:停滞した島:

 

 

沖縄県、飛那火(ヒナビ)島。沖縄本当から一路石垣島へと航路を辿り、そこから船を乗り換え十分程度本土方面へと戻った位置に位置する小さな離島だ。他の島々に比べ観光名所もなく、観光客さえ殆ど来ない島には、連絡船が日に二本通じているだけである。

轟々と波を切り、風をかき分ける音を響かせ、小型の連絡船は着実に波間を進んでいた。遠くには、霞んだ島の姿さえ捉えることが出来る。半日近く座ったままで移動していた身には、ようやっと辿り着いた安息の地に深くため息が漏れた。

不意に船尾を振り返った彼の目に、一人の人物の姿が映る。きっと強い目を海の彼方に向ける姿は、それだけで戦地に赴くような気迫が感じられた。

その姿を目に暫く声をかけるか否か迷うも、彼は半ば諦めたように「どうしたんですか」と話しかけた。

不意に振り返った目に灯っていた光が薄れ、一部長く伸ばされた髪の毛が風に煽られ踊る。

「いや何も。昔のことを思い出した」

目の前で目を細め笑った女性――向坂瑞穂がそう口を開く。それ以上詮索することもできず、「そうですか」とだけ呟いた彼、名畑勇一は手にした黒い携帯電話へと視線を落とした。もうすぐ電波も届かなくなる。無意味な箱と成り果てる相棒であった小さな精密機器に手を触れると、静かに電源ボタンを押し、光る画面を切った。

ぱちりとちゃちな音を立て、役に立たなくなった小箱を閉めると、手にしていた鞄へと直しこんだ。

「この前、彼女にふられたんですよね。ヤだなあ、傷心旅行みたいで」

わざと場を和ませるよう口を開いた彼には、この任務がいかに大掛かりなものであるのか分かっていた。上司に命じられ海外旅行用のトランクに四、五日分の荷物をまとめてきたのが昨日のこと。夜を徹した移動に辟易しながらも、運んだ大荷物は船の客室に置いてもらっている。と言っても、この船には彼らのほかに乗員は、買出しに出かけていたらしい島民が三人程度乗っているだけだった。

彼の上司である向坂の見つめる先に視線を走らせ、目を細める。

この先に、何があるのだろうか。彼女にはこの静かな島に、何が見えているのであろうか。

不意に隣に立っていた影が踵を返し、名畑へと背を向ける。「冷える」と一言残し、船室へと続く甲板を歩き出した。

しばしの減速の後、古ぼけた桟橋に横付けされた連絡船の階段を、二人分の大荷物を抱え、息を切らしながら下りる。しかしこんな事、所轄勤務時代には当たり前のことだったので、名畑にとってあまり苦痛とは言えなかった。それだけ、上下関係が厳しい場所に身を投じているのだと、そういうことだ。

何とか桟橋に降り立つと、迎えに出ていた島唯一のホテルの従業員が、向坂の姿を見つけ、駆け寄ってくる。「お待たせしておりましたあ」などと猫なで声を出し、そそくさと名畑から荷物を奪ったところを見ると、めったにない客に逃げられまいと必死なように見えた。

「遠いところから、お疲れでしょう。部屋に帰られてゆっくり休息を……」

そこまで言いかけて、洗いざらされた半被を身に着けた奇妙な格好のホテルマンを静止するように向坂が島の表通りへと歩き出す。

「荷物だけ持っていって。行くところがあるから」

迷いなく歩く向坂の背を見つめ、ホテルマンは一瞬きょとんとしたが、すぐさま「わかりましたあ」とあの気味の悪い猫なで声を立てる。

「では、荷物はお部屋にお運びしておきます。どうぞ、ごゆっくり楽しんできてくださいまし」

そう言い二人の背に向かって深々と頭を下げたホテルマンに、名畑が会釈を返しながら内心何をみるって言うんだと毒づく。本当ならこんな島、一生来ることもなかっただろうに。

一足先を歩く向坂に、何故かいつも遅れをとる名畑が半ば駆け足になりながらついていく。メインストリートだと言うのに並ぶ店はどこか一昔前の風潮を宿し、都会育ちの名畑は、所々補正の行き届かないコンクリートの道路に足を取られた。

飛那火のメインストリートを抜けると、そこは広がる限りの海岸だった。東京の澱んだ海しか目にしたことのなかった名畑にとって、このマリンブルーの輝く水面は始めて目にしたときは驚きと、果てしない歓喜を感じたものだ。

絶え間なく打ち寄せる波打ち際に飲食店なのど立ち並ぶ小さな小道が広がっている。おそらく夏ならば海の家がそのこじんまりとした懐に、人々の喧騒を抱え込んでいるのだろう。しかし、観光に来るにはあまりにも時期が外れすぎていた。

