょうか。主に首を切られた哀れな番犬たちの同窓会ををね……」

 

 

2006,8