:駆けろ、駆けろ、駆けろ!:

 

 

濁流のように溢れ出る情報の波へと耳を傾けながら、向坂はいらだたしげに舌打ちをした。耳障りなノイズ混じりに交わされる叫びに似た状況報告の量は、通常の二倍以上。大人気なく混乱する警察内の実情を、まざまざと同胞へと突きつけているのだった。

 「……間に合いそう?」

 バックミラーに映る自らと、運転席でハンドルを握る名畑を見る。「なんとも言えません。ギリギリですよ」とため息混じりに呟いた名畑が、気を引き締めるようにハンドルを握りなおす。後部座席、向坂の隣に腰を下ろしていた矢萩だけが、妙なほど落ち着き払い、自分だけが熱くなっているのかと苦々しげに目を閉じ、耳に届く無線の音へと集中した。

 しかし、その混乱も突如起きた雑音に、瞬く間にかき消される。ザッと強くなったノイズ音と比例し、人々の喧騒が一時遠のく。妨害電波か、と内心吐き捨て、閉じていた目を開ける。窓の外へと視線を移すと、飛び行く風景の中に巨大な電波塔を見つけた。

 ケルベロスを使うなら、造作もないことだろう。何せ、彼らはそれほどの力を持っている。

 訝しげに眉を顰めた向坂の耳に、途切れ途切れの無線音が届きだした。

 「こちら、――警!あ――方面にて不審な逃走車を発見。現場に向かっています。繰り返す、こちらし――。――……て、不振な車両を……う……うわあ!なん……っ!」

 どこか興奮気味の声はそこで掻き消え、備え付けられた無線から流れるのは聞くに堪えない雑音だけとなる。「肝心なトコだけ聞こえねえのかよ……」と吐き捨てるように呟いた名畑が、使い物にならなくなった無線機の電源を落とした。

 「どうします?上から何か言われても、これじゃ手が出せませんよ」

 「放っておけ。今の会話だと、おそらく所轄が追っている」

  アクセルを踏み込むと同時に、エンジンが腹に響く唸り声を上げる。突如点灯し、聞きなれた警戒音を立て始めたランプの明かりが、街中を異様なスピードで走る許可証となった。交通量の多い四つ角付近に差し掛かると、驚いた一般者がスピードを落とし、徐行する。前方に見えてきた十字路を抜ければ、面倒な混雑もいささか回避できるだろう、と苛立つ頭をいさめながら、向坂は騒がしくなってきた西の空を見上げた。

 彼らの乗る警察車両がさしかかろうとしている十字路から見ると、左手に当たるその道からはけたたましい程のパトカーのサイレン。同じくその様子に気がついたらしい名畑が、「何ですかね?」と鏡越しに寄こした。考えることを拒否し始めた脳に従い「応援だろう」とため息混じりに呟いた向坂の隣で、矢萩が久しく使っていなかったケータイを起動させる音が重なった。

 「いいから、急げ。キララが指定した時刻まで時間がないんだから」

 仕方無く声に応じた名畑が、再びアクセルを踏み込む。いっそう強くなったエンジン音が、入り乱れるサイレンの音に重なった。

 交通量の多い四斜線の十字路に差し掛かった時、名畑は一瞬右手前方、西へと続く対向車線に異様な光景を目にした気がした。車が全て止まっている? それも、徐行しているのではない。焦って止めたように向いている方向がバラバラなのだ。遠くに、行き来する血の色に似たサイレンの明かりを見つけたとき、突如目の前が暗く塗り潰される。

 「うわああっ!」

何か巨大な影が頭上を横切ったのだ、と脳が弾き出した途端、反射的にハンドルを切る。体にかかる遠心力と、何倍にも膨れ上がった重力が、肉体をシートへと縫いつける。東へと続く道へと頭を向け、ほぼ九十度、距離にして五メートル程進んだところで車は停止した。

