「何故……っ!」

 男の下から這い出た矢萩がかかった血を拭うのも忘れ、室内へと転がり込む。今まで矢萩が押さえつけられていた場所には、今や自由を奪っていた男が血溜まりの中、苦しそうに横たわっていた。荒い息を整える間もなく、再び銃へと手を伸ばしかけた男へと、廊下から新たにやってきた人物が震える銃口を向けていた。

 「何故、今更我々を裏切る……っ!お前も同じかあ!」

 ビクリと震えた銃口が再び引き絞られ、「あんたたちが悪いんだ……」と消え入るような言葉を発する。おそらくは新たに組織に入った人材であろう歳若い青年が、震える引き金に力を込める。

 がんっ!と耳を劈くような破裂音と共に火花が散る。しかしそれは彼の前に倒れる男を貫き、血の花を咲かせるだけでなく、もう一つの血潮を流させる。数秒差で青年自身を貫いた弾丸が、その細い身をいやおうなしに砕く。矢萩が反射的に背後を振り返ると未だ煙を吐き出す銃を片手に猟奇的に笑う秋口の姿があった。

 「悪いね。最近は同士の質が悪い。道に迷い、世界改革という壮大な計画につられて来た半端モノだ」

 自嘲気味にそう言うと、秋口は銃を持たぬ左手を二人の方へと差し出す。

 「輝、帰っておいで。計画はもう少しで成るんだ。また一緒に社会を浄化しよう?」

 差し出された手を恐怖の混ざった眼差しで見つめ、輝はきっと威嚇の目を上げた。

 「いや……!孝介は、私にもう殺さなくてもいいって言ってくれた。私は……もう、だれも傷つけたくない!」

 その燐とした瞳が、息絶えた二人の人間へと注がれる。

 「この人たちだって、死んで欲しくないって思ってた人が居たはずよ!」

 握られた刃が意思を持つように輝く。その折れない確固とした意志を前に、秋口が驚いたように目を見開く。下げられていた銃が握り締められ、忌々しげに表情が歪む。

 「お前まで……あの娘を裏切るのか……?血の繋がったお前まで……!」

 あの日、自分で自分を殺してしまった愛しい人……。お前の母を裏切るのか?輝……!

 

 撃つような雨。空を覆う雲は限りなく厚く薄汚い色をし、そこから落ちてくる数多の雨粒は社会から排斥された暗黒面の欠片のようだ。しかし叩きつけられる社会の汚物にも目もくれず、彼、秋口光範は転がるように走っていた。傘も差さず、雨粒でどろどろになりながらも一つの目的のために走っていた。

 ただ、あの娘を助けたい。その一心で。

 その先に交番の文字を見つけ、天の救いとばかりに駆け込む。小さな造りのその建物には、二人の警官らしき人間。彼らは突如駆け込んできた秋口に心底驚いたようだった。

 「どうした? そんなに濡れて……」

 「まあ、とにかく奥に入りなさい。タオルでも……」

 膝をついた秋口へと心配そうに覗き込む二人の警察官。秋口は上がる息を吐き出し自らの下に広がる水溜りを霞む目に移すと、意を決して一人の警官にすがりついた。

 「助けてください!強盗に……佳代が強盗に襲われたんです!」

 その後はあまり覚えていない。事情を聞かれた気がするが、何をどう説明したのかも見当かつかない。

 彼には、結婚したばかりの妻がいた。名を佳代。とても可愛らしい純粋な子だった。念願の子も恵まれ、幸せな時がやっと訪れたのだと心底安心したものだ。しかし、妊娠二ヶ月に入った矢先、あの事件がおこったのだ。理由や動機はよく分からない。家に押し入った男に佳代は襲われた。

 普段なら凶悪犯罪の典型とはやし立てられ、トップ記事としてニュースを騒がせるほどの事件である。しかしその時、日本中はヨコイマとかいう新興宗教団体のテロ紛い事件に釘付けにされ、警察が殆ど駆り出されていた時代だった。案の定、どのニュースも彼ら一家を狂わせた忌々しい事件は掃き捨て、対応した警察もしかめっ面を返した。

