:たゆたう世界:

 

 

 深々と頭を下げると、事情を知り、慣れ親しんだ人々は笑顔で返してくれる。軽く手を振るウインドウ越しの店主から目を逸らし、花火は抱きかかえた大きな紙袋を抱えなおした。予備が一袋あったとはいえ、もうすぐ昼時だ、早めに帰らねばならない。

 通いなれたコンクリート敷きの大通りを暫く行くと、建物の間から伸びる細い路地へと足を向ける。海岸沿いのこの小道を歩くのが、何より花火は好きだった。足場は悪くとも、少々早く家路を辿れるこの道には、絶えず海のさざめきと浜に沿って息づく命の息吹が感じられた。

 この道を通ると、少々のんびり歩いたとしても、大通りと辿った道のりと殆ど変わらない時間で店に行き着くことが出来た。

 古めの家が立ち並ぶ一角を抜け、角を一つ、二つと曲がる。後一つ曲がれば、見晴らしの良い海岸だ。

 「  」

 しかし唐突に、背後から低い声がかけられた。思わず足を止め、背後を振り返ると、暗い闇に包まれた場所から、一人の男が歩み寄ってきた。

 「久しぶり」

 こんなところにいたんだ、と続けられた男の声に、花火の背を冷たいものが走る。

 次の瞬間には、反射的に体が動いていた。

 

 「なんですって!」

 その連絡は、すぐさま向坂にも伝わった。思わず口をついて出た叫びに、電話越しの赤木もヒステリーに近い声で捲くし立てる。

 「だから早くしろと言ったんです!取り返しがつきませんよ!被害は外来の一部だけだったらしいですけど、貴方たちの行い次第で日本の未来は変わるんですからね!とにかく早く、矢萩警視を連れてきてください!」

 遠くで宇崎のだみ声が響く。本部の方も混乱しているのだろう。赤木から受話器を奪い取ったらしい宇崎の荒い声が、向坂の耳を劈いた。

 「被害は外来一部!分かるか? キララは間違いなく自分たちの力を見せるためにケルベロスを送り込んだんだ。わざと被害を減らすことで、自分たちの技術が向上し、ここまで操作できると誇示するためにな。こうなっては我々の手には負えん。政府機関が狙われたら一巻の終わりだ。ヤツもそれを分かってやっているんだろう。

 ケルベロスのプログラムに、ヤツからの警告が入っていた。『ケルベロスの瞳と左腕をとりもどす』んだと!状況は変わった。出来る限り急げ。一刻の猶予も無い」

 電話口の向こうで宇崎が部下に怒鳴る声が響く。向坂は眉を顰め、「わかりました」と吹き込むと、受話器をいささか乱暴に置いた。

 ケルベロスの左腕。瞳はジークフリートと対を成すアレだとして、左腕は……。六年ぶりに見た上司の姿を思い起こし、慌てたように立ち上がる。

あいつら、矢萩本人まで取り込む気だ!

 昨日の夜何気なく眺めていた窓の外へと視線を走らせる。波が絶え間なく打ち寄せ引いていく純度の高い砂浜に、地元の子供たちと駆け回るスーツ姿の名畑を見つけた。

純和食の朝食時、突如「星の砂を自分で探す!」と言い出した名畑が、連休中であったホテルの主の子供を引きつれ、部屋を飛び出して言ったのが三十分程前。類が友を呼んだのか、はじめは二人であった取り巻きの子供の数も、今となっては十人近くまで膨れ上がっていた。

屈託の無い笑い声を耳に、向坂は再び深々とため息を吐いた。

 「ちょい!もう疲れた。プロレスごっこ終わりっ!」

 ぜいぜいと息を切らし、ヤシ科の植物の陰にしりもちをついた名畑に、ブーイングがかかる。「兄ちゃん、体力ねーよ」と口を尖らせるリーダー格の少年に、汗の滲む顔を緩ませ、「そーなの。俺様、皆と違ってもうお歳だから」と笑いかけた。

 「でも、皆が手伝ってくれて助かったよ。これで万理も喜ぶ」

 手にしていたジャムの空き瓶を掲げ、太陽に透かしながら大きく息を吐く。半分ほど中に詰められた歪な形を持つ物体が、その動きに合わせ、さらりと形を崩す。

 「万理ってだれだ? 兄ちゃんの恋人かなんかか?」

 ひゅーひゅーと囃し立て笑う少年たちに、名畑は困ったように苦笑を零した。子供らしい反応に「ばーか。そんなんじゃねーよ」と返し、一回りも歳の離れた人間のかもし出す屈託の無い雰囲気に、心地よさを感じている自らを自覚した。

 「妹なんだ。体が弱くて、小学校の頃から病院を出たり入ったりしてる。おかげで、あんまり旅行できないもんだから、もって帰ったら喜ぶかなーって思ってな」

 サンキューと目を細め、大きな手で手近な少年の頭をわしわしと乱暴に撫でる。「子供扱いするな」とその手を払い、「じゃ、用終わったんなら俺たち遊びにいくから!」と楽しそうに駆け出す。それに続く少年たちの笑い声が、波の音が木霊する浜辺に響いた。