 痛みを訴える節々を引きずり、叩きつけられたハンドルから顔を上げると、徐々に視力が回復し、辺りの様子が見えてくる。どうやら『アレ』を避け、立ち往生してしまったのは他にもいたようだ。四方向へと道路が組まれた十字路で、点々と車があらぬ方向を向いて止まっている。その端に、漆黒の影を見つけ、名畑は目を凝らした。次第に鮮明になってくるそれは、微動だにせずそこに立っている。すると、後部座席から宗教歌に似た戦慄が流れ出した。矢萩の手に握られた小さな箱から、機械音は絶え間なく流れ続ける。矢萩は慌ててついさっき起動させたばかりのケータイを開くと、久しく見ていなかったケータイ画面へと目を落とした。

 新着メール 一件。

 表示しますか、のボタンを選択し開いた真っ白な画面には、ひらがなとカタカナで表された一文が、簡単に表示されていた。

 『カミサキびょういん。こっちのほうが、ちかみち』

  「花火だ!追ってくれ、早く!」

 その途端、今まで沈黙を守っていた黒い影が東方向へと頭を向け、走り出す。事情も説明する前にハンドルを握る名畑へと檄を飛ばした矢萩が、訝しげに問うた向坂へと視線を向けなおした。

 「しかし、上崎病院なら北です。この道を通るのが最短経路であって、あっちは東……」

 「あの子の頭には、私道国道何から何まで、東京の地理は全て入っているんだ。我々が知らない道を知っていてもおかしくはない」

 再びエンジン音を轟かせ、東へと方向を変えた車を確認し、矢萩はケータイへと何事か打ち込む。すぐさま鳴り始めた着信音を止めると、新たに加えられたメールへと目を通し始めた。

 『ケータイ、かえしてもらってきた』

 運転席から上がった驚嘆の声が、スピードを上げるエンジンとサイレンの音に重なる。

 「何だ、あれ? 馬……っ!」

 前方を疾走する黒い影には、確かに小柄な人影が認められる。しかしその姿はあまりにも異様で、不恰好なビルばかりが目立つ東京には似つかわしくないものだった。「博通のところに行ってきたのか」と呟き、画面を見つめた矢萩に、向坂が問う目を向ける。

 「秋口の元仲間だ。私だって、無利益に逃げ出したわけじゃない。何人か、主要メンバーを引き抜き、組織から抜けさせた。彼も私と共に組織から抜けて、私物をいくつか預けていた」

 そっちの方が安全だからな、と付け加え、追いつき、並走し始めた馬上へと目を向けた。その手にはケータイ電話。さらに、ケータイの尻から伸びる一本の細いコードが馬上に跨る花火の耳元まで延びていた。

 「大丈夫なんですか? こっちは車で、しかも運転は名畑に任せていますが、あっちは……」

 不安げに言った向坂へとにべもなく「大丈夫だ」と答える。

 「あの子のケータイは受信したメールも音声として読み上げる。それに、昔から漢字変換さえしなければ、画面を見ずに、ほかの事に集中していても入力が出来るように訓練されているんだ。このくらい、造作も無い」

 手元で鳴り出したケータイ電話を目に、慌てて矢萩が窓を開く。風が吹き込んできた空間から手を伸ばすと、若干高い位置から放り投げられた物体をしっかりと受け取った。

 『おみやげ』と綴られたケータイ電話を押しのけ、しっかりと縛られた雑嚢の口を開く。隣から覗き込んできた向坂が、息をのみ何事か呟く声が耳に届いた。

 「何これ……っ」

 にやりと不敵に笑った矢萩が、その袋の中を弄る。自動拳銃が二丁と、組み立て式ライフル。手榴弾が五つと、小型の日本刀が一本、それから……。最奥に丁寧に包装され、押し込まれていた四角い物体を目に、矢萩が笑う。

 「洒落た贈り物をしてくれるじゃないか」

  苦笑交じりに銃を一丁取り出すと、日の下に掲げた。おそらく抜ける時、組織から盗み取ってきたものだろう。

 「でも、何で分かったのかしら。私たちがここを通るとは限らないだろうし……」

 「花火のケータイは特殊だ。警察車両の識別機能がつけてあるからな。各警察署から出てきた車両に対し、私たちが出てきたのは病院だった。神奈川から来る際、ある程度の目星はつけただろうが……結局最後は勘だ」

