:犬たちは雌伏する:

 

 

 見渡す限りの白は、名畑には見慣れた光景であった。行きかう人間の緩やかな時間が流れ、薬品の微香が鼻をくすぐった。東京郊外の病院。その中にある病棟の一つに、名畑たち三人はいた。

 二人の男を先導する向坂の歩みには迷いがなく、最も奥に位置する病室の扉へと向き直った。

 「ここです」

 差し込む日が、向坂の示した扉を照らし出す。外の世界と切り離すように閉められた病室の扉を開け、矢萩を中へと招き入れた。窓辺で白いカーテンがはためく。窓辺のベッドに横たわり窓の外を眺めていた人影が、気づいたように振り返る。逆光を浴び、口元を緩めた男が懐かしげに口を開く。舌足らずな口調で、「隊長」と呟いた彼の姿に、矢萩が驚いたように目を丸くする。傍らに避けた向坂が扉を後ろ手に閉め、悲しげに目を伏せた。

 「……何があった?」

 「『NEO』ですよ。私は腰から下の神経と、舌や喉の機能を食われました。今では車椅子がなければ移動すらもままなりません。それどころか、気をつけていないと物を飲み込むときも上手く飲み込むことが出来ない有様ですよ」

 苦笑を浮かべ、矢萩を見つめた元「TWD」の男が、傍らに立った向坂へと視線を移す。

 「これでも私は軽い方です。仲間には、寝たきりになったものも、植物状態になったものさえいる。けど、誤解しないでください。我々は決して貴方を恨んではいない。むしろ、今は感謝すらしているんです。

 我々は、社会の裏側を見つめすぎた……自分の暮らす日本という国家さえ信じられなくなっていました。

 でも、今は違う。ここに来て、たくさんのことを考えることができるようになった。警察の、国家の一員としてしか生きられなかった俺が、今一人の人間として時間を使えるようになった。自分が大人の、一人の人間だとようやく気づいたんです。俺は国家を、警察組織を自分自身だと錯覚していた。たぶん、日本人の殆どが未だ、国、組織、宗教という曖昧な集団を、自分だと錯覚しているんだ。

 あなたは、それを気づかせてくれた」

 裏切ったことすら咎めることもなく、彼は優しげな瞳を窓の外へと向けなおした。何もかもを受け入れ、諦めるのではなく赦した人間。むしろ、罵ってくれた方がいくら楽だっただろう。不意に頬を伝った生暖かい何かを意識しながら、矢萩は「……すまなかった」と頭を下げていた。

 「隊長。貴方には、他にすることがあるはずです。……そのために帰ってきたんでしょう?」

 全てを察しているらしい男が呟く。純白に染められた小さな空間は、どこか黄泉にも近い、現実離れした雰囲気を孕んでいた。

 「貴方は、貴方が信じた道を、進んでみてください。俺が信じた道の終着点は、ここだった。肉体の自由はかけてしまったけれど、それ以上に、今は満たされているんです。俺の選択は間違ってなかったんだなあって。

 隊長の終着点はどこでしょうね? 貴方が進む限り、道は続くんですから」

 柔らかく紡ぎだされる言葉の一つ一つが、叱咤のように矢萩の胸を射た。開け放した窓から、楽しそうな子供たちの声が漏れ聞こえる。カーテンを揺らしたそよ風が、矢萩の僅かに濡れた肌を撫でていった。

 親切心か、向坂もそ知らぬ顔でそっぽを向いている。部下たちの何気ない計らいに微かに笑みを漏らし、頬に伝う雫を拭った。

 「失礼します、向坂警部補。本部から入電、緊急です!」

 「何事だ」

 「ケルベロスより、犯行声明らしきものを奪取。キララです」

 廊下で待機していた名畑が慌てた声を上げる。すぐさま姿勢を正し、「読め!」と命じた向坂へと、扉を開けた名畑がメモ帳に目を通し、読み上げ始めた。

 「『本日、十七時二十五分。上崎総合病院にて』データ名は……『The bomb』……っ!」

 「爆弾か……!」

 苦々しげに吐き捨てた向坂が、手にしたコートを羽織り、廊下へと駆け出す。上崎総合病院なら、ここから二時間弱。今ここを出て、ギリギリ間に合うかどうかだ。「あの子も大変だ」と呟いた男が、「いってらっしゃい」と矢萩に笑いかけた。

 「後ろを振り向かないでください。貴方は止まると、なかなか走り出せませんから」

 さよなら、と小さく付け加えた男が、再び窓の外へと視線を移す。「急いで!」と急かす名畑を後に続き病室を出た矢萩の背後から、男の歌う鼻歌、アメージング・グレースが絶え間なく響いてきた。

 

神奈川県の郊外。電車に揺られ、神奈川の端ほど、国道を逸れ、道の細くなった奥まで行くと、そこは本当に関東かと疑うほどの風景が広がっている。私道に敷かれた干草の乾いた感触を感じながら、花火は一心に歩を進めていた。時折鼻をくすぐる自然の香りを楽しみながら。

 駅から二十分ほど歩いただろうか? たわわに実をつけた色とりどりの野菜の並ぶ畑の先に、一つの家を見つける。隣に小ぢんまりとした馬小屋の存在も見つけ、花火は知らず走り出していた。目に映る風景、一つ一つが飛ぶように通り過ぎていく。肌を刺す沖縄よりも冷たい風に、ほんの少し鼻が痛くなった。