 あまりにも白に埋め尽くされた病室で、ただ外を眺めるしか出来ない歳の離れた妹の姿が、遠ざかっていく対照的な背に重なる。

高い笑い声が遠ざかり、次第に消えていくと、後に残るのはひどくやさしい波の音だけだ。

瞼を閉じ、しばしそのどこか懐かしいさざめきに身を任せていると、真っ暗に塗り潰された視界の置くから、どこか遠くから近付いてくる微かな足音を見つけた。

 ゆっくりと瞼を上げると、白んだ視界の端に見たことのある小柄な姿があった。海岸より、若干小高い位置に作られた小道に、大きな紙袋を抱えた花火が立っていた。

 「や」と軽く手を上げ、その人影へと呼びかけると、相手も驚いたように名畑の顔を見つめる。その手に抱えられた大き目の紙袋を目に、「買い物?」と問いかけた。戸惑うように頷くと、名畑の胸を昨日かけられた矢萩の言葉が過ぎった。

 喉を痛めてね――。

 思わず「どうしてここへ?」と口にしそうになり、はっと口を噤む。「悪い……」

バツが悪そうに顔を顰めた名畑に、苦笑した花火が、紙袋の中から慣れた手つきで小振りのノートとペンを取り出し、ペンを走らせた。

 『筆談ならできる』

 眼前に差し出されたノートに一行の文字を見つけ、「そうか」と再び笑みを取り戻す。

 『中央通通るより、こっちの方が近道』と付け加えられた真っ白なページを見つめ、伊を決したように立ち上がる。緩やかな坂を砂に足を取られながら上ると、道の中心に立つ花火へと駆け寄った。

 「えらく大荷物だな。何買ったんだ?」

 目の前に立った名畑に、さらさらとペンを進めた花火がノートブックを差し出す。

 『砂糖。後は、魚とか肉とか、食材』

 丁寧に並べられた文字列とそれを差し出した花火の手元を交互に見比べ、名畑が小首をかしげる。「砂糖はわかるけど、食材って二人分にしては多くないか……?」

 『地元の人が多いから、食堂の機能もかねてるの』

 この島は独り暮らしのお年寄りが多いから、と付け加えられた一文に、「ああ」と納得の声を漏らした。

 「あの人、料理上手そうだからな」

 その声に満面の笑みを浮かべ、花火が頷く。絶対的な信頼がその動作一つからにじみ出ていた。

 しかしその微笑ましい光景さえ、名畑の胸にどこか引っ掛かりが生じさせる。一瞬眉を顰め、その原因を探ろうと意識を飛ばしかけた名畑の志向を、花火が走らせるペンの音が引きとめた。

 『コウスケを連れて行かないで』

 次の瞬間、真新しいページに一文だけ綴られた文字を見つめ、名畑は声を失っていた。その顔を探るように覗き込み、新たにペンを走らせ始めた花火を半ば呆然と見下ろす。

 『コウスケは、あの人に会いたくない』

 「あの人」という単語。この少女が言うあの人とは、今現在、国家権力を敵に回し、サイバーテロを仕掛けている彼、『キララ』を指すのだろう。

辺りに響き渡るのは、耐えることのない波の音と、花火がペンを走らせる音だけだ。

 しかし、こちらも諦める訳にはいかない。こっちには東京都民、ひいては日本国民の未来を担っているのだ。

原因が解決できるものならと、「何故……矢萩警視は彼に会いたくないんですか……?」と呟く。暫く思案した花火が微かに眉を顰め、ペンを傾けると、至極簡略な文章を描き出す。

 『コウスケの腕を切ったのが、あの人だから』

 語りたくないように視線を外され、淡い希望さえ無残に砕かれた名畑が目を見開き、弾かれたように花火へと視線を移す。

 『だから、お願い』と小さく添えられた文字を最後に、深々と頭を下げた花火の背を見送り、名畑は呆然と沖縄の風に包まれていた。

 

 向かい合う形で腰を下ろした向坂が、広げられた書類に目を落とし、無意識のうちに木製の机をペンの尻で叩く。規則的な音とともに、顰められた眉、歪められた口元。彼女が予想以上に焦っているのを感じ取り、居心地悪くコーヒーカップを口元に運んだ。

 再びこの場所を訪れた彼らを待たせ、矢萩は奥に位置する厨房に蟄居してしまっている。仕事とはいえ、こうも何時間も待たせられるのは気分がいいとは言いがたかった。

 昨日の今日だし、もしかしたら無視されているのではないか?

