「本当に帰るんですか? 任務はまだ終わってないと……」

 不満げな名畑の問いに、「仕方ない。命令だからな」と返す。朝らしい独特の淡い陽射しが延びる海岸線を雄大に照らし出し、何処からか鳥の鳴き声が響く。秋の初めだというのにここ沖縄は未だ早朝であっても包み込むような温かさが漂っていた。

 「せめて、挨拶くらいしていきましょうよ。矢萩警視にはいろいろとお世話になったんだし」

 会ってくれるかは分からないけど、と付け加え、名畑は海岸線の奥を指差す。島のメインロードに続く抜け道の先には、彼らが暮らす小さな店があるはずだった。

 「後任に引き継ぐんだ。これ以上余計なことをして、また上から言われるのは真っ平よ」

 「これは仕事じゃありません。人間として当然の礼儀というもんです。結局昨日は、一日中ホテルから出られなかったし、今しかありませんよ。ほら、定期船の時間まではまだ時間がある」

 ちらと腕時計に目をやり、名畑は強情に不満を漏らす上司の背を押す。仕方なく波止場と逆方向へと歩き始めた向坂の隣で、どこか誇らしげに名畑が並んだ。

 この島には、東京に存在するような雑踏も何もない。しかし、いくらかの滞在の中で見つけた、都会にはない魅力もある。都会育ちの名畑にとって、僅かであっても時間を過ごしたこの島から離れるのが、少しばかり名残惜しかったこともある。矢萩たちが戻ってきたがるのも今なら分かるかもしれない、と心の中で呟きながら、すっかり通いなれた店の看板を遠目に捉えた。

 飾り彫りの施された扉の前に、一人の人影を見つけ、「花火ちゃん!」と声をかけた。振り向いた少女の手は、扉に張られた紙に這わされている。

 「今日は開店遅いね。まだ、準備中?」

 歩み寄ってきた名畑と向坂へと微かに微笑みかけ、身に着けたエプロンのポケットからペンとメモ帳を取り出す。その中の一ページを開き、さらさらとペンを走らせた花火が、そのメモ帳を二人へと見せた。

 『今日から暫くお休み。お得意さんへのあいさつ回りは昨日で済ませたから、今日の仕事はこれだけ』

 「休み……?」

 訝しげに呟いた向坂へと、花火は新たに書き加えた一文を見せる。

 『コウスケがあなたを待ってた。店の裏口に居るから』

 ぴょんと跳ねるように手元に置かれたバケツを手に取り、花火は店の扉を開け、用具の片づけへと走っていった。残像のように響くドアベルが、向坂の疑念を濃くしていた。

――「わぁってるよ。帰ってくるまでの店の管理だろ? 任せとけ、俺を誰だと思っているんだ。天下の山口智宏様だぞ?

