かつかつとコンクリートに響く鈍い足音が向坂と名畑の身に恐怖を植えつけていた。ある程度の距離を置き、矢萩と花火のまん前に立った男は、まるっきり敵意のない目を向けていた。

 「矢萩警視、お待ちしておりました。警察官としてのあなたを」

 含みのある笑みを浮かべた男が、そう口を開く。向坂は内心の動揺を隠しきれなかった。

 その不安を察してか、振り返った矢萩が「安心していい」と目配せをした。呼応するように目の前の男が倒れた男の手から銃を拾い上げると、矢萩に背を向けるように構える。さらに懐から一丁の自動拳銃を取り出し、懐かしげに眺めた。青い花弁を象った蛇の紋の施された拳銃を。

 「智宏から話は聞いています。秋口は三棟五階の突き当たりに居ます。すぐ向かってください」

 ゆっくりと呼吸を始めるように輝いた拳銃のマークに、向坂が息を呑む。あのマークだ。彼、矢萩の立場を確実なものにしたあの宗教団体のマーク……。

 「そのマークは……!」

 思わず声を荒げた向坂へと侮蔑に近い視線を走らせ、男が舌打ちをする。それに変わるように矢萩がその温和な視線を向けてきた。

 「ヨコイマだと思っているんだろう? 残念だが違う。彼は残党でもなんでもない。どちらかと言うと、あちらが『残党』だったんだ。私には、彼らのような密かな協力者が多数居る。元警察官であり、今は一般人として各々仕事をこなす同志がな。沖縄であった智宏もその中の一人だ。このマークは我々が互いを識別するために付けたもの。青い桜は警察を意味し、内部に象られた蛇は『潜む者』を意味する隠語だ」

 「……だったら、それが何故ヨコイマなんかに使われているんですか?」

 ちらと色を曇らせた瞳が思案を巡らせ泳ぐ。

 「抜けた者の一人がヨコイマの幹部になっていた、それだけだ。だから私はヨコイマ事件の前線に出た。自分で起した不祥事は自ら決着をつけねばならんからな」

 そう言うと懐に手を入れる。中から取り出したのは沖縄を離れる折に、智宏から渡されていたあのフロッピーディスクだった。青い桜と蛇のマークを頂く一枚の電子ディスク。

 「ケルベロスの居所は? ジークフリートを押さえたとしてもジークフリートを使われてどこかの国の核ミサイルでも撃たれたら終わりだ。そちらが先か、もしくは同時に叩く」

 「マザーコンピュータが五棟の六階にあります。そこにケルベロス本体は眠っている」

 矢萩は「そうか」と軽く返し、暫く視線をさ迷わせる。この建物の地形は全て頭に入っている。キララ……秋口の部下に成りすましていた時、この地を調査した記憶を呼び起こしていたのだ。

 「……正反対だな」

 苦々しく呟いた矢萩へと男のいさめる目が向けられる。どちらかを諦めろ。でなければどうにも動けない。

 しかし矢萩はその目さえ見返そうともせず、真っ直ぐに向坂の方へと足を進めた。その動きを銃を下ろした花火の瞳が追う。背筋を伸ばし、柔らかな笑みを浮かべ向坂の前に立った矢萩には、戦地に赴く戦士が見せるようなある種の温かさが灯っていた。

 「事情は聞いての通りだ、お前たちが行ってくれないか。私は秋口を追う。途中まではあそこにいる聡が護衛してくれる。これは、智宏が兄である聡から送られたデータを元に作り上げた『対ケルベロス用ワクチン』だ。これを元となるデータに入れ込み、バックアップから全てデリートする」

 突如背後から小さな爆発音。その音を耳に苦々しげに「突破されたか」と呟いた矢萩の声が、向坂の手にフロッピーを握らせると踵を返す。「頼んだぞ」と続いた言葉に、一度目を伏せた向坂が力強く言った。「分かりました」

 二丁の銃を構えた聡が道の先を示す。盛大に窓を引き開けた矢萩が僅かに振り返り、背後に立つ花火もこちらへと視線を移した。

 「危なくなったら、遠慮なく逃げろ。お前たちは部外者なんだからな。私たちのことは気にしなくていい」

 そこまで言って、何か思い出したように再び口を開く。

 「お前は、俺がどうやって飛那火まで行ったか不思議がってたな。最後だと思って教えておく。船を手配し、俺を逃がしてくれたのはお前のおふくろさんだ。俺が小さい頃組織の中から連れ出してくれた潜入警察官。それがお前のおふくろさんだった。あの時から彼女のことを『死んだ』と言っていたのは、そうしたほうが互いに身を守りやすかったから。自分にも同じくらいの子供がいると言って一時的に組織から守ってくれたんだ。そのつてを使って、助けてもらった」

 「亡くなるほんの少し前だよ」と付け加え、にっと笑みとして結ばれた口元が、ひと時だけ沖縄で見せた『人間としての矢萩孝介』を垣間見るも、すぐさま表情を固め、背後の少女へと声をかけた。