 『お子さん、流れなかったんでしょう?』

 『だったら、こちらも全力で調査しますから、ね』

 このとき初めて知ったのだ。この当時、婦女暴行という社会的にも憎らしい事件が軽い部類のものとして認知されていたことを。

 今考えると、対応した警官たちも疲れていたんだとは思う。死人が何人も出ている将来的にも危うい事件と、死人の出なかった事件とではやはり死人が出た方を優先したがるのも分かる。しかし、その時の彼にはそんなことまで思う余裕はありはしなかったのだ。

 唯一の救いは、犯人が捕まったことか。金品狙いで押し入ったらしいその人間のクズは、終始笑みを浮かべていたそうだ。

 彼の願いも空しく、その一年後、彼が守りたかった女性はあの時宿していた子を産み、自分で自分を殺してしまった。そして、じりじりと確実に彼の身を焦がしていた憎しみや憎悪が、後に具体的な形となって表れることとなる。

 世界の救済。腐りきった日本を正すことによってのみ達成される日本人救済計画の実行を。

 

 手元が震える。熱い壁で仕切られた隣の部屋から絶え間なく響いていた銃声が、いつの間にか止んでいた。名畑はいぶかしみながらも手にしたフロッピーディスクをインストールする作業を開始する。了解を示すエンターキーを押すと、突如静まり返っていた隣室との扉が豪快に開く。盛大な音を立て、崩れ落ちた。弾けとんだ蝶番が落下し、悲鳴を上げる。何時の間に付けられたのか眩いばかりのライトが体を支える人物の輪郭を浮き立たせていた。青い瞳。ということは、向坂はやられてしまったのか……?

脂汗の浮いたその人物は、荒々しく息を吐き出すと一歩を踏み出そうとついていた手を離し、体を滑らせる。しかしその直後、劈くような銃声が室内を駆け、入り口を塞いでいた女性の腹を貫通した。倒れこむ人影の後ろで、片腕を力なく垂らした血まみれの向坂が銃を構えていた。

 「デリートしなさい!早く!」

 怒鳴った向坂の体勢が崩れ、苦しげに顔が歪められる。床に倒れた人物が再び銃に手を伸ばすのが見え、名畑は反射的に銃を蹴った。カラカラと音を立て、反対側へと転がった銃が止まると同時に、エラーを示す警告音が室内に響き渡る。咄嗟に振り返った名畑と向坂の耳に、倒れこんだ女の奇妙な笑い声が聞こえてきた。

 「残念ね。どうやってワクチンを作ったかは知らないけど、もうすでにケルベロスは改変済み。あなたたちの頼みの綱は切れたわ」

 異様な高笑いと、コンピュータの発する警告音が室内を満たす。しかしその笑いも次第に消え、むせび泣きに近い小さな喘ぎ声に代わっていった。

 「結局……私もあの人も社会からは排斥されるのね。私は……ただ、誰かに認めて欲しかったのに……」

 唯一彼女の実力を欲し、認めてくれたのは秋口だけだった。ただ捨てられるために生まれ、孤独に孤児として育った彼女に出来る精一杯。社会になど受け入れてもらえなかった自分を、人間として受け入れてくれた人のために、自分は何も出来なかった。痛みをもって社会に恐怖を知らしめる。唯一彼女を受け入れてくれた秋口のために、その目的の一端を担った。しかし、その目的も果たせなくなった今、今まで生きてきて自分が残せたものはあったのだろうか?

 「あなたがどんな人生を送ってきたかなど知らない。でも、あなたほどの腕を持ってさえいれば他にもやりがいはあったはずよ。こんな、無意味な人殺しをする以外にも」

 傷口を押さえ、見下ろしてきた向坂がそう呟く。

 「無理ね。私には少なくとも日本人ではない何者かの血が混ざっているもの。皆、気味悪がって逃げていく」

 「だったら警察に入れば良い。警察といえど、元は体育会系の集まりよ。面倒なことは上に任せて、私たちは決められた仕事をすれば良い。そんな集団の中では実力がモノを言うから、自分の実力さえ示せば案外素直に受け入れてもらえる」