 馬小屋の奥に作られた牛舎に、一人の人影を見つけ、さらにスピードを上げる。近付いてくる足音を聞きつけたのか、大きなスコップを手にした男がこちらに振り向いた。

 飛びつくようにその背に抱きつくと、男は驚いた声を上げ、前に二、三歩つんのめった。

 「おおーっ!誰かと思ったら、お前さんかあ。懐かしいなあ、ええと……」

 振り返った男が、嬉しそうに声を上げる。語尾を濁した男へと、花火がメモ帳を翳す。『花火』と書かれた小さな文字を目に留め、男はそうだったな、と笑った。

 「何時こっちに戻ってきてたんだ? もしかすると、矢萩も一緒か」

 『今朝。コウスケは、警視庁の人と行っちゃって別行動』

 「警視庁?」と訝しげに口にした男に、ペンを走らせた花火が再びメモ帳を見せた。

 『ヒロミチは? 今まで何してた?』

 「俺か?俺は、アレだ。こっちで野菜作ったり、引退した競走馬引き取ったり、まあ細々とやってるよ」

 博通と呼ばれた男が、豪快な笑みを浮かべる。思い立ったように「そう言やあ、お前何しに来たんだ?」と口にした博通に対し、花火は今までの屈託のない笑みを僅かに消した。

 『ケータイ。返してもらいに来た』

ノートに綴られた一文を見つめ、事情を察したらしい博通が「そうか」と呟く。

 「……ついに決心したんだな」

 花火が静かに頷く。そのどこか悲しげな、それでいて清々しい姿を眺めながら、博通は「ちょっと待ってろ」と肩を叩いた。

 「だいぶ経っちまったからな。少し探さなきゃならねえや」

 豪快な笑い声を上げ、母屋へと向かう博通の背を見送り、花火は見通しの良い山々へと目を移す。微かに喉を突いて出たのは、矢萩が良く歌っているあの宗教歌の旋律。太目の馬小屋の柵に身を預けると、どこからかやってきた一頭の馬が花火へと顔を擦り付けてきた。掠れ、途切れ途切れに呟かれる旋律を耳にしたのか、軽く手を上げた博通が、抱えた雑嚢の中を弄っている。「お、あったあった」と呟くと手のひら大の物体を放ってよこした。

 「あれから、ずっと電源切ってたからなあ。充電はたぶん、大丈夫だろう」

 手にした小箱を手の中で懐かしげに転がす花火を覗き込み、「まあ、開けてみてのお楽しみってこった」と口にした。

 二つ折り式のケータイ電話は普通のものより若干重く、花火の手にしっくりと馴染む。プラスティックの開く軽い音を聞きながら、花火は電源ボタンに手をかけた。旧式電話のマークのついた小さめのボタンを三秒ほど押し続ける。すると、今まで真っ黒に染められ、何も映すことの無かったディスプレイが白く光を発し、久しぶりに産声を上げた。

 懐かしいシンプルな待ち受け画面に、新着メールの文字を見つけ、花火は微かに首を傾げる。通信手段として利用することの少なかったこのケータイに、いったい誰が?

 手馴れた様子で立ち上げ操作を行うと、殆ど開いたことのないメールボックスを選択する。ぴっとケータイ独特の操作音を立て、受信メールボックスが開かれる。送信者の名前が一覧で表示された画面を目に、花火は息をのんだ。

 『送信者 秋口光範』

 同じく画面を覗き込み、驚愕の目を向けた博通と視線を合わせ、恐る恐るそのメールの一つを開く。真っ白に染められた画面には、実に簡潔で機械的な文章が並んでいた。

 『九月二十九日 沖縄県鹿沼総合病院』

 向坂が言っていた日付だ。慌てて他のものも開いていくと、一様に日付と場所。さらには、工作方法さえ付け加えられた無機質な画面が並ぶ。

 「これは……!」

 吐き捨てるように呟いた博通に対し、犯行予告……と微かに口を動かした花火が、問う目を向ける。すると突如、今まで沈黙を保っていた小型の箱が、宗教歌に似たメロディを流しだす。耳慣れない着信メロディを前に、再び画面に目を落とした花火の目に飛び込んできたのは、メール受信中の文字と簡単なムービー。

 受信を終えたケータイ電話へと指をかけ、閉じられたメールボックスを再度開く。新着の文字とともに表示された『秋口光範』の名が、異様なほどの恐怖を煽っていた。

 『本日、十七時二十五分。上崎総合病院にて』

 『The bomb』と題されたメールを瞳に映し、花火が慌てた様子で博通に訴える目を向けた。間に合わないかもしれない。即座に馬小屋の戸を開けた博通が「コイツを使え」と叫ぶ。

 「残念ながら、俺は行けねえ。目を悪くしてな、車を使えねえんだ。呼べる仲間も、タクシーを呼んだとしても来るまでに最低二時間はかかる。

知ってるか? 馬って道路交通法じゃ車両扱いなんだぜ。田舎や島なんかじゃ、堂々と道を通ってる。引退したとはいえ、コイツの足は確かだ。安心しな」

 「道、分かるな」と問う博通へと力強く頷き、連れられた漆黒の馬へと軽々と跨った。

 「お前のことだ。何かあっても、矢萩が何とかしてくれるさ。これは餞別だ。もってけ」

 半ば強引に手渡された雑嚢の中を覗き、もう一度深く頷いた花火がありがとうと口を動かす。しっかりと前を見据え、足をかけた鐙へと力を込める。馬の横腹を軽く蹴り、合図を与えると、漆黒の馬はまるで何年もともに走った相棒のように素直に走り出した。

 遠ざかる馬の蹄の音を聞きながら、博通は心から彼らの無事を願っていた。

 

 

2006,8