 「いくぞ」

 それに答えた花火が微かに微笑みかけ、吹き込んできた強い風がその場にいた者の髪を撫でた。意を決したように窓の外へとすべり出た矢萩の後を、遅れぬよう花火が追う。その目には特攻を決意したかのような言い知れぬ力が灯っていた。

 施設の中庭を駆け抜けていく背に、容赦なく四方から弾丸が浴びせかけられる。その姿を見送り、向坂たちは先導する聡につき歩を進めだした。

 

 がたんっと倒れこんだ肉体が激しく床を打ち、大きな音を立てる。その側では両足と右肩を打ち抜かれた人間が呻き、うずくまっていた。これで倒した人数は十を超える。傍らに戻ってきた花火が血のついた腕で顔についた返り血を拭う。白い肌の上で尾を引いた朱色の液体を気にすることもなく少女は銃を構えた矢萩を見上げた。

 これで、彼らの道を阻む敵はいなくなった。

 目の前に掲げられたくすんだプレートを見上げる。『第二治療室』と掘り込まれた文字が、彼らの選択が正しかったことを示している。三頭五階、突き当たりに位置するこの治療室は、旧軍時代治療の名目とは待った区別の意図を持って動いていた血塗られた場所だ。最後の砦としてこの場所を選んだ秋口の意図を感じ、矢萩は静かに目を閉じる。手をかけたドアノブは長い年月で錆付き、ぎぃっと音を立てた。ノブを握る手に僅かな違和感に、咄嗟に手を離すと勢いよく扉を蹴破る。扉と壁を繋ぐ僅かな金具が音を立て弾け飛び、金属製のフレームが真っ直ぐに倒れる。盛大な打撃音と共に濛々と長年積もってきた土煙が舞い上がった。

 真っ白に染められ、時折きらきらと輝く埃の波を避けながら薄っすらと目を上げる。ある種の幻想的な雰囲気さえ孕んだこの限られた室内の最奥、光が煌々と差し込む窓辺に一人の人影を見つけた。

秋口……。逆光を浴びこちらに背を向けた青年が、全く動じることもなく唯そこに在った。太陽光に浮き彫りにされた口元が僅かに見え、微かな笑みを浮かべる。ゆっくりと振り返る青年の動きに呼応して空気が揺れ、窓が微かに開く。すっと吹き込んできたさわやかでどこか血生臭い風が入り口に立ちすくんだ二人の頬を撫でた。

 

 「向坂警部、図中に飛び込んだものとして一つ……一つだけ教えてください」

 先行する聡の腰で、いくつもの弾薬が跳ねる。並んで走る向坂が疑問を込めた目を向け、手にした銃のグリップを握りなおした。

 「矢萩警視の奪った物……ジークフリートをも凌ぐ兵器とは何なんですか? キララがそんなに取り戻したがる武器って……」

 一瞬伏せられた向坂の長い睫が僅かに揺らぐ。困惑と思案の色を滲ませた上司の姿を真っ直ぐに見つめた名畑に、再び視線を上げた向坂が重い口を開いた。

 「兵器としての実力はジークフリートの方が上よ。あれだけ必死になるってことは、彼にとってあの存在は精神的な影響が理由でしょうね」

 曲がり角に踏み込んだ聡の姿が一瞬にして消え、炸薬の弾ける音と薬莢が転がる破壊音が静かな廊下へと轟く。倒れこみ通路を塞ぐ敵の身を軽々と飛び越え、振り向くこともなく三人は足を動かした。

 「キララが取り戻そうとすることは十分予測できた。事実、私たちも矢萩警視がアレを廃棄すると信じていたもの。もし、彼が廃棄したとしても……その事実も全て握りつぶせる自信があった。でも彼はそうはしなかった。……まさか手元に、あんな近くに残していたなんて計算外よ……」

 横道から滑り込んできた敵を僅かな差で飛び越え、聡が銃を撃つ。額を貫き飛び散った血が灰褐色の壁に絵を描いた。

 「何故秋口が『キララ』と名乗ったかわかる?」

 その光景から目を背け、向坂が名畑へと問いかけた。

 「戻ってきて欲しかったのよ……アレに。矢萩と共にか、自らね」

 「自らって……!」

 手にした銃が重く鈍く輝く。人殺しの道具。そして、矢萩が奪ったと言うアレも……。

 憂いを帯びていた向坂の目がきっと上げられ、目に見えぬ深海を睨み付ける。それはまるで、矢萩の生い立ちや秋口の感情、そしてアレを生み出すに至った経緯を隠し持つ現代日本への憎悪に近い。

 「矢萩警視が奪って逃げた兵器の名は、『輝く』と書いて『きらら』。『秋口輝』秋口光範の実の娘にして、日本国家を脅かすテロリスト集団の中心的実行者よ――」

 

 「お帰り、輝」

 振り返った秋口が笑ったのが見えた。苦々しげに口元を歪め、眉根を顰めた少女――秋口輝が吐き出すように「父さん……!」と呟いた。あの時矢萩が渡した写真。あの写真の秋口の背後、コートを目深に被り銃を手にしていた幼い少女の姿だった。