まるで見たことでもあるように迷いなく進む向坂の背を慌てて追いかけ、肩からかけていた大き目のショルダーバックを握りなおす。

横一列に並ぶ建物に一瞥を送り、只管に歩を進めていた向坂が、ある一軒の店の前で足を止める。

「カフェ&洋菓子店」と書かれた若干新しい看板を見上げる向坂を見つめ、名畑は訝しげに眉を顰めた。まさか、こんな所まで菓子を食べに来たわけではあるまい。それならば任務ついでの息抜き……? それにしては、看板に向けられる意を決したような視線はおかしかった。

「行くわよ」と一言声をかけ、飾り彫りの施された扉を開いた向坂に、名畑が慌てて続く。いささか乱暴に開いた向坂の頭上で、来客を知らせるベルが軽快に鳴った。

店内に陣取っていた客たちが、一斉に向坂たちを振り返る。一瞬びくついた名畑とは対照的に、一通り辺りを見回した向坂は、「案外客がいるのね」と呟き、無遠慮に店内に足を踏み入れた。疑惑の目を向けられるのも構わず、ズカズカと奥の調理場へと向かう。丸い覗き窓を備えた木製の扉を押し開けると、向坂は中に居た人間たちを見据えた。

「警視庁です。矢萩孝介、貴方にしばしご協力願いたい」

手にした警察手帳を開き、写真つきの身分証明書を掲げると、調理台の前に立っていた人物が落としていた視線を上げた。

「警視庁ね。東京管轄さんが、こんな辺境まで何の御用でしょうか」

くすりと温和な笑みを浮かべ、突如乱入してきた無法者に向き直った男が口を開いた。その隣には、十五・六の少女が若干驚いた目をこちらに向けている。

しかし、名畑が驚いたのはそんなことではなかった。彼、矢萩と呼ばれた青年には、左腕がなかったのだ。支えを失ったようにだらりと垂れ下がった袖口が、邪魔にならないよう背に回された紐で括られている。残された右腕が、手にしていたチョコレートのチューブをテーブルへと置いた。

「ここは沖縄県の管轄のはず。貴方たちは関係はありませんよ?」

冷静にそう言い放った矢萩に、怯まず向坂が語尾を強くした。

「本件は、全国捜査となりました。よって、責任者の我々も各県を跨ぎ各県警へと指導・情報収集に回れます」

向坂は、懐から一枚の紙を取り出し、矢矧の前に示した。

「貴方に、捜査協力を申し入れたい。これは警視庁、ひいては警察庁長官の判断です」

どこか挑戦的な視線を向ける向坂と、柔らかな笑みを浮かべ、見つめ返す矢萩。何故突然こんな離島に住む一般人へと捜査協力を呼びかけるのか、それも名畑の創造のつかない上層部からのお呼びがかかるのか見当もつかない。突如降って湧いた構図に、名畑がおろおろと視線をさ迷わせていると、それに気がついたらしい向坂が、咳払いを一つ漏らした。

「紹介する。彼は名畑勇一。私の新しい部下だ」

向坂に示され、反射的に頭を下げる。それに目を瞠ると、矢矧は「偉くなったんだな」と一言漏らし、再び温和な笑みを浮かべた。

「名畑。彼は矢萩孝介。私の元上司であり警視庁公安部『TWD』の現場指揮権を持っていた男よ」

ずらりと口にされた単語に、名畑がついていけず間の抜けた声を出す。その反応にくすくすと笑い声を上げながら、矢萩が手を差し出した。

「矢萩孝介だ。と言ってもすでに前線からは退いて、この島で店を経営している。こっちは『花火』。花火、ご挨拶は」

差し出された手を握り返し、指し示された方向へと目を移すと、あの少女がぺこりとお辞儀をした。「悪いね。喉を痛めているんだ」と付け加えると、矢萩は握っていた手を離し、再び目の前に鎮座する小さなケーキへと向かいなおした。

「向坂。残念だけれど、私は辞退するよ。私たちには関係のないことだ」

片方しかない腕でチョコレートのチューブを握りなおすと、側に立っていた花火がケーキが乗せられた皿に手を添える。片腕だけで器用に複雑な模様を作り出していく矢萩に合わせ、彼の欠けた腕のように寸分の狂いもなく少女は動いていた。

作業を続ける視線を上げることもない矢萩に、痺れを切らしたのか向坂が「彼についてでもですか!」と半ば叫ぶ。その途端ピクリと反応した指先が作業を止め、どこか冷たい印象を持つ瞳が上げられた。

「彼が……?」

訝しげに細められた目に宿った光が、向坂には懐かしい上司の視線に変わる。しかし彼女の期待とは裏腹に、矢萩は次の瞬間には真剣だった表情を崩し、嘲笑に似た笑みを浮かべた。