 半ば頭を抱えた向坂が、「神奈川って……馬で都心を駆け回るだけでも常識はずれなのに、スピード違反、無免許運転、道路交通法違反に加えて、よりにもよって神奈川県警……」と呪文のように呟く。運転席で前方を確認しながら、「何でそんなに悩む必要が?」と寄こす。

 「捜査上協力体制は取るけど、どうも警視庁と神奈川県警は昔から仲が良いとは言えないのよ。面倒ね……後でまた何言われるか……」

 諦めに近いため息を吐き出し、手元の鞄から自らのケータイ電話を取り出すと、短縮ダイヤルを呼び出す。何とか妨害電波の境目を見つけ、本部と連絡を取ろうとするも、願いも空しく電子機器は空しいまでの機械音を響かせるばかりだ。

 背後からパトカーのサイレンがいくつかついてくる。ぶつりとスイッチが入れられる不快な音が背後から響き、ノイズの混ざったスピーカーから、男性独特の低い声が響いた。

 「ああー。こちら警視庁。前方のしゃりょ……車両?あーもう、とにかく良いから、すぐ止まりなさい!隣のヤツ!何で何もしない!見る限り、警察車両だろう!」

 耳障りな怒鳴り声を聞き流そうと、矢萩が目を瞑りイスに深く身を沈める。ぎゃんぎゃんとわめきたてるスピーカーの声は、情報が入らなず追い込まれた状況に混乱し、我を忘れているのだろう。放っておけばじきに収まると高をくくった矢萩の隣の影が動き、運転席と助手席の間、備え付けられた機器の一つを引っつかんだ。

 「うるっさいわね!私たちも警察だけど、こっちも警察車両!分かったら、とっとと引き下がりなさい!こっちは急いでるの!」

 「はああ?馬が警察車両?都内でありえるか!少なくともそんな話、聞いたことがないね。神奈川県警からも通達がきてるんだ。誰が決めたって言うんだあ?」

 「今!ここで!私が決めた!」

 窓から身を乗り出し、手にしたマイクへと怒鳴り声を吹き込む向坂へと視線を向けながら、まるで小学生の喧嘩だな、と呆れる。どうやら人間、極限状態に陥り混乱もピークに達すると退行してしまうらしい。運転そっちのけで驚き、上司をいさめようとする名畑は置いておくとして、暫く事の顛末を見守るか、と野次馬に近い感情が矢萩の胸に芽生えた。

 「警視庁、公安部所属!キララ事件捜査本部の向坂瑞穂警部補よ!彼女は、本事件の重要協力者!宇崎本部長から全権を任せられている以上、今ここで貴方たちに引っ掻き回されるわけにはいかないの!本件から手を引きなさい!」

 でないと、どうなったって知らないから、とまで付け加えると、相手には何も出来なくなる。急に大人しくなったスピーカーと、遠のいていくサイレンの音を聞きながら、不機嫌極まりない動作で向坂が腰を落ち着けた。

 「相変わらず、気が強いな。無鉄砲と言ったほうがいいのか……」

 「仕方ありません。警察社会も結局は男尊女卑。女というだけで舐められます。だったら逆に、上意下達が徹底された組織体系を利用して、地位の高さで挑むしかない。幸い、男は女よりも地位や権力に弱いですから。伊達にここまで生き残ってきたわけじゃありません」

 にべもなく言い放った向坂へ、名畑が「もうすぐつきます」と声をかける。何処からともなく流れてくる喧騒を耳に、窓の外を眺め見る。遠目に上崎総合病院の建物を見つけ、目を細めた。ビルが並ばなくなった国道を外れ、住宅街の一角を左折。暫く進むと、次第にパトカーの姿が目に止まり始める。病院に続く広めのスロープを登りきると、多くなった人影に、エンジンが息を吐く前に扉を勢い欲開け放つ。盛大な音を立て車から飛び降りた向坂が、野次馬と同僚の警察官が入り混じる人込みへと飛び込んでいく。辺りを見回し出来る限り状況を把握すると、声を張り上げた。