 一抹の不安が胸を過ぎったが、だったらこんな風にコーヒーなど出してくれないと、ネガティブな思考に走る自身を律する。

 やけに静かな室内に、何処からともなくしんみりとしたアメージング・グレースのメロディが流れこぼれる。滞留する時間をかき回し消えていく繊細なメロディを耳に、名畑は今までにない居心地の圧迫感から、すでに冷めてしまったコーヒーを煽った。

 「あんたたち、お巡りさんらしいのう」

 静かに流れる低めのアメージング・グレースの間を縫い、背後からしわがれた声が混ざる。咄嗟に背後を振り向いた名畑の瞳を、しわだらけの皮膚に包まれた窪んだ目が捉えていた。

 「だったら、何ですか」

 書類に目を向けたまま、向坂が口を開く。老人は名畑に向けていた目を逸らし、睫毛を伏せた向坂へと向けると、目じりを微かに上げた。

 「孝介が何かしたんかね。しょっ引く理由も無かろうに」

 「我々は逮捕に来たのではありません。協力を願いにきたのです」

 「結局は同じ事だろう」と鼻を鳴らした老人に、書類に向けていた向坂が目を上げる。

 「奴が本土で何しでかしたかは知らない。でもな、誰かから逃げてきたのは知っているんだよ。元々、人口は減る一方の島じゃ。やってくるもんなんか、本土で失敗した馬鹿者か、訳ありの者と決まっておる」

 眉根を寄せた向坂に、イスに座り杖をついた老人はくくっと笑いを漏らす。「あの日、島の桟橋で血まみれのあの子らを見つけたのはわしらだからな」と続けた。

 「六年前のあの日、島唯一の桟橋に血まみれでうずくまる、あいつらが居た。夜についたんじゃろうが、どうやって島に辿り着いたのかも分からない。しかも男の方は片腕が根元からねじ切ったように無くなっとった。あんな傷口、さすがのわしでも、戦争中に二、三度見たくらいでな。そんな大怪我で、血も流れすぎていたのか、顔色も土色に近かった。

 もつのかも分からなかったが、本土の病院へと運ぼうとするとな、傍らに座っていたちまっこい子供が、しがみついて離さんのだ。駄目だとばかりに泣いて拒絶するあの子を前に、私たちは理解したんだよ。こやつらは、小さな身で強大な何かからか逃げてきたんだ、と。

 大戦中の軍属医師がたまたま島に居たから何とかなったとは言え、あの若造が命を取り留めたのは奇跡に近い。

 何があったのかは知らん。知ろうとも思わない。しかしな、どんなに鈍い人間であってもやつらが相当な苦痛を強いられていたことは分かる。そんな奴らに幸せになって欲しいと思うのは、いけないことかね?」

 まっすぐ見つめてくる丸い瞳が、澱みのない光を宿している。「決めるのは、矢萩警視本人です」と視線を逸らした向坂が、いささか乱暴にペンをテーブルに置いた。

 「そうだよ、おじい。俺たちがどうこう言ったとしても、決めるのは孝介なんだから」

  老人の影に隠れていた人物が、どこか笑みを含んだ声を上げ、立ち上がる。日に焼けた島育ち独特の風貌を持つ青年が、老人の前に立ち、しわだらけの細い手を取ると、「そろそろおじいは帰らなきゃ。おばあが心配するよ」と優しい声をかけた。

 暫く思案をめぐらせた老人が、「仕方ない」と呟くと同時に、青年が二人の方へと振り返る。ふっと柔和な笑みを向け、目を細めた青年の手を借り、億劫そうに立ち上がった老人が、押し殺したように口を開く。

 「この場所にはな、音楽が無い。若造どもの好き好む訳の分からんものも、演歌さえ流しちゃおらんのだ。時々、あの若造が歌うなんとか、言う歌だけだ。それでもな、あいつがどこか悲しんでいるのが分かるんだよ。歌は正直だからな。

 奴は、もう島の者だ。あんまり……苦しめんでやってくれ」

 顰められた老人の声が、ゆったりと響き渡るアメージング・グレースに溶けた。青年の手を離し、杖を突きつつ不規則なテンポを刻む足を入り口へと向けた老人の背を見送り、青年は軽くため息を漏らした。

 「気分を悪くしたなら、謝る。島の人間はそんなものだからね。俺も東京に出てたことがあるからギャップは分かるよ」

 困ったように笑みを作る。青年の背後で、ようやっと沈黙を破った厨房へと続く扉が、店の主の力で開かれる。無造作に料理が載せられた皿を手に、先に続くはずの肉体の欠けた肩で扉を押し開いた矢萩が、二人の姿を見とめると、軽く肩をすくめた。

 「公務員も大変だな。私を連れ帰らなければ、東京には戻れないんだろう?」

 口にくわえていた箸を皿を持つ右手に持ち替え、矢萩が呟く。上意下達、実力社会の警察内部を知り尽くした男の言葉だった。

 「そう思うのなら、協力してくださればいいのに」と半ば吐き捨て、向坂が視線を逸らした。

 肩で扉を支える矢萩の右腕の下を、同じく手に幾枚かの皿と箸を持った花火が腰をかがめ通る。何気ないその仕草は、ハンディキャップを物ともしない矢萩と、無用な気遣いもせず素直に甘える花火の関係そのもののように思えた。

 意思を見せない瞳を向け、花火が向坂と名畑の前、書類の分け目に皿と箸を並べだす。真意が分からず、矢萩を見つめた二人に、眉を微かに上げ、「昼飯、まだなんだろ」と声を漏らした。

 

 

2006,8