:犬達の行方:

 

 

 東京のような見渡す限りのネオンは存在しない。月明かりの栄える波間と、明かりが疎らに輝く夜景に目をやると、電話口の人物が突如金切り声を立てる。

 「断られた? そんなこと、許されると思っているんですか!こっちには、何千万の命がかかっているんです。こちらを優先して当然でしょう!それでも断られたと言うなら、貴方たちの説得が足りなかった証拠です。とにかく、どんな手を使ってでも矢萩警視を連れてきてください!」

 思わず受話器を耳から遠ざけた向坂の耳に、若干上ずった叫びが届く。ホテルの部屋に備え付けられた電話機を使い、警視庁本部に連絡を取ったのがついさっき。しかもうっかり受話器を取ったのが同期の赤木生馬であったのが不幸だった。

公安に移動になって間もない赤木は、正しくマニュアル人間と言うべきその律儀さと馬鹿正直な性格から、公安の古株どころか新参者の後輩にまで眉を顰められるきわめて稀な人材だ。悪く言うと、マニュアルに書いてあるとおりやれば、必ず結果が出ると信じているマニュアル崇拝者に近い。

 最も聞きたくなかった人物の声を耳に、こっそりとため息を零した向坂は、「そうは言うけど……」と思わず言いかかる。しかし電話口の向こうで微かに聞こえた男の声に、言いかけた言葉を飲み込んだ。

向坂を蚊帳の外に、何事か言葉を交わす二人の男の声に、半ば諦め半分で耳を傾ける。赤木の不服そうな声が辛うじて聞き取れた後、一拍の間を置いて新たな男の声が受話器の向こうに響いた。

 「やあ。悪かったね、そんなところまで行ってもらっておいて。彼には私から言っておくから」

 聞きなれた五十半ばになる上司のだみ声を聞き、あからさまなため息を一つ、「そうですよ」と食って掛かるように吹き込んだ。

 「こっちも来て早々断られて疲れているのに、何であんなヤツにどやされなきゃなららいんですか。大体です。あんな人材を受け入れる部長も部長です。私はあの人事異動の時、初めて貴方を疑いましたよ、宇崎部長」

 「それに、矢萩に子供が居るなんて聞いてない」と付け加えると、茶化すように「君はそんなことを気にするタイプとは思わなかった。もしかして、彼に惚れていたのか?」と笑いを含んだ声が握った受話器越しに響く。

 「そんな訳ありません!彼は単なる私の元上司です。まったく……男とくると、何かと恋愛関係を疑って茶化すんだから……。今度の射撃訓練のとき、私の射撃の的に写真を使われたくなかったら少し黙っていてください」

 「おお怖い怖い。君の場合、実際に前科があるから余計怖いよ」

 「あの時は、本当に成績がよくて。恨みつらみの勝利と言うところでしょうか」

 ふてくされたような声に少々あせったらしい宇崎の苦笑が耳に届くと、向坂はふっと声のトーンを落とす。部下の声に戻り要約した報告を上げると、聞き入っていたらしい宇崎が「そうか」と静かに呟いた。

 「彼らしいと言えば彼らしいな。「NEO」どころか、国家自体関係がないと言ってのけるとは」

 若干堪えたような笑いを聞き取り、「笑い事ではありません」と付け加えた向坂が再び視線を上げる。先ほどよりも弱まった月明かりが薄暗い部屋を照らし出す。

 「事実、彼は私が知る限りこうと決めたら九割九部、意思を変えない。説得できる自信、ありませんよ」

 あんなこと話されたら尚更、再び世の芥処理へと駆り立てるのは躊躇われる。

汗で滑りそうになる受話器を握りなおし、電話口からの返答を待つ。しばしの間の後、仕方ないと言った風に吐き出されたため息が、彼の過去を知らない上司から意外な言葉を出される前触れとなる。