 「内部の人間の避難はどう? それから……爆発物の位置と数の報告。……もしかして爆発物処理班はまだなの?爆処理は!」

 その怒声に反射的にかかとをそろえた景観の一人が、「はっ」と歯切れのいい返事を返す。

 「避難は終わっております。爆発物は、建物の西と東に一つずつ。処理班は……情報が錯乱しておりまして、連絡が取れておらず今どこにいるか分かりません。こちらに向かっていたとしても都内全てが混乱している以上、時間内に着くことができるかどうか……」

 向坂が苦々しげに歯噛みする。彼女たちも先導する花火のおかげで早々と着くことができたのだろう。妨害電波が大きな放送設備から東京全土に向けて流されているとしたら……。

 「処理班は望み薄か。時間まで後十五分。追い詰められたな」

 どこか楽しそうに鼻を鳴らし、車を降りた矢萩が離れた場所で笑う。その後ろでは、騎乗していた馬の手綱を手近な場所に括りつけてきた花火が遠くの虚空をにらみつけていた。周りを取り囲んでいた野次馬から、戸惑いに似たため息が上がる。その意味を知ってかしらずか、矢萩は片方しかない腕で悠々と手にした雑嚢を背負いなおした。

 「花火、お前は東側をやれ。私は西を当たる」

 了承の意をこめ、こくりと頷いた花火が、驚くべき速さで右前方へと駆け出す。慌て車から転がり出てきた名畑が、その背を追う。しっかりとした造りの建物を迂回するように花火へと背を向けた。

 「しかし、爆発物の処理は専門家が……」

 「私も現役時代は相当弄っていた。まあ、警察に入ってからは相当ご無沙汰だったがな」

 人止めの黄色いテープを潜り、不自然に抉られた壁の一部を目に留める。その中心に奇妙な四角い物体を見つけ、その側へと雑嚢を下ろした。億劫そうに傍らにしゃがみ込むと、雑嚢の中から一本のペンチを取り出し、黒々と塗られた物体の蓋に臆せず手をかけた。と、背後から不安げな視線を送る向坂の姿を見つけ、苦笑をもらした。

「大丈夫。秋口は蓋開けたら爆発、なんて卑怯な真似するやつじゃない」

 どこか知った口調でそう言うと、針金で固定された外蓋を強引に引きちぎった。ばきっとプラスティック独特のちゃちな音が小さく響き、生々しいまでの内部を光の下に晒した。赤と青のコードが複雑に絡み合う内部は、幾重にも精密な接続部を持つ人間の血管のようだ。最上部に固定された意味不明の文字を表示させる文字盤が物体の異様さを助長させている。その奇妙な光景を舐めるように見回すと、背後で目を瞠る向坂へと不意に笑みを漏らした。

 「こいつは手を出させないための装飾だな。本当はもっと単純なつくりだ」

 例えば……と呟くと、含みのある瞳でコードの一本を手に取る。その直後、躊躇う事無く矢萩はそのコードを接続部から引き抜いた。「テレビドラマなんかである、コードの二択。あれと同じ原理だろう。コードの殆どはあんたたち爆発物の知識のない者を欺くためのダミーだ」

 「何故、そんなことを……」

 キララの持つ技術力を知っている向坂が、疑問の声を上げた。こんなことをせずとも、より強力な爆発物を容易に作れるはずだ。なによりそっちの方が国家に与える精神的衝撃は大きい。しかしその疑問さえ一言吹き飛ばし、矢萩は意味ありげに築かれた無意味なコードの闇を見つめた。

 「その意味は簡単。彼、秋口がこの事態を単なる脅しとしてしか利用していないこと。爆発してくれた方がいいことはいいが、もしも解体されたとしてもどうということのない事情がある。そして、その事情の正体が……!」

 コードの奥。この化け物の心臓部に潜んでいるであろうモノへと、矢萩は戸惑う事無く手を伸ばし、物体の体内へと右腕を突っ込んだ。

 

 

2006,8