 「根本は男尊女卑だから、そこは覚悟しなきゃだけどね」と付け加えた向坂を、女性が驚いたように目を瞠る。瞳の青が僅かに陰り、やがて自嘲気味に笑った。

 「でも、私はもうすでに罪を犯した。受け入れてもらう権利もないのよ?」

 「警察が駄目でも、世の中には受け入れてくれる人間はたくさんいる。そんな人たちを殺してまで得られる平和なんて、私なら要らない」

 それに……と続けられた言葉に、女性が僅かに血溜まりから顔を上げた。

 「日本はきっと、受け入れてくれる。そうやって人間は分かり合って、やっと平和な国家を造ったんだもの」

 何もかも許すような優しい光をその目に見、女性は暫く目を瞑る。再びそのスカイブルーの瞳を覗かせると、意を決したように身を起した。歯を食いしばり、言うことを聞かなくなった肉体を引きずる。動き出したことで刺激されたのか、腹にあいた傷口から大量の鮮血が溢れる。地に朱の線を引き、名畑の立つコンピュータの前まで這うと、血に濡れた手をキーボードへ向かわせる。「変えたのは一部だだけ。だったら、ワクチンもほんの少し変えるだけで事足りるわ」と呟くと、感覚の通わない指を動かし始めた。

 思わず駆け寄ろうとした向坂を怒鳴り声で制止し、苦手なぎこちない笑みを浮かべる。

 「最後くらい……国の役に立ちたいじゃない?」

 自分は今まで何をしてきたのだろう。相当回り道をして、逆に多くの人を傷つけたのか。だったら最後くらい、最後くらい誰かの役に立ちたい。一人でも私がやったことを覚えておいてくれれば、それだけで私が存在した意味はある。生まれてきた理由になるのではないか。

 その意志を汲み取ったのか、戸外に立つ向坂がたじろぐ名畑へと声をかけ、踵を返す。その背を僅かばかり見送り、彼女は組まれたプログラムへと目を通した。

 「ここまで解析されてたなんてね……」

 中途中途にいくつかの短文を入れ込み、再び起動させる。すると今まで薄ぼんやりと浮かび上がっていたケルベロスの姿が凝固され、一つの結晶体になる。軽い破壊音と共にはっした結晶体が、一瞬にして砕けるとデリートのそっけない文字が画面を埋め尽くした。

 途端に体から力が抜ける。ぞくりと背を這う悪寒に、たまらず地面へとずり落ち、血の滴るコンクリートに頬をつけた。

 

 もう輝を取り戻すことは諦めたのか、秋口が猟奇的な笑みを浮かべる。足元から取り出した小さなビンを掲げ、動きを抑圧された輝へと視線を移した。

 「どうも二対一では分が悪い。俺たちにはジークフリートに対する抗体があるが、さて……彼らはどうかな?」

 秋口の視線の先には、たじろぐ矢萩。ちょっと待て。この建物内には、彼の仲間も、向坂や名畑さえいる。抗体を持たない彼らがジークフリートを吸ってしまったら……!

 予想できる限りの最悪の結末に、輝は首から吊るした通信用マイクを引っつかみ、通話ボタンを押し込んだ。

 「お願い!急いで逃げて!」

 その先に、電子音が混ざった向坂の驚きの声が響いたが、その後の銃声にかき消されることとなった。輝の手から見事に通信機だけを打ち抜いた弾丸が斜めに空を裂き、壁を抉る。

恐怖の目で秋口の姿を追った輝の目に、空に投げ出されたビンが映る。手を出すまもなく落下したビンが難なく割れ、白い粒子が空気中に飛散した。一瞬にして二倍にも膨れ上がった薬品、ジークフリートが吹き込んできた風に乗って恐ろしい速度で廊下を突き抜ける。

 その直後、矢萩の右腕を一発の弾丸が抉り、痛みが走る。息を潜めていた秋口の構えた銃口が火を噴き、矢萩の掌を貫いたのだ。握られていた銃が地に転がり、思わずうずくまるとどこかで神経の弾ける音がした。

 「NEO」は、ジークフリートの力を借り、神経を食い殺す――。

 痛みを堪え、立ち上がろうと足に力を入れると、再びぶちりと鈍い音が体の中に響き渡った。

 「よくも……っ!」と吐き捨てるように叫んだ輝が、思い切り地面を蹴る。敵の腹を掻き切ろうと日本刀を振りかぶった少女の足元を、弾丸が抉る。すんでのところで火花をかわし、身を躍らせた少女へと再びいくつも銃弾が襲い掛かった。そのうち一つが彼女の肩を撃ち、身を裂くような衝撃を全身に流した。

