「オキナワけん、ヒナビじま。それが私の記憶に初めて出てくる地名だ。十歳から約一年間過ごした飛那火。だからこそ、私の故郷はここなんだよ」

遠くで楽しそうな笑い声が響く。やってきた客たちのものだろうか。東京にはなくなってしまった温かい流れが、冷え切った空気を晒す厨房をさらに現実から切り離していた。

「君たちの、最初の記憶は何だ? 父か? それとも母か?」

不意に戻された視線が、向坂の背後、黒い瞳に向けられる。名畑は一瞬驚いたようにビクついたが、暫く考えた後、戸惑うように「母です」と呟いた。

「母の膝に乗って絵本を読んでもらっている記憶が最初……ですかね。すみません、結局の所、よく分からないんです」

語尾を曖昧に濁らせた名畑に僅か微笑みかけ、矢萩は視線を向坂に戻し、問う。向坂は仕方がないといった風に眉を顰めると、「私は母に抱かれ、父を見送っているのがはじめです」

向坂の父は外交官だった。幼い頃から殆ど家に居ず、顔も合わせなかった父と言う人物は、向坂の中では無用の存在なのだろう。存外あっさりと言い放った向坂に向かい、静かに目を伏せ分かったことを伝えた矢萩が、どこか懐かしむように口を開いた。

「私は、暗い部屋の中だったよ。いや、部屋なのか自体、今となってはよく分からない。コンクリート打ちっぱなしの床や壁には赤黒い染みがこびりついて、裸電球の微かな光を頼りに人間が居た。人数はまちまちだ。多いときもあったし、私しかいないときもあった。男もいたし、女もいた。どんな人間にも共通していたのは、あの狂気くらいだろうな。

地下にあったのだろう。部屋の壁にはいつも結露が玉を作っていた。時には覚めるような朱に染まるその結露で絵を描いて、ただ時間を潰していたよ。その部屋に沈殿する空気は人いきれを溶かし固めたように滞留して、時には流れ出たばかりの血液の臭いを、時には大麻などのドラッグの悪臭を取り込んでいた。精液のきな臭ささえ混ざっていたことがある。

それが私の最初の記憶だ。

後で知ったことだが、どうやら私は、当時の裏社会で実権を握っていた組織の幹部の遺伝子を継いでいたらしい。と言っても、裏社会は順位の入れ替わりの激しい場所だ。結局のところ、よくは分からない。この血のおかげで、後に苦労もしたし、命拾いもしたよ」

嘲笑した矢萩の手元で、握られていたチョコレートのチューブが床に落ちる。只管に笑い、乱れた前髪を片方しかない手で書き上げながら矢萩は見上げる目を向ける。

「分かったか? 私が知っているのはここまで。私は自分が幼い頃何処で育ってだれが親だったのかすら知らない。分かっているのは『裏組織の幹部の子』という汚れた血の肩書きだけだ。それ以上は何も分からない。私が警視庁に入った直後、組織は解体。今では組織名も分からない始末。もちろん、学校にさえ行っていなかった。

今お前が言ったのは、当時の裏社会を滅ぼすためのパイプが欲しかった警察が、私を内部に取り込むために偽造させた偽りの経歴だ」

 想像を絶する言葉の羅列。思わず名畑の口から、「異常だとは……思わなかったんですか……?」という言葉がこぼれた。喘ぎに近い問いに、ふと悲しげに目を細めた矢萩がぼそりと呟く。

 「正常を知らない者は、異常だと感じはしないよ」

 「では、何故飛那火に……」

 信じていた記録に裏切られ、反射的にそう口を開いた向坂の額を冷や汗が伝う。精神的には恵まれていたとは到底言えない幼少時代を送っていた向坂にとっても、目の前にいる見知っているはずの男の過去は、想像をはるかに超えていたのだろう。興味本位だけではない、真摯にその過去を聞き、受け止めようとしている光を見、矢萩は再び静かに目を閉じた。

 「その中から助けてくれた人がいたんだ。その人の故郷だと言っていた。意志の強そうな女性で……私を本当の子のように愛しんでくれた。初めて名をつけてもらったのもその時だ。

 たしか、彼女が言うには、十。私が十歳のときだったか」

 今考えると、無茶なことをしたと思う。

 薬物にまみれ、正常な判断をなくした組織とはいえ、当時の裏社会の頂点に君臨していたものたちだ。その中から、かれらの失態となる幼子を、女手のみで連れ出すなど、並大抵な労力ではなかっただろう。しかし、彼女はやり遂げた。何も知らない矢萩を連れ、遠いこの離島まで逃げてきたのだ。

彼女は何者だったのか。孝介の心の中に常に存在し、今となっては分かるはずのない問いであった。

 逃げ隠れるように島への連れて行ってくれるという漁船に乗った孝介の目に、始めてみる満天の星が怒涛のように流れ込んだ。見たことのない風景。四角い、人間の汚濁を吸った箱にしか世界が無かった孝介の目に、その他愛ない光景そのものが一種の宗教画のように映っていた。

そんな時、遠くで小さな破裂音が響く。振り返った孝介の目に映ったのは、眩いばかりの大輪の花火だった。その命が散る一瞬に、煌々と輝き、暗い海や古ぼけた船の形状、傍らに立つ女性の姿と、その世界の中心に居る自分を複雑に照らし出し、色とりどりに彩る。