大丈夫、上手くやるって」

 本当か? と疑惑の目を向けた矢萩に向かって軽く手を振る。その手元に置かれた大きな荷物が、これからどうなるかも分からない彼の真実であった。

 「もし、何かあったら兄貴に言えばいい。話は通しておくから」

 ああそうだ、とポケットを探る。取り出された一枚の黒くひらべったい物体を、矢萩の手に握らせた。

 「持って行け。きっと役に立つ」

開いた手のひらには、青白い花弁を模したマークの施された一枚のフロッピーが。真っ直ぐに向けてくる智宏の目を見つめ、矢萩は静かに頷いた。

 店を迂回する小道の奥から、二人分の思い足音が聞こえてくる。ようやく来たか、と心の中で呟くと、視界に捉えた人影に軽く手を上げた。

 「どういうことですか? 店を休むって、このまま他国にでも高飛びを……」

 安西の言葉が胸を過ぎる。彼はじき消される。キララからか、政府からか……。疑念を隠す事無くぶつけてきた向坂に、苦笑を返す。

 「帰るんだろう? 警視庁には昨日連絡を取った。一度は裏切った私を、受け入れてくれるそうだ」

 手元に置かれた荷物に目を移し、暗に語った矢萩の瞳が、ふっと初めの頃のような温和な色を宿した。

 「協力……していただけるんですか?」

 目を見開いた向坂が、手にした手提げ鞄を握り締める。期待の篭った視線を真っ直ぐに受け止め、矢萩は苦笑を浮かべた。

 「何処に逃げたって同じなら、逃げない方がましなのかもしれない。四十にもなって、ようやく見えてきたのかもしれないな」

 矢萩の言葉に呼応したように、今まで沈黙を保っていた扉が勢いよく開く。中から駆け出してきたのは、あの小柄な少女だった。

 『私も連れてって』

強い意志の目を向け、唇が足早に言葉を形作る。読み取った矢萩が一瞬眉を顰め、内容さえ分かっていない周囲を一瞥して、口を開く。

 「でもな、あっちには昔の知り合いもいる。……辛い思いをするかもしれないんだぞ」

 『平気。ここで待ってるほうがよっぽど不安よ。ちゃんと役に立つから』

 「それじゃあ、俺が行く意味がない……」

 『コウスケまで私を置いていくの?』

 幼子が見せるような非難の瞳が、矢萩の姿を映す。仕方ない。ため息を一つ漏らし、矢萩は背後に立つ部下へと向き直ると、困ったような笑みを浮かべた。

 「悪いが……この子も連れて行っていいか? どうしても行くと聞かない」

 紡がれた言葉に、驚きを隠せない名畑の横で、呆れたように向坂が目頭を押さえる。そのまま花火の瞳を見つめ、本気なのかと視線で問うと、まっすぐな意思が返ってきた。女同士はどこか容赦がない。恐らく嘘ではないだろう、と察した向坂が「仕方ありません」とため息を吐いた。

 「一人分くらい、旅費が増えたってどうってことないわ。どうせ部長に経費で落とさせるもの」

 ふてくされたように顔を背けた向坂とは対照的に、矢萩の前に立っていた花火の表情がぱっと華やぐ。微かに口元を動かすと、すぐさま裏口の扉を開け、荷物を取りに戻っていく。遠くに花火の足音を聞きながら向坂の方を振り返った矢萩が、「ありがとうだと」と苦笑を浮かべる。

 「あの子のためじゃないわ。こんな事で協力を拒否されたら困るもの」

 

 東京都、羽田空港。国内線を網羅するこの巨大な入れ物の中で、彼らの姿は一見するなら単なる旅行者か何かだっただろう。

「表に迎えが来ているはずです。このまま桜田門に直帰します」と足早に報告した向坂の下へ、遠くからかけてくる男が一人。何事か鼻時手いるところを見ると、おそらく彼女が言う迎えの警視庁の者だろう。名畑も一歩ひいて意見を言っている。この場では完全に部外者と化した己の身を思い、矢萩は微かに笑みを漏らす。

 しかしその笑みも、戸惑うように袖を引かれたことで打ち消されることになる。自分の右隣へと目を移すと、どこか不安げな花火が傍らに立つ矢萩を見上げていた。

 「どうした?」

 僅かに腰を曲げた矢萩の耳元へ、花火が口元を寄せる。呟かれた懐かしい声に、「……わかった。行って来い」と返した矢萩の隣を、駆け出した花火が通り過ぎる。向坂たちが立つ出口とは逆方向へと走り去った花火の背を見送り、戻ってきた向坂たちへと向き直った。

 「話はつきましたよ。あれ?花火ちゃんは?」

 「少し用があって、顔なじみのところへと寄ってくるそうだ。心配しなくても東京の地理は把握しているから、そのうち帰ってくるよ」

 そつなく返した矢萩へ疑念の目を向けた名畑へと、「あいつも今年で十七だぞ」と苦笑を漏らす。「年齢でいくと、高校生だ」

 「ああ、そうか」

 仕草一つ一つが幼く見えるせいか、十そこそこに感じていたらしい名畑が、納得の声を上げた。表に乗り付けられていた黒い車へと乗り込むと、エンジン音を轟かせ、警視庁本部への道を辿る。懐かしい東京の雑踏を目に映していると、車は大きなビルが立ち並ぶ東京の心臓部へと入る。