 「裏社会で育ったなら、全てが全て自己責任なのだろう。事実、自己の意思決定が直接生死に繋がる場所だったからな。そうやって生きてきたのだから」

 向坂の背を冷たいものが走る。自分は、彼の過去は話さなかったはずだ。

警察内部で信じられている矢萩の正体は確かに非の打ち所の無いエリートだった。まさか彼が現役時代、ボロを出すとも思えない。事実、宇崎も向坂が飛那火島まで出向するまで彼のことを「最高の逸材」と言っていたはずだ。まさかその経歴重視の縦社会、何処よりも経歴を睨む警察という組織で、後ろ暗い過去を知りつつそんなことを言うものは殆ど居ないだろう。

思わず「何故それを……」と消え入るように呟くと、自分の失言に気がついたらしい宇崎が慌てたように言葉を続けた。

 「今日、彼の推薦者であった塚本秀雄室長が他件に絡んでいたと言うことで留置されてな。そこで私が矢萩警視の名を出したら、『あいつだけは駄目だ!』と言って自分の失態を全て吐露してくれた。その中に、彼のことも含まれていたと言うことだ。まさか、警察内部があそこまでだとは……。知らなかったとはいえ、彼にも悪いことをした」

 機械音の混ざっただみ声は、いつになく沈んでいるように聞こえる。その時、電話口から遠くで何者かの怒鳴り声が響くのが聞こえた。と同時に、騒然となる雰囲気が喧騒の中に読み取れた。

 「何があったんですか!」

 咄嗟電話口に叫んだ向坂の耳に、いっそう強くなった喧騒と、一人ひとりの会話が聞き取れるほどの音声が届く。宇崎が室内のマイクへと切り替えたらしい。酷く混乱する同僚たちの声を聞きながら、向坂は蚊帳の外で無力に聞いているだけの自分に歯噛みした。

受話器の向こうでは、人々の怒声とキーボードを叩きつける音が無造作に響き渡った。

 一瞬、喧騒が掻き消え、公安の専属エンジニアである女性の声が空気を裂いた。

 「第一関門突破、侵入者、第二関門に到達!プログラム名は……ケルベロス……っ!間違いない『キララ』です!」

 「惑わされるな!ケルベロスが居るなら、近くにコカトリスも居るはずだ!そちらを優先的に潰せ。ケルベロスは捨て置く!」

 「しかし、それでは……」

 「コカトリスは、危険度Sクラスのウイルスだ!せいぜいトリプルA程度のケルベロスとは格が違う。目に付くからとケルベロスだけ潰したとして、コカトリスがもたらす被害の方が甚大だ。とにかく、コカトリスを見つけ出せ!」

 轟々と響いてくる悲鳴に誓い会話の羅列に、向坂は「それでは駄目だ!」と思わず吹き込む。

 「だったら、どうしろと言うんだ!コカトリスは強大だ。確かにそこらのウイルスとは比べ物にならないとはいえ、被害の少ないケルベロスを捨て置くしかないだろう」

 「駄目です!確かに、コカトリスは恐ろしい。内部データをデリートした挙句、バックアップさえ書き換える。いざと言うときのため、自滅プログラムさえ備えています。それでも、ケルベロスの脅威とは別物。ケルベロスは……コカトリスの卵を持って、自身を転送するんです!」

 機械に隔たれた上司へと叫びと、「ケルベロス、ファイアーウォール突破!じゅ……関係機関住所録へハッキング開始しました!」という同僚の叫び声が重なる。

何も出来ない自分を罵りながら、向坂は「やられた……!」と呟く宇崎の声をただ聞くことしか出来なかった。

 危険度最上位、Sクラスのコンピュータウイルス「コカトリス」と、危険度トリプルA、コカトリスを隠すように行動を共にする「ケルベロス」。コンピュータウイルス二つに、いいように翻弄される警察内部の姿がそこにあった。