矢萩はその時、彼女が「今日は祝賀際だったのか……」と懐かしげに零したのを覚えている。

誰もが心躍らせる壮大さと美しさを前に、矢萩の心は静かに音を立てた。あまりにも儚く、悲しげに映っていた。

一瞬だけ、星々の輝きを奪い、絶対的な光を与える花火。しかし他人の心には映りこまない悲しみが、矢萩の心の中に浸透していく。強烈であるが故、すぐさま消え姿を失っていく。輝きを奪われた星はその光が失せると再び淡い光を何万年も、何千万年も放ち続ける。その姿が幼子のように世を知らない心にじんわりと滲みていった。

 不意に、今まで押し黙っていた女性が消え入るような声で微かな旋律を紡ぎだした。優しげなその静かな歌声は理解できない言語を駆使して紡がれていたが、どこか宗教的な悲しみを秘めた響きを帯びている。

ゆっくりとした横揺れを受けながら闇夜を切り開く小さな箱舟の中を、時折眩いばかりの幻の太陽が色とりどりに長い影を作る。その中で流れ出る悲しげな歌が幼い孝介の世界に染み入ってくる。

 すっと目を閉じてみると耳に届くのは小さな歌声と遠くで聞こえる波の音。硝煙の微かな臭い、そして時折閉じた瞼を刺し目にしみる花火の光だけである。

 「だからこそ、壊して欲しくないんだ。私の罪なら、ここでゆっくりと償うよ。……花火と一緒にね」

 切り落とされた片腕を懐かしむように撫で、矢萩が零す。じわりと染み出した沈黙が、任務で来ただけである名畑以上に向坂の口を閉ざしていた。

ホールで客の雑談に微笑を零している花火を見つめ、「ここはいい」と続けた。

 「ここは東京と違って、“生身の人間”がいる。花火もね、本当はどうしようかと思ったんだ。話すことが困難だからね。でも、この島の人たちは違った。あの日、後ろ暗い私たちを受け入れてくれたように、あの子の事情も受け入れ、消化して見せたんだ。今となっては、たまに来る観光客が花火に食って掛かったとしても総出で弁護してくれるしね。

 東京が無関心で人の過去を消化し、受け入れる場所だとするなら、この島は仁義。人と人の繋がりだ。だからこそ、私たちはこの生活を壊したくない。幸せだと言ったら傲慢かもしれないが、少なくとも今まで生きてきた中で、警察で働いていたときさえなかった満ち足りたものを与えられている」

 姿勢を正し、名畑と向坂に向き直った矢萩の顔はどこか清々しい。二人が条件反射で姿勢を正すと、上司の顔を覗かせた矢萩がゆっくりと頭を下げた。

 「力になれなくて悪いが、協力はできない。私にはあの子が、あの子と過ごす今の時間が大切なんだ」

 たった一年間で終わりを告げた自分の優しい記憶を封じ、その片鱗でも側にある小さな存在に与えられるなら。肩書きも、壮絶な過去さえも払拭させる、当たり前の父親の姿がそこにはあった。

 すでにOBとはいえ、元警視庁のキャリア。自分よりもはるかに高い地位にあった男が惜しげもなく頭を下げるのを目に、思わず目の前に立つ向坂の顔を窺った名畑の耳朶を、悔しげに歯を噛み締める音が届く。ぎっと歪められた口元を緩め、向坂が「頭を上げてください」と吐き出した。

上げられた矢萩の視線と向坂の視線が絡む。と同時に大きく開いた距離を一気に詰めた向坂が、力の限り矢萩の胸倉を掴み上げる。

 「今日はこちらも引き下がりましょう。しかし、我々の肩には東京若しくは日本、しいて言えば世界全土の人間の命がかかっているのです。何度断られても諦めません。私とともに戦ってください。他人のためなんかじゃなくていい。貴方たちの安息のために」

 頭一つ大きい矢萩を挑戦的に見つめ、向坂はゆっくりとその手を放す。

 「自分の不始末は自分で片をつける。それが「TWD」の掟のはずです」と呟き、静かに踵を返す。一部伸びた髪がふわりと風に舞った。その背に優しげな視線を送り、矢萩が呟く。

 「公安部は、私にとっての左遷だった。君たちにとっては違っても、血で繋がる組織という利用価値を失った私に対する暗黙の『警告』だ。「TWD」の現場指揮として任が下りたのは、過去を偽造してまでも私を内部に引き込んだ人間の、最後の抵抗だったのだろう。結局、警察社会も上意下達。我々の知らないところで多くの利得が擦りあわされ、薄暗い駆け引きが展開されているんだよ」

 諭すような言葉に答える事無く出口へと足を踏み出した向坂に、慌てて名畑が続く。背後から響くのは、彼が見てきたという社会の闇、それに属する彼自身に対する皮肉めいた笑いだろう。

再びホールへと足を踏み入れると、花火と呼ばれる少女がこちらをじっと見つめていた。

 連れて行かないで。そう言っているように。

 あまりにもまっすぐなその視線に、見返すことが出来ず名畑は視線を外す。知らないところで多くの利得が擦りあわされ、薄暗い駆け引きが展開されている――。矢萩の吐き棄てた言葉が、羅列をつくり名畑の頭に鎮座していた。ひいては、日本という社会全てに言える言葉が。

そう思うと、その只中に存在している自分が、やけに汚らわしい無力なもののように思われて、思わず唇を噛み締める。

この島には、そんな穢れが存在しない。少なくとも、外部から持ち込まれない限り市民のところまでは届かないだろう。自分たちが、その発端となっている。

先を歩く向坂の背を、名畑は逃げるように追った。扉を開くと、あのベルの軽い音が響く。波の音が一層近くなる。一歩店の外に踏み出すと、ひやりとした潮風が頬を伝う。

ベルのなる音ともに扉が閉められると、店と外部の境界線がきっちりと引かれ、名畑の内部を責めるような色を溶かしていた空間から引き離された。

 

 

2006,8