 「長かったよ六年間が。やっと思い遂げられよう時にお前たちが逃げ出したんだからな。しかし、そんな無意味な鼬ごっこも仕舞いだ。お前たち二人、俺の元に戻って来い。どうせまだ、今の日本に希望なんてもてないんだろう?」

 意味ありげに細められた秋口の目が異様なほど輝き、口元が笑う。すると今まで影となり矢萩たちさえ意識していなかった扉の影から一人の人間が滑り出し、立ちすくんでいた矢萩を床へと押し倒し、首筋を固定する。

 ひやりとした感触が首筋に伝う。ナイフの類であろう事は反射する光の具合から分かった。「動かないでください」と囁かれた声は低く、僅かでも反撃の意を示せば迷いなく殺さんばかりの殺気を含んでいる。裏切ったとはいえ過去は共に動いた者の声。咄嗟に手を貸そうと日本刀を上げた輝に、男が矢萩の首を押さえたまま銃を向ける。思わず息を呑み足を止めた花火に微かに目を細め、カチリという音と共に弾丸を装填した。

 「生きていたの……?」

 「ええ。一般人と違い、俺は受けるダメージを軽減することぐらい出来る。たとえ、輝のものであっても」

 遠い沖縄の地で息の根を止めたはずのかつての同士が、たじろぐ輝の前にいた。「さすがにあれは重かったけれど」と続けられた言葉は、誰に対してのものだろうか?

 堪えるように笑い出した秋口が、静かにため息を吐く。絶え間なく拍動を打つ頚動脈に押し付けられたナイフに込められる力が強くなる。

 「戻って来い矢萩。私たちにはお前が必要だ」

 

 「ここをまっすぐ進め。その先が電信室だ」

 通路を指し示した聡が、すぐさま踵を返し向坂たちの横を駆け抜ける。声をかける暇もなく複雑な建物内へと消えた影を追うこともなく、向坂は目の前の扉を見上げた。ここにあるマザーコンピュータに、矢萩から預かったワクチンを打ち込む。そう、それだけだ。

 意を決し、扉を開こうと錆付いたノブへと手をかける。錠が外れる音と共に手にかかる重みが増し、ゆっくりと扉を開く。その先にあったのは見渡す限りの闇唯一つ。

 その闇の中に煌々と浮かび上がるディスプレイを見つけ、向坂は身を乗り出した。後に続く名畑が手にした銃を構えなおす。ここだって、安全とは言い切れない。注意深く室内に入ると埃っぽい空気とコンピュータの作動音で満たされていた。

 「これがマザーコンピュータ……?」

 混沌の海に浮かぶディスプレイの明かりに寄り、手を触れようと伸ばす。すると今まで沈黙を保っていた鉄の扉がゆっくりと閉まり、施錠の音と室内は完全悩みを取り戻した。思わずたじろいだ向坂へと「違うわ」と物静かな声が届く。

 「それは、バックアップ用。もしくはネット経由でケルベロスを送り込むための物よ」

 声の出元を探そうと二人は互いに背を向けあい、四方を見渡す。しかし漆黒の闇の中にはただ声が響くだけである。

 と、突然向坂の右肩付近で銃弾が弾け、一瞬だけ明るい光をもたらす。僅かばかり照らされた室内に一人の人間の姿を見止め、向坂は続く激痛に膝をつく。

 「向坂警部!」

 「大丈夫!敵、六時方向……いや、ちがう。移動した!右よ!」

 向坂がそう怒鳴ったかと思うと、名畑の体に右隣から突如大きな負荷が加えられる。何かが飛び掛ってきた、と思うまもなく地に倒された首に押さえ込むよう横にした銃身が当てられ、心臓が高鳴った。

 「名畑!」叫んだ向坂が手にした銃を構え、引き金を引く。一瞬の明るさと炸薬の弾ける音、薬莢が落ちる軽い音の後で女のものと思われる呻き声が落ちた。首に張り付いていた銃が転がり、のしかかっていた肉体が離れる。

 その一瞬の隙を逃さず、名畑は手から離れた銃を拾い上げると転がるようにデスクの影へと移動した。

 「名畑、あんたは先に行きなさい!ここは私が押さえる!」

 きっと、ケルベロスの眠るマザーコンピュータはこの先にある。苦々しげな息遣いと共にその身を起した何者かの影に注意を払いつつ、懐から取り出したフロッピーを名畑の元へと転がす。異物が地を這う音が響き、それを拾い上げた名畑が「はい!」と返事をして部屋の隅へと駆け出した。先ほどの発砲で奥に続く扉の位置は分かっている。

 思わずそちらへと振り返り、追う意思を示した影へと向坂が再び銃を向ける。行かせはしないわ。私の大事な部下ですもの。あなたは私がたっぷり遊んであげる。

 ディスプレイの僅かな明かりに照らされ生々しく光る銃身に気がついたのか、影が低く呻く。乗り出した身にディスプレイの光がかかり、その青い瞳だけが浮き彫りになった。

 

 

2006,8