 あの日、幾ばくかの幹部とともに逃がしてしまった「彼」が使い出した、ジークフリートに次ぐ兵器……。

「彼」が「キララ」という名を使い、失ったジークフリートをも凌ぐ切り札を、逃げ出した矢萩から取り戻すために遣わせた使者の姿だった。容量の大きいケルベロスは、ファイアーウォールを突破する際、隣に潜むコカトリスの姿を隠してしまう。六年の時を経て、突然再開された「キララ」の活動に、内部を知り尽くした矢萩という指導者を失った警察はあまりにも無力だった。

 「万事休すか……」

 嘲笑するように吐き出された宇崎の呟きを耳に、向坂も思わず眉を顰め、痺れるように痛み出した眉間に手を添える。

時間がかかりすぎた。ケルベロスとコカトリスを潰すためには、迅速な対応が必須条件だった。

終わったな……。

 そう思ったと同時、魂が抜けたような力ない声が騒然とした室内の音を掻き消した。

 「ケルベロス……転送。コカトリスは一部のデータを改ざん後、自滅しました……」

 あの、エンジニアの声だった。握っていた手に汗が滲み、ひやりとした感覚を伝えていた。

 「どこに行った?」と押し留めた宇崎の声を受話器の向こうに聞き取り、向坂も思わず息を呑む。キーボードを叩く軽い音が暫く続いた後、「沖縄県の鹿沼総合病院です……」と堪えるように続いた言葉に愕然とする。よりにもよって、病院。「一刻も早く沖縄県警に連絡を取れ!大事になる前に異端を摘み出すんだ!」

 今までの静けさが嘘のように、再びばたばたと騒がしく行動を始めた同僚たちの声に混ざり、電話口で聞いていた向坂へ皮肉を込めた笑いを帯びた声がかかる。

 「また、やられたな……」

 沈黙を返事にした向坂に、宇崎の震える笑い声が届く。

 「向坂。ケルベロスとは神話において、双頭を持つ地獄の番犬だ。唾液は毒と化し、生きる人間を死の世界へ寄せ付けない。この名を付けたということは、恐らくキララは我々の手の届かぬところで嘲笑っているのだろうな。「WTD」という番犬を失った日本という国家を……」

 暫く押し黙ると、向坂は「分かっております」と消え入るように呟く。

 「警察に残っている番犬は、私しかいない。どうしても……矢萩警視の力が必要です。何としても連れて帰ります。これ以上、「NEO」に人は殺させない……っ!」

 苦渋の滲む向坂の言葉に、「頼んだ」と返した宇崎に知らず頭を下げていた。

これ以上話すこともない。長居は無用とばかりに受話器を置くと、深いため息を吐く。

また、裏をかかれた。一刻の猶予も無いということだ。キララはすでに動き出しているのだから。

シャワーでも浴びようと腰掛けていたベッドから立ち上がると、示し合わせたかのように軽いノックの音が響いた。

「はい」と返事を返し、億劫だと感じる自身を叱咤して、鍵をかけていた扉へと歩み寄る。一本のチェーンに遮られた明るい廊下に、部下である名畑の姿があった。名畑は向坂の姿を見とめると、にっこりと笑みを零し、「トランプ、しませんか?」と言った。

 「旅行といったら、やっぱりトランプ大会でしょう!ね?やりましょ」

 今年、所轄への出向から警視庁本部に帰ってきた名畑には、どこか屈託の無い学生のような気さくさがある。今まで漂っていた空気さえ払拭するその言葉に、仕方ないとばかりにため息を一つ吐くと、チェーンを外しにかかる。再び扉を開いた向坂に、名畑が「何します? ババ抜きとか、七並べとか……」と呟いた。

