:ケルベロスは嗤う:

 

 ワガナハケルベロス

 ジゴクノモンバン ケルベロス

 ワタシハカナシイ

 ミヲヒキサカレルヨウニ カナシイ

 シカシ イマノ ワタシニハ

 カナシクトモ ナミダヲナガス ヒトミガナイ

 イクラ クルシクトモ

 ヒトミヲサガス ヒダリウデガナイ

 コカトリスハ ワタシノ キョウリョクシャ

 ワタシハ トリモドス

 ワタシノ ヒトミト ヒダリウデ

 マッテイロ オロカモノドモ――。

 

 人々のさざめきが流れるここは、他には無い不思議なほどゆったりとした時間が流れている。ロビーに置かれた大型のテレビが、視るものもいないのに、めげずに天気予報を流し続ける。のんびりとした口調の気象予報士が、まったく的外れな質問を投げかける新人アナウンサーに今日の天気を事細かに教えていた。

本日の沖縄の天気は晴れ。それだけを確認すると、東京近郊のことなど興味も無く、いつもと同じ面白くも無い雑務へと顔を戻した。

 那覇市の中心部に位置する鹿沼総合病院には、いつもと変わらぬ顔ぶれと、入れ替わり立ち代りやってくる客との不思議な世界が出来上がっていた。

奥から同僚の看護師がカルテ数冊と小さなメモを手に彼女の肩を叩く。振り返った彼女へと「次、通してくれって」と声をかけると忙しそうに奥に位置する診察室へと戻っていった。受付に座る彼女は、並べられた名前の先頭を辿り、目の前に位置する待合室へと「河合さん、一番診察室へお入りください」と声をかけた。手元にあるメモ帳に走り書きを残し、診察室の扉へと目を移す。診察室へと歩いていく背中をしばし眺め、再び手元に広げられた書類へと目を落とした。

 しかし、その手もすぐにとめられることとなった。突然、ばちんっ……という軽い炸裂音とともに、煌々とつく蛍光灯以外の電子機器が急にダウンしたのだ。一瞬停電かと辺りを見回すも、落ちたのは全てコンピュータなどの精密機器で、比較的簡単なつくりのものはどれも無事だ。

何事かと慌てふためきだす同僚と同じように彼女も立ち上がり、その原因を探ろうと視線をさ迷わせる。ばたばたと行きかい互いに何事か言い合う声が、あたりまえの日常を屈折させた。

 彼女の目の前を一人の医師が横切る。思わずその姿を目で追うと、外来受付の端に置かれた旧式のパソコン画面に目が留まった。古く、だれからも見捨てられていたその小さな箱が、突如騒がしいほどの起動音を立て、ブラックで塗り固められた画面を立ち上げたのだ。目を細め、そのディスプレイへと歩み寄っていく。カチカチと点滅を続けていたカーソルが、まるで息を吹き返したかのように動き、意味不明な羅列を作り始めた。

遠くで何者かが走るけたたましい音がホールへと木霊する。「誰か来た?」と顔を覗かせた看護師の目も、すぐさま彼女の見つめるディスプレイへと映った。

 「何それ。他のパソコンは完全にダウンしてるわよ。どうやって起動させたの」

 「知らない。勝手に立ち上がった」

 触れた手に伝わる稼動音が、急に速度を上げる。それまでの二倍近い速度で羅列を刻むカーソルに目を走らせていると、それまで無事であった蛍光灯がちらちらと不規則に点滅を始めた。

 遠くで響いていた足音が次第に近付いてくる。入り口から見て直角に突き出た外来受付に、突然一人の男が走りこみ、カウンターに凭れかかった。ぜいぜいと上がる息を整える暇も無く、唾を一度飲み込んだ男は「沖縄県警だ」とたて開きの警察証を開いて見せた。

 背後を振り返り何者かを呼んだ彼は、二人の看護師が直視していたディスプレイを引っつかむように見つめた。

 「遅かったか……っ!」

 苦々しげに呟く視線の先には、あのわけの分からない記号の羅列。背後から遅れてやってきた仲間らしいもう一人の男に振り返り、「間違いありません。ケルベロスです」と言った。

 「恐らく、統括制御しているマザーコンピュータに潜んでいたんでしょう」

 後から来た男が羅列を刻む画面に目を移し、神妙に頷いた。「いったん、本部に連絡します。協力を要請して……」

 「ちょっと待て」

 ケータイ電話を取り出し、病棟の外へと足を向けかけた男に、刑事と思われる男が声をかける。その視線は、突如文字を刻むのをやめた画面に注がれていた。暫く点滅を繰り返していたカーソルが、ゆっくりと文字を表示し始める。しかしそれは、今までのようなわけの分からないものではなく、見慣れた日本語、それもカタカナの文だった。

 『ワガナハケルベロス

 ジゴクノモンバン ケルベロス

 ワタシハカナシイ

 ミヲヒキサカレルヨウニ カナシイ

 シカシ イマノ ワタシニハ

 カナシクトモ ナミダヲナガス ヒトミガナイ

 イクラ クルシクトモ

 ヒトミヲサガス ヒダリウデガナイ

 コカトリスハ ワタシノ キョウリョクシャ

 ワタシハ トリモドス

 ワタシノ ヒトミト ヒダリウデ

 マッテイロ オロカモノドモ』

 「おい……何かメモするもの!」

 側にいた看護師が慌てて手元に転がっていたペンとメモ帳を渡す。受け取ったものに速筆でその文章を走り書いた途端、待っていたように画面が再び暗転する。

今度は完全に人工の明かりさえ消え、辺りは騒然とした。

 「本部に連絡だ。俺は被害を調べてくる。急げ!」

 側に立っていた相棒にメモ帳を手渡した刑事が、奥へと走り出す。一瞬慌てたように渡されたメモ帳とケータイ電話を見比べた男が、病棟の外へと足を向けた。

 「ちくしょう……!」いいように撹乱されている自分に対する不満が、言葉になって零れていた。

 

 

2006,8