 それでもありったけの力で振り下ろした刃を僅かな差でかわし、男は再び銃を構えなおす。しかし彼が引き金を引く前に着地した少女の身が翻り、高めの回し蹴りによって銃を叩き落した。カラカラと金属が転がる音が響き渡り、丸腰となった秋口が背後に飛び退る。反射的に追いかけた輝が追いつく前に再び銃を拾い上げた秋口が銃口を上げなおした。

確実に頭を狙う少女の刃を銃身で受け止め、受け流す。その動作を何度も繰り返すうちに、傷を負った輝は疲弊から来る焦りか、次第に大振りな構えを見せ始めた。

その技の速度、タイミングを着実に計り避けていった秋口が、これが最後とばかりに振りかぶった少女を見、微かに笑みを零した。

 最後? それは、お前の方だろう。

 僅かに出来た隙を突き、その身を横に滑らせる。一瞬にして攻撃範囲から出た男を前に、少女は己の腕を止めることができなかった。何も無い空間を血に濡れた刀が薙ぎ、背後から銃声が発する。その直後、肉体に走った痛み。至近距離から打ち出された弾丸が、少女の腹を貫通し、コンクリートの床に小さな穴を開けた。

 口内を切ったのだろうか? 僅かな血が口元から零れ、滴る。唐突に告げられた戦闘の終わりに、少女はふらつく体を何とか支え、背後で笑う男の存在に、血の滲む唇を噛んだ。

 「私の勝ちだな。お前たちは結局負けだ。計画は続行され、日本は再び生まれ変わる!」

 いかにも誇らしそうに笑う秋口に、少女がくっと笑いを漏らす。

 「終わりじゃないわ……父さんの勝ちじゃない……私の勝ちよ」

 戦う力もなくした少女の口から零れた勝ち誇ったような言葉。体を動かそうと手を伸ばした秋口の背に、突如として重みと衝撃が加わる。体を駆け抜けた痛みから、何かで刺されたのだ、と気づいた。しかし、ここには彼ら以外戦えるものは居なかったはずだ。唯一命を保っている矢萩でさえ、残った右腕を潰したはず……!

 倒れこむようにのしかかってきた男が、苦しげに息を吐く。未だ血を流し、痛みを伴う右手でナイフを握りなおした矢萩が、在るはずのない左腕で秋口の肩を掴んだ。しっかりと着込んでいたコートが肌蹴、左腕と胴体と繋いでいた包帯が引きちぎられる。絹を裂くような音に混ざって機械的な音が響く。ゆっくりと指を曲げていった矢萩の左腕を見つめ、秋口は血の零れ出た口元を引きつらせた。

 「義手……っ?」

 ふっと笑みを漏らした矢萩が、苦しそうに返事を返す。

 「北海道まで作りに行った。もっとも、細かい作業には不向きだから、日常生活では殆ど使わないがな……」

 畏怖の目を向けた秋口の肩を掴み、右手で握ったナイフに力を込める。肺まで達したナイフの切先を力の限り捻ると、肉の裂ける気味の悪い感触と共に、目を見開いた秋口の口から大量の血液が零れ落ちた。

 一瞬にして絶命した秋口の体を支えるものがなくなり、矢萩共々倒れこむ。その先で同じく倒れこんだ少女が苦しそうに咳き込むのが耳に届き、矢萩は頭を支配する破裂音を無視して再び身を起した。

 「大丈夫か、花火?」

 自由の利かなくなった足を引きずり、血の跡を引きながら少女の側に寄ると、その身を抱き起こす。力なく笑った少女の体にはいくつもの弾痕が残され、未だ鮮やかな鮮血を流していた。

 「これで……安心して、帰れる」

 そうだな、と呟いた矢萩が、止血をしようと少女の傷口に手を伸ばす。しかし、その手さえやんわりと払い、少女は懐かしそうに窓で仕切られた空を見つめる。

 「帰ろう、孝介。みんなのところへ……」

 その純粋な目の先で、小さな鳥がいくつも輪となり、飛び立っていた。

 

 

2006,8