 「あんたね……ババ抜きも七並べも、二人でしてもあまり面白くないでしょう。トランプは大勢でするものなの」

 呆れたように笑うと、一瞬ぽかんと口を開いた名畑が「ああ!」と今気づいたように叫んだ。

 「やばい、そこまで考えてなかった……」

 心底困ったように視線を外した名畑に、くすくすと笑い声を立てる。「他に用が無いなら、もう寝るから」と部屋へと戻ろうとした向坂を、焦ったような名畑の声が引き止める。

再び振り返った向坂を見つめ、暫く思案するように目を泳がせた名畑が、意を決したように口を開いた。

 「向坂刑事。あの……気になってたんですけど、貴方と矢萩警視……二人がいた「TWD」って、何なんですか?」

 向坂の目が、驚いたように見開かれる。暫く目を伏せた向坂が、長いまつげを上げると「名畑はどこまで聞いているの?」と微笑を向けた。

 「潜入調査、若しくは危険と判断された組織を内部から監視する。そんなチームだったと聞いています」

 「そう。そこまで知っているなら話は早いわ。「TWD」とは、「The Watch Dogs」の略。英語で「番犬」という意味ね。任務は、文字通り監視よ。最も組織犯罪が危険視されていた時期に発足された、SATをも凌ぐと言われた強行権を持つ集団。配属される人材は一年、ないし二年の訓練期間を経て技術と知識を習得。各組織に潜りこまされる。私と矢萩警視は、その初期メンバー」

 「何で、なくなってしまったんですか? そんな集団なら、残っても不思議じゃないのに」

 事実、彼らが解散した後もキララは活動を再開し、日本は再びの危機に瀕している。じっと目を見つめてくる名畑に苦笑を零し、向坂は開け放った扉へともたれかかり、腕を組んだ。

 「矢萩警視が、裏切ったからですか?」

 「それもある。実質上、彼が殆ど指揮を取っていたからね。でも、直接の原因ではない」

 静かに言い放った向坂に、名畑が「だったら何故」と問いかける。

いつの間にか瞑っていた瞼を薄っすら開き、黒いハイヒールを履いた自分の足を見つめ、そっと口を開いた。

 「私以外のメンバーは、皆死ぬか現場復帰できないほどの痛手を負った」

 驚いた名畑の目が見開かれる。光の差し込む窓辺に目を移し、向坂は懐かしむように淡い光を放つ月を見つめていた。

 「矢萩がもう一つのジークフリートを持ち出し、姿をくらました直後、焦って動き出した警察の手から逃れるため、奴……キララが逃げ出す間際、根城としていた廃墟に現存するジークフリートを撒いていたのよ。「NEO」は空気中に確実に存在する弱小のウイルス。どうと言うことはないはずの突破劇は、首謀者を確保できずという悔しい結果に終わったの。

 落胆を隠し切れなかった警察内に、さらに追い打ちをかけるように、ジークフリートの力を借りた「NEO」が猛威を振るい始めた。薬物であるジークフリートは、人から人への感染は起さない。「NEO」の前に倒れたのは、キララ逮捕のため動いた「TWD」のメンバー。無事だったのは、事件の直前に逃げ出した矢萩と、別件で負傷し一時的に一線を離れていた私だけだった。今、彼らの多くは一部の機能を失い前線を離れた者、退職に追い込まれるほど体の自由を奪われた者が殆ど。運の悪かった者は、気が狂い自ら命を絶ったか脳内まで侵され植物状態よ。

 本当なら「TWD」復活の道もあったんだろうけど、身から出た不始末を認めたくなかった国はそれを認めなかった。結果的に、後続は無く、大量の退官者を出した挙句、チームは解散してしまった。

 今現在、警察に残っている牙をもつ番犬は私だけ。だからこそ、矢萩警視に協力願いたかったんだけど……」

 月明かりが揺れる。雲が隠したのだろう、部屋を彩るのはベッドサイドの小さなランプだけになった。そこまで言うと、向坂は静かに目を閉じ「もう遅いわ」と呟く。

 「明日も忙しいんだから、早めに寝なさいね」

 何か言いたげに口を開いた名畑を見ず、後ろでにドアを閉める。廊下から入っていた光が消え、部屋の中にはゆったりとした沈黙が漂っていた。