「それがどうした? 私にはどうせ、関係がないよ」

「職務放棄ですか……?」

咎めるように歪んだ向坂の瞳を見つめ返し、矢萩は凍りついた瞳のままで笑った。

「職務……? すでに警察をやめた私がか? 私には、もうすでに縛り付ける鎖は無いはずだが。それとも、国家権力は守るべき国民にも鎖をつけるようになったのか」

今までの温和なオーラは一瞬で消し飛び、向坂の影に立つ名畑さえ震え上がらせた。それでもそんな変化に慣れていたのか、向坂は臆せず真っ直ぐに矢萩を見つめていた。

「あの日、貴方は私たちを裏切った。おかげで我々の存在意義は崩れかかり、警察は持てる力を全て利用して不安の芽、全てを取り除かなければならなかった。

その後、我々国家の番犬がどのような末路を辿ったかはよくご存知のはずです。チームは解体され、警察内部に残ったものは私だけでした。貴方の力が必要なのです。今、日本という国家の中で、戦える牙を持ち、その危険を知っているのは私と貴方しか居ない。だから、警察は……日本国は貴方に再び協力して欲しいのです。再び訪れる「NEO」の脅威を未然に防ぐために……!」

じりじりと何か目に見えないものが滞留し、その場にいるものたちの肌を刺す。

その中で突然、名畑の背をゾクリと悪寒に近い感覚が駆け抜けた。本能的な恐怖だったのかもしれない。急に肺を握られたように息が浅くなり、頭に血が上る。その中心に立っていた矢萩の背後で、眉を顰めていた花火が目を細める。その様子に気がついたのか、矢萩が花火へと振り返ると再び優しげな笑みを浮かべ、「大丈夫だよ、花火」と頭に手を置いた。

途端に急に息が出来るようになる。必死で足りなくなった酸素を取り込みながら、名畑は出来る限り平穏を保っていた。

「これを持っていってくれるか? そう、相沢さんのところだ」

調理代の上に置かれたケーキを指し示すと、花火は一瞬不安そうに矢萩を見上げたが素直に頷き、二人が横に避けた扉を潜ってホールへと足を向けた。軽い足音がどこか不安げに遠ざかっていく。一つのテーブルへと手にした皿を置き、気さくに話しかける顔馴染みの客に、ほんの少し微笑みを取り戻した花火が首を傾げるのが見える。その光景を愛おしそうに見つめ、矢萩が不意に口を開いた。

「誤解しないで欲しい。私はただ、ようやく……故郷であるこの島で、過去の清算をしようと思っているだけだ。誰にも邪魔されず、ただゆっくりと時が過ぎれば良いよ」

それが警察では出来なかった、と付け加え口を噤んだ矢萩に、一瞬驚いたように目を瞠った向坂が向き直る。

「故郷……ですか……?貴方の出身は、東京都のはずです。警察資料にはそうありました」

半ば食って掛かるように呟いた向坂の脳裏に、懐かしい記憶が蘇る。極秘が絶対条件の公安内とはいえ、彼、矢萩は現場で最も実権を持つ人物であった。同士討ちを避けるためにも「TWD」内部での仲間、特に指導者として立つ立場の者のプロフィールの暗記は実質上必須であった。その中でも覚える必要のない出身地を覚えていたのは向坂が昔、「TWD」における重要な立場にあったからだった。幾つも積み重ねてきた数多の記憶の中から、書類の中に見つけた彼の経歴には、確かに「東京都出身」という文字が整った字で記されていた。

その問いに伏せた目を挑戦的に上げた矢萩がくっと口元を歪める。彼が他人、若しくは己自身を嘲っている表情だ。

軽く肩を竦めた矢萩が、無造作に転がったチョコレートのチューブを拾い上げる。半分ほどに減ってしまったその茶の内容液を蛍光灯に透かし、片目を瞑り見つめる。それはまるで、子供が鮮やかなビー玉を太陽に透かすような純粋さと、その奥に潜む底知れぬ悲しみを通過させていた。

「向坂。お前が知っている私の経歴とは何だ?」

戸惑い、思案の色を浮かべた向坂に、「気にしないから」と呟き、視線を戻す。その問いかけに観念したのか、向坂の伏せられていた長いまつげが上げられた。

「某一流大学を優秀な成績卒業後、Ⅱ種キャリアとしては若干遅い二十五歳で警視庁入り。後に裏社会を取り締まるようになりその手腕から巡査部長、警部補、警部と順調に出世。あのヨコイマ事件も担当していらっしゃいました。警視になったのは、同期のものたちどころか同い年の先輩さえ追い抜く三十二歳で任を得ています。その後は本人の意向により公安部へと移動、新たに創設された「TWD」の現場指揮者となっております」

違いますか? と覗き見るように視線を送った向坂の目に、矢萩の物悲しげな瞳が映りこんだ。「合っているよ」と紡がれた上司の言葉にホッと胸をなでおろしたのも束の間、「建前上はね」と皮肉めいた声が続けられ、反射的に身を堅くする。底なしの深海の色を溶かした瞳の中に、昔懐かしい狂気を見出し、総毛立った。

 

 

2006,8