聳え立つ巨大なビル群の中でもひときわ矢萩の目を引いたのが、昔は足げなくかよった二棟の建物だった。警察庁と同じ敷地に立つ、警視庁本部。絶える事無く人の行きかう入り口へと頭を向けた車が、ゆっくりと停車する。そそくさと建物の玄関口へと降り立った向坂が、矢萩の乗る後部座席のドアを開けた。無意識に行ったであろうことも承知の上で、矢萩は二度と踏みしめることはないと思っていた土を踏んだ。

いくつか階段を上り、奥まった場所へと先導される。斜め前を歩いていた向坂が、一枚の扉の前で立ち止まると、軽くノックをした。

 「向坂瑞穂、名畑勇一。矢萩警視をお連れしました」

 「入れ」と続いた声を合図に、向坂がノブを回す。久方ぶりに見た公安部元「TWD」本部は、キララ調査という名目の下、変わらず数多の書類によって占拠されていた。忙しなく行き来する者は皆矢萩の知るものではなく、六年という時間の長さを物語っている。

 その最奥、ひときわ大きなデスクに陣取り、何事か書き付けていた男が「無事で何より」と顔を上げた。

 「沖縄はどうだったかね? 十分楽しめたか」

 のんきに言った五十ほどの男に向かって、向坂が「そんな訳ないでしょう」とため息交じりに漏らした。

 「矢萩警視。こちらは、宇崎部長。私たちの新しい上司です」

 背後に立つ矢萩へと向き直り、向坂が言った。宇崎と呼ばれた小柄な男が、僅かに口元を緩め、会釈した。

 「君には、上から特別に警察官としての任が下りた。地位も現役時代のままだ。ここの備品、調査資料などは自由に使ってもらって構わない。

 着いてすぐで悪いが、キララに対しての情報をいくらかもらえるか? サーバーから進入したケルベロスに殆どのデータを改ざんされたんでね」

 書類の束を卓上に投げ出す。それを手にした向坂が、離れていた分を取り戻そうと書類に目を通し始めた。示された部屋の中央のソファーに腰掛け、矢萩が思い出すように口を開く。

 「秋口のことだろう? 本名、秋口(みつ)(のり)確か今年で四十二になるはずだ。といっても、外見は三十代くらいにしか見えないがね」

 手にした荷物の中から一枚の写真を取り出す。隠し撮ったものらしい不自然な角度の写真に写っていたのは、何人かの男に囲まれ振り向いた一人の男の姿。その後ろには、深々とコートを被った人間の姿も見て取れた。

 その写真に目を通してから、宇崎は助かると呟いた。

 「他の組織と違って、内部の人間は正常だ。シャブも回っていないし、前衛部隊にいたっては酒、タバコすらも行わない。まさに政府を潰すための戦闘集団と言ってもいいな」

「メンバーは?」

「大抵は社会に不満を持つものたちだ。中には暴力団や各国軍人上がりのものさえいる」

 渡された写真を睨みつけ、「面倒だな」と呟いた宇崎へと微かに頷いた矢萩が、足を組みなおした。

 「武装は昔より発達していると思っていいだろう。武器の入手先が多様になったからな」

 今ではインターネットという便利な道具がある。それさえ上手く使えば、実弾さえ入手可能な現代の実情があった。

 「そうか」と席を立った宇崎が、立ち寄ってきた部下から一束の書類を受け取る。ちらりと一瞥を送り、向坂へと放った。

 「疲れているところ、悪かったな。今日はもういいから、ホテルに戻って……」

 手渡された書類に目を通し、向坂が「でしたら少し、ご足労願えませんでしょうか」と口にした。

 「お見せしたいものがあります」

